戦国時代の女城主と言えば誰を思い浮かべますか。
2017年度の大河ドラマ「おんな城主直虎」が放送されていたことから女城主=井伊直虎を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。
もっとも、戦国女城主は他にもいます。
本稿で紹介するのはそんな戦国女城主の中の1人で、織田家と武田家の間で翻弄され無残な最期を迎えることとなった「おつやの方」(艶、岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前ともいわれます)について見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
おつやの方の出自
おつやの方は、織田弾正忠家の当主織田信定(織田信長の祖父)の娘として生まれます。
織田信長の父である織田信秀の妹となるため、織田信長の叔母にあたります(もっとも、叔母と言っても、織田信長より4〜5歳程度年下であったと考えられています。)。
生年や幼いころの生活状況等はわかっていませんが、とても美しい女性であったそうです。
女城主おつやの方
東美濃・遠山景任に嫁ぐ(1562年ころ)
おつやの方は、織田家が美濃国斎藤家と同盟関係にあった頃に斎藤六宿老の1人であった日比野清実に嫁いだのですが、その後の織田家と斎藤家との関係悪化により永禄4年(1561年)に織田信長が美濃国に攻め込んで来た森部の戦いで夫である日比野清実が討死にしたため一旦織田家に戻されます。
その後、おつやの方は、織田家家臣(誰であったかは不明です。)に再嫁したのですが、その後、再び織田家に戻っています。
子を生まなかった未亡人は生家に戻されるというのが戦国の習わしであったため、2度の結婚が終わってその度に織田家に戻ったおつやの方は、織田家に戻ると次の政略結婚に使われます。
おつやの方は、永禄5年(1562年)ころ、美濃国斎藤家との争いが激化する織田家が美濃国・東部を取り込むため、織田家の政略結婚の道具として、東美濃にある遠山荘の国衆であった岩村城主・遠山景任に3度目の花嫁として嫁ぎます。
おつやの方の3度目の嫁ぎ先である遠山景任の治める岩村城は、現在の岐阜県恵那市に位置する標高717mにある山城であり、高取城(奈良県高市郡高取町)、備中松山城(岡山県高梁市)と並んで「日本三大山城」に数えられます。
霧がかかることが多いため、霧ケ城とも言われます。この霧が攻城者の視界を奪う攻め難い城です。山城には珍しく、14もの井戸があったことも知られています。
この東美濃遠山荘と岩村城は、かなり微妙な立地に存在しています。具体的には、織田領の美濃と武田領の信濃との境に位置しており、その両方で熾烈な争奪戦が繰り広げられていた場所でした。
女城主となる(1572年8月14日)
元亀3年(1572年)8月14日、夫・遠山景任が跡取りを残すことなく病死したため、岩村城主が不在となります。
このとき、岩村城とその東美濃周辺を取り込む好機とみた織田信長は、自身の五男である御坊丸(後の織田信房)を遠山家の養嗣子とし、岩村城主に据えてしまいます。
織田家による岩村城の取り込みです。
もっとも、この時点ではまだ御坊丸が幼く、名目上の城主に過ぎませんでしたので、前城主の妻であったおつやの方が遠山家当主の座を代行することとし、事実上の岩村城の女城主となったのです。
武田信玄の西上作戦(1572年10月)
そんな中、元亀3年(1572年)10月、甲斐国・信濃国を治める大大名である武田信玄が、徳川家康・織田信長を討つべく西に向かって進軍を開始します(西上作戦)。
このときの武田信玄の最初の狙いは、徳川家康の居城・浜松城でした。
武田信玄は、軍を3隊に分け、織田援軍を防ぐために東美濃に1隊を派遣し、残りの2隊で遠江と奥三河から同時進行を開始しました。
3万の兵で甲斐国から出陣した武田軍は、信濃国・高遠城を越えたところで、秋山虎繁・山県昌景に兵8000を与え、南西方向へ向かわせます。
その後、この軍が2手に分かれ、秋山虎繁率いる3000人が東美濃に侵攻し、おつやの方が入っている岩村城を包囲します。
おつやの方が女城主となって僅か2ヶ月後の出来事です。
岩村城包囲戦
武田軍に包囲された岩村城では、おつや方から織田信長への後詰要請がなされます。
ところが、織田信長は信長包囲網に参加している近畿の各勢力との戦いで手一杯であったため、岩村城に後詰を送ることが出来ませんでした。
そのため岩村城の備えだけで武田軍に抗しきれませんでした。
そして、元亀3年(1572年)11月初旬、おつやの方は、岩村城主であった御坊丸を人質として武田に引き渡すことを条件とする秋山虎繁の降伏勧告を受け入れ、岩村城を開城します。
こうして岩村城を獲得した武田信玄は、織田方を牽制して東美濃の安全を図るために下条信氏を送って岩村城を守らせ、また秋山虎繁を同城に留めます。
元亀4年(1573年)3月6日、武田信玄が秋山虎繁を岩村城城代とし、このときに秋山虎繁が女城主であったおつやの方を正室に迎えたとされています(もっとも、これは誤りであるとも指摘されています。)。
なお、秋山虎繁に引き渡された御坊丸は、人質として武田家の本拠地である甲斐国に送られました。
おつやの方の最後(1575年11月21日)
岩村城が織田軍に降り、また三方ヶ原の戦いで徳川家康が大敗したことにより武田方から東方の安全を脅かされることとなった織田信長は、岩村城奪還の機会を狙います。
そして、天正3年(1575年)5月21日に発生した長篠・設楽原の戦いで織田軍が武田信玄亡き後の武田勝頼軍を破ると、同年6月、その勢いで織田信忠らが岩村城を包囲します。
このとき、武田勝頼は、後詰めを準備しますが、遠江方面作戦に忙殺されていたこと、大雪で進軍が進まなかったことなどから間に合わず、後詰到着前の天正3年(1575年)11月、岩村城は落城します。
織田信長は、秋山虎繁らを赦免すると誘い出し、礼に来た秋山虎繁を捕らえて長良川近くで磔刑にします。その理由は、長篠城主であった奥平信昌が徳川家康に寝返った際に武田家の人質となっていた奥平信昌の妻であった「おふう」を武田勝頼が磔にしたことに対する報復であったとされています。
そして、このときに、おつやの方も捕らえられ、天正3年(1575年)11月21日、裏切ったことに対する制裁として長良川の河原で逆さ磔で処刑された(あるいは織田信長が自ら斬った)といわれています。
美しき女城主の悲しい最後です。