【武田信繁】甲斐武田家の絶対的ナンバー2である武田信玄の実弟

最強武田軍のナンバー2といえば?もしもこの人が生きていたら武田軍滅亡はなかったのではないか?と言われて誰もが思い描く武田信繁。

本稿では、才に恵まれ欠点がほぼ見当たらないパーフェクトヒューマンであり、甲斐武田家を継ぐ可能性があったにもかかわらず、兄武田信玄の脇役に徹したという武田信繁の生涯について見ていきましょう。

武田信繁の出自

武田家内での武田信繁の評価

武田信繁は、大永5年(1525年)、甲斐武田氏18代・武田信虎の子として生まれます。幼名は次郎といいました。

武田信繁は、幼い頃から武田家の嫡男である4歳年上の同母兄・武田信玄と比べられて育ちましたが、その評価は常に武田信繁が上回っていました。

馬に乗っても落馬ばかりする武田信玄に対し武田信繁は巧みに乗りこなしたり、また「据物切り」という罪人を切って刀の切れ味を試すときには、足が震えて切り先も定まらなかったため切ることができなかった武田信玄に対し、武田信繁はこともなく成功させるなど、そのエピソードには枚挙にいとまがありません。

もっとも、当の武田信繁本人は、偉ぶることもなく常に武田信玄を敬い、尊敬していたそうです。

また、元服についても、武田信玄と武田信繁同時に行うとの話が出て来たのですが、武田信繁は、武田信玄の許しなく元服などできないと言って起請文まで提出してこれを断ったそうです。出来た弟です。

2人の父・武田信虎は、そんな武田信繁の才と人柄を愛し、武田信玄を廃して武田家の家督を武田信繁に譲ると言い始めます。

家中を分けた内紛につながりかねない、大問題の発言です。

武田信虎追放(1541年)

自らの立場が危うくなった武田信玄は、父・武田信虎追放の計画を立て、このクーデター計画を実行します(実際には,家臣団のクーデターの神輿であったとも考えられます。)。

天文10(1541)年、武田信虎は、娘婿の今川義元に会うため駿河国に出発したのですが、その際、武田信玄とその命を受けた板垣信方・甘利虎泰に国境を封鎖して、武田信虎を駿河国に事実上追放してしまったのです。

武田信玄21歳、武田信繁17歳のときでした。

武田家ナンバー2としての大活躍

武田信玄は、父武田信虎を追放し甲斐武田家当主となると、満を持して信濃攻略戦を開始します。最初に攻撃したのは甲斐国と接する諏訪郡です。

この諏訪郡侵攻の中心人物として活躍したのが、重臣板垣信方と武田信繁です。

天文11年の諏訪侵攻において武田信繁が大将として宿老の板垣信方と共に主導して諏訪郡を攻略するとの大戦果を挙げます。

また、同年9月に一旦は武田と結んだ高遠頼継の反乱を起こした際も、武田信繁が総大将ととしてこれを鎮圧しています。

そして、諏訪を制圧した武田家は、板垣信方を諏訪郡代とし、武田信繁には諏訪衆を同心として付属させたといわれています。

その後、武田軍は順調に信濃侵攻を続けていきますが、天文17年(1548年)、北信濃の雄・村上義清と激突した武田軍は大敗北を喫し(上田原の戦い)、武田の最高幹部の2人であった板垣信方と甘利虎泰を一度に失います。

この敗戦は単なる局地戦の配線ではなく,武田軍の一大事でした。

武田軍敗北と武田軍を担う2トップが失われたとの報を聞いた信濃国の国衆達が武田家から距離を置き、旧領回復に動きだしたからです。

村上・小笠原・仁科・藤沢の反武田連合が成立し、小笠原永時が中心となって、武田家が苦労して制圧した諏訪郡・佐久郡に侵攻してくるなど武田家に苦難のときが訪れます。

この危機に対し、常に先陣に立って武田軍を鼓舞したのが武田信繁でした。

武田軍をまとめ上げた武田信繁は、一族を団結させて小笠原長時を打ち破ります(塩尻峠の戦い)。

また、武田信繁は、その後も、御一門衆(武田家臣団において武田姓を名乗ることを許された者。)において、武田信廉の武田逍遥軒家と並ぶ筆頭として武田信繁は活躍し、いくつもの戦場では武田の副将として武田晴信の名代を務めあげ、数々の武功を挙げています。

