後醍醐天皇と袂を分かった足利尊氏は、九州で再起を果たし、京を目指して進軍していきます。
なお、建武の新政の成立及び足利尊氏と建武政権の対立(建武政権が勝っていた序盤戦→足利尊氏が逆転した終盤戦)については、別稿をご参照ください。
京に攻め上った足利尊氏は、後醍醐天皇を追い払った上で光明天皇を擁立し、その下で室町幕府を開きます。
本稿では、この足利尊氏入京から室町幕府の成立について見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
建武の新生の終焉
後醍醐天皇逃亡(1336年5月25日)
建武3年(1336年)5月25日、湊川の戦いで楠木正成・新田義貞らを破ります。
湊川の戦いに敗れた楠木正成は自害し、新田義貞は京へ逃げ帰ります。
京に戻った新田義貞は、足利尊氏が京に上って来る前に後醍醐天皇・公家らを連れて三種の神器と共に比叡山に逃れます。
足利尊氏入京(1336年5月25日)
新田義貞に遅れて京に入った足利尊氏は、東寺に入って陣所とし、京に残っていた光厳上皇に目通りをします。
その上で、足利尊氏と光厳上皇は協議の上で、光厳上皇を治天の君に擁立した上で、その弟豊仁(後の光明天皇)を天皇に据えることとします。
もっとも、この謀議には難点がありました。
天皇の要件となる三種の神器は後醍醐天皇が持っていますので、光厳上皇・足利尊氏方に天皇を擁立する正当性の根拠がありません。
そこで、足利尊氏は、後醍醐天皇から三種の神器を奪い取ろうとする強硬策をとります。
足利尊氏比叡山攻撃(1336年5月27日)
まず、足利尊氏は比叡山の東西に軍を回して比叡山に迫ります。
他方、後醍醐天皇側も回り込んでくる足利尊氏軍にそれぞれ防衛の軍を派遣します(主に、西側は千種忠顕軍、東側は新田義貞・名和長年・脇屋義助軍です。)。
ここで、一進一退の攻防が続きます。なお、このときの西側の戦いでは、後醍醐天皇方の忠臣・千種忠顕が、延元元年/建武3年(1336年)6月7日、足利直義に敗れて山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で戦死しています。
足利尊氏軍は一旦京に撤退し、後醍醐天皇軍はそれを追撃しますがこれは撃退され、戦線は膠着します。
なお、このとき足利尊氏がいる東寺に東側から迫った新田義貞が、足利尊氏に対して一騎打ちを求め、足利尊氏がこれに応じるため東側から出て行こうとした際、部下の上杉伊豆守らに止められて東側の門から出られなかったというエピソードが残されており、これが東寺の東門が不開門と呼ばれる理由です。
その後、新田義貞は比叡山に向かって撤退していくのですが、延元元年/建武3年(1336年)6月30日、追撃してくる足利軍と戦い、名和長年が一条大宮で討ち死にしています。
このときの名和長年の戦死により、「三木一草」と呼ばれた後醍醐天皇の建武政権下で重用された以下の4人の寵臣が死亡し、後醍醐天皇は苦境に立たされることとなりました。なお、「三木一草」とは、結城親光・名和長年・楠木正成・千種忠顕の総称で、「ユウキ」、「ホウキ(名和が伯耆守であったため)」、「クスノキ」、「チクサ」と4人の姓や官職の読みにちなみます。
①結城親光の戦死(1336年1月11日)
結城親光は、延元元年/建武3年(1336年)1月11日、足利尊氏を暗殺するため偽って降伏したのですが見破られて殺されています。
②楠木正成の戦死(1336年5月25日)
楠木正成は、延元元年/建武3年(1336年)5月25日、湊川の戦いで戦死しています。
③ 千種忠顕の戦死(1336年6月7日)
千種忠顕は、延元元年/建武3年(1336年)6月7日、京に入った足利尊氏から後醍醐天皇がいる比叡山を守る戦いの際、足利直義軍と戦って敗れ戦死しています。
④名和長年の戦死(1336年6月30日)
名和長年は、延元元年/建武3年(1336年)6月30日、足利尊氏を追って東寺に攻めんこんだ後の撤退戦の際、追撃してくる足利軍と戦って一条大宮で戦死しています。
足利尊氏による兵糧攻め
戦いを繰り返してもなかなか後醍醐天皇方を屈服させることができなかった足利尊氏は、戦略を力攻めこら兵糧攻めに変更します。
具体的には、琵琶湖水運をストップさせ、後醍醐天皇がいる比叡山に物資が届かないようにして、そのあぶり出しを試みたのです。
実際、物資が届かなくなって困った比叡山としては、その原因である後醍醐天皇の扱いに苦慮するようになります。
足利尊氏から後醍醐天皇への申し入れ
そんな中、足利尊氏は、渦中の後醍醐天皇の下へ、「降伏するなら官職や所領を返還する」との和議の申し入れを届けます。
後醍醐天皇は、足利尊氏の申し入れを疑いはしたのでしょうが、そのまま比叡山に留まっても飢えるだけですので、やむなく保険として、新田義貞・尊良親王・恒良親王を越前国に、北畠親房を伊勢国に送り込むなどしておき、足利尊氏と会うために京へ向かいます。
北朝・光明天皇即位(1336年8月15日)
そんな中、足利尊氏から治天の君に推戴された光厳上皇の院宣により、延元元年/建武3年(1336年) 8月15日に豊仁が即位します(光明天皇)。
この時点では、三種の神器は後醍醐天皇が持っており、また後醍醐天皇は退位をしていませんので2人の天皇が並び立つ複雑な状態となります。
後醍醐天皇幽閉(1336年10月10日)
もっとも、この後、京に向かった後醍醐天皇は、法勝寺にたどり着いた際、足利尊氏から派遣された足利直義によって、光明天皇即位のために三種の神器を渡すよう求められます。
この申し出に驚いた後醍醐天皇ですが、騙されたことがわかっても京に入ってしまえば足利尊氏に抵抗する術はなく、延元元年/建武3年(1336年)11月2日、しぶしぶ足利直義に三種の神器を渡します(後醍醐天皇は、このとき渡した三種の神器は偽物であると言っています。)。
これにより、天皇親政を目指した建武の新政は終焉を迎えます。
そして、三種の神器を取り上げられた後醍醐天皇は、そのまま京の花山院に連れていかれて幽閉されます。
室町幕府の成立
建武式目制定(1336年11月7日)
足利尊氏は、延元元年/建武3年(1336年)11月7日、室町幕府の施政方針を示した式目である建武式目により新たな武家政権の施政方針を示します。
なお、建武式目は、足利尊氏の諮問に対し、法学者の是円(中原章賢)・真恵兄弟らが答申するという形式で作成されています。
足利尊氏による施政方針の公示により(建武式目制定により)、室町幕府が成立したと考えるのが一般的です。
「室町」幕府という名前の由来
足利尊氏の将軍御所は「二条高倉」にありましたし、足利義詮の将軍御所は「三条坊門」にありましたので、当初は室町幕府という呼び名はありませんでした。
足利将軍家による幕府ご室町幕府と呼ばれるに至ったのは、3代将軍の足利義満が、天授4年/永和4年(1378年)に邸宅・幕府の政庁をそれまでの三条坊門から北小路室町に移したことに由来します。
この邸宅が後に「花の御所」とも言われ、その所在地が室町にあったことから、足利将軍家による幕府が「室町幕府」と呼ばれるようになったのです。
南北朝時代の始まり
南朝成立(1336年12月21日)
幽閉された後醍醐天皇ですが、その強烈なキャラクターから黙っていられるはずもありません。
後醍醐天皇は、延元元年/建武3年(1336年)12月21日、隙を見て花山院から脱出して吉野に向かい、そこで新たな朝廷を立ち上げます(南朝)。
これに対し、京に残った光明天皇・光厳上皇の朝廷も存在しますので(北朝)、日本国内に北朝と南朝の2つの朝廷が併存していくこととなります。
いわゆる南北朝時代の始まりです。
南朝(後醍醐天皇方)武将の動向
「三木一草」を失った南朝(後醍醐天皇)方では、鎮守府将軍として東北にいる北畠顕家、越前国の新田義貞・尊良親王・恒良親王、伊勢国の北畠親房が主戦力となりますが、以下のとおり次々と失われていきます。なお、河内国には楠木正成の子である楠木正行もいましたがこのときはまだ力不足です。
①北畠顕家の死(1338年5月22日)
北畠顕家は、延元元年/建武3年(1336年)2月3日の豊島河原の戦いで楠木正成らと共に足利尊氏を九州に追い払った後、鎮守府将軍として、義良親王(後の後村上天皇)と共に陸奥国に戻っていました。
そんな中、鎮守府将軍として陸奥国の霊山城(福島県相馬市および伊達市)にいた北畠顕家の下に、吉野にいる後醍醐天皇から京にいる足利尊氏を追い落とし京を奪還するように指示する手紙が届きます。
もっとも、このころの奥州の情勢は不安定であり、北畠顕家も元々の本拠地であった多賀城を捨てて霊山城に本拠地を移したばかりで、すぐに京に向かうことはできませんでした。
そして、北畠顕家は、なんとか奥州の情勢を取りまとめ、延元2年/建武4年(1337年)8月、後醍醐天皇の命に従って京に向かって進軍して行きます。
北畠顕家は、途中、迎撃してきた足利義詮(足利尊氏の嫡男)の軍勢を打ち破ります。(利根川の戦い)。
ここで、中先代の乱で足利尊氏に敗れ伊豆国に埋伏していた北条時行が北畠顕家に味方し、また上野国の新田義興(新田義貞の次男)も合流して軍勢が膨れ上がった北畠顕家軍は、そのまま足利義詮が守る鎌倉を攻略します。
鎌倉を攻略した北畠顕家軍は、その勢いのまま東海道を西進して行きます。
西進する北畠顕家軍は、美濃国に到達し、延元3年/建武5年(1338年)1月28日~29日、美濃を守る足利尊氏方の土岐頼遠を撃破します(青野原の戦い)。
これに対し、京の足利尊氏は、高師泰・高師冬・佐々木道誉らを近江国に派遣し、北畠顕家軍の進軍を止めようとします。
ところが,大軍に近江国ルートを遮られた北畠顕家は、正面突破は困難と考えたのか、南側に進路を変えて伊勢国、伊賀国を経て後醍醐天皇のいる吉野へ向かったのです。。
北畠顕家軍は、南側から伊賀国を越え、大和国に入りますが、ここに京の足利尊氏方から高師直・高師冬・桃井直常らが迎撃に向かって戦闘となります(般若坂の戦い)。
このときは、北畠顕家軍が破れ、北畠顕家は西に向かって落ちて行きます。なお、危険を感じた北畠顕家は、旗印でもあった義良(後の南朝2代・後村上天皇)を吉野に送り届けています。
その後、河内国にたどり着いた北畠顕家に対し、高師直が追撃してきます。
このとき、北畠顕家は、必死にこれに抵抗するのですが、同年5月22日、和泉国堺浦・石津に追い詰められ、高師直の軍に討ち取られました(石津の戦い)。
花将軍と言われた北畠顕家の最期です。花将軍と言われた貴公子の享年21歳という若すぎる死でした。
②新田義貞の死(1338年7月2日)
新田義貞は、後醍醐天皇が比叡山を出て京に向かった際、恒良親王・尊良親王、子の新田義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み敦賀を目指します。なお、新田義貞は、比叡山を離れ北へ下向する際、日吉山王社に立ち寄り先祖伝来の鬼切太刀を奉納しています。
その後、足利方の追撃や雪中行軍により兵を大きく減らしながら、新田義貞は金ヶ崎城に入ります。
そして、新田義貞は、金ヶ崎城を本拠地として恒良親王・尊良親王と共に入り、周囲の支城に部下を配置していきます。
もっとも、その後も足利尊氏方の追撃軍が止むことはなく、延元2年/建武4年(1337年)1月18日には、高師直を総大将とする6万人の大軍に囲まれた金ヶ崎城は、兵糧が不足し、死人の肉すら食べた(太平記)とされる凄惨な戦いの後、同年3月6日、に金ヶ崎城は陥落します。
そして、金ヶ崎城落城の際、新田義貞は逃走に成功しますが、新田義顕・尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となります。
新田義貞は、北に向かって逃れ、杣山城を拠点として四散していた新田軍を糾合して足利に対抗するも、延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日、越前国藤島(福井市)の灯明寺畷にて、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に戦死します(藤島の戦い)。
足利尊氏の征夷大将軍就任
征夷大将軍任命(1338年8月11日)
配下の最大勢力であった北畠顕家と新田義貞を失った南朝の凋落は顕著となり、この時点では、もはや北朝と戦う力が残っていませんでした。
北朝の力が強くなり、その北朝の最大勢力である足利尊氏が、北朝から権大納言に任ぜられ「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在と見なされます。
そして、遂に延元3年/建武5年(1338年)8月11日、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられます。
南朝の政策変更
北畠顕家と新田義貞という2大勢力を失った南朝に、もはや京を奪還する力はありません。
そこで、後醍醐天皇は、中央ではなく、地方に小勢力を点在させる策をとります。
具体的には、常陸国を北畠親房に、遠江国を宗良親王に、懐良親王を征西将軍として九州にそれぞれ派遣して拠点を構築させます。なお、余談ですが、この後、懐良親王が明と交渉して日本国王に冊封されて明との日本における唯一の正規な通交相手となったため、足利義満が日明貿易引き継ごうとした際に大変苦労したことが知られています。
後醍醐天皇崩御(1339年9月18日)
南朝を設立した後醍醐天皇ですが、最後まで劣勢を覆すことができないまま、延元4年 /暦応 2年(1339年)8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位します。
そして、同年9月18日、病により崩御します。宝算52歳(満50歳)でした。
60年に亘る南北朝の動乱
前記のとおり、力を失った南朝が北朝に対して組織的反抗を行うことはできなかったのですが、観応の擾乱をはじめとする北朝内部での主導権争い、またこれに乗じた北朝と南朝を天秤にかけ裏切りを続けながら独自の勢力を高めようとする守護大名の勃興によって室町幕府の擁する北朝と、南朝とで血で血を洗う争いが繰り広げられるようになります。
この南北朝の動乱は、元中9年/明徳3年(1392年)に足利義満によって南朝が解消される形で南北朝の合一(明徳の和約)されるまで続くのですが、長くなりますのでその話はまた別稿でしたいと思います。