なお、武田信繁は軍事面だけでなく文人・行政官僚としても優秀で、さらには外交交渉も任されていたとされ、常に兄武田信玄のそばで支え続けた、まさに武田家の柱石でした。

優秀な家臣団として名高い武田二十四将の中でも、筆頭の副大将としても描かれているまさにパーフェクトな名将です。

この武田信繁の優秀さは、永禄元年(1558年)4月、彼が嫡子武田信豊に対して示した99箇条の家訓にもよく表れています。

早すぎる武田信繁の死(1561年9月10日)

そんなパーフェクトヒューマン武田信繁に早すぎる死が訪れます。

それは、永禄4年(1561年)、5回に亘る川中島の戦いのうちの唯一かつ最大の激戦となった第四次合戦(八幡原の戦い)で起こります。

武田家の将来を左右する大事な戦いである川中島の戦いには、当然に武田家ナンバー2である武田信繁も長子・望月信頼(武田信頼)とともに出陣しています。

合戦の経緯については諸説ありますが、従来の通説は、武田軍は、部隊を二つに分けて妻女山に陣取る上杉勢を別動隊1万2000人で攻撃し、山から下りてきた上杉軍を、待ち構えていた本隊8000人で叩くという、山本勘助発案の啄木鳥戦法ととったとされています。

このとき、武田信繁は、本隊8000人と共に本陣に布陣し、山の麓で降りてくるはずの上杉勢を待っていました。

ところが、ここで一大事が起こります。

上杉謙信が武田方の策を見破り、武田別動隊と交戦することなく、全軍で妻女山を下って武田家の本陣を奇襲してきたのです。

予想を裏切る奇襲に武田軍は大混乱に陥ります。

絶体絶命のピンチを迎えた武田軍の中、武田信繁は、兄・武田信玄に対し、上杉軍への対策を考えるよう言い残し、武田軍立て直しの時間を稼ぐために自ら兵を率いて最前線に赴き壮絶な討ち死にを遂げます。享年37歳の早すぎる死でした。

結局、この第4次川中島の戦いは、両軍入り交じる大混戦となって双方合わせて約7000人が戦死した痛み分けとなるという結果におわります。

その後、山寺左五左エ門により首だけは上杉方から取り戻すことはできたものの、家中のみならず、敵までもその死を惜しんだといわれています。

武田信玄は、武田信繁の遺体を抱きしめて泣いたと言われ、また慕っていた飯富昌景(後の山県昌景)もまた「惜しんでもなお惜しむべし」と、その死を悔やんだそうです。

なお、このとき、甲斐武田家は、一族を養子に出して征服した信濃国衆を懐柔させる方策を取っており、武田信繁は、嫡男・武田信豊は家に残し、長子・武田信頼を信濃佐久郡の望月氏の養子に出していたのですが、その望月信頼(武田信頼)も、この戦の戦いの傷により11日後に18歳の若さで亡くなっています。

武田信繁の菩提は、川中島の戦いから約60年後、松代城主となった松代藩主・真田信之(真田昌幸の嫡男、真田信繁の兄)によって、荒れていた自然石の墓を整備し、その場所にあった瑠璃光山鶴巣寺を改装して典厩寺(武田信繁の官職である左馬助の中国名である典厩から寺号をとりました。)と改め、弔われています。戒名は、松操院殿鶴山巣月大居士です。なお、武田信繁は、元服後典厩(てんきゅう、彼の官位である左馬助の中国名)を名乗っており、武田信繁の嫡男・武田信豊も同じく典厩を名乗ったことから、後世になって区別のため武田信繁を「古典厩」と呼ばれています。

また、余談ですが、誰からも愛され、また究極のナンバー2として絶大な評価をされる武田信繁は、武田家家中でも尊敬の的であり、真田昌幸は、後に生まれる次男について、武田信繁にあやかり、真田信繁と名づけています。

歴史のif

歴史にifは禁物ですが、もしも川中島で武田信繁が死んでいなかったら武田家はどうなったか考えてみると面白いかもしれません。

調整力・発言力を駆使して、武田義信の廃嫡を防げたのではないか、あるいは武田勝頼をうまく補佐して長篠の戦いや武田家滅亡を回避できたのではないかなど、考えだすと面白いのではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA