【織田信房(御坊丸)】幼くして武田家の人質となった織田信長の五男

織田信房(津田源三郎信房)は、織田信長の五男として生まれた武将です。

幼くして武田家の人質となって甲斐で元服しており、武田家の戦略・戦術等を記した軍学書である甲陽軍鑑では、織田勝長(おだかつなが)と標記されています。

父である織田信長の命により武田家との最前線となる東美濃・岩村城を取り込むために幼くして遠山家に養子に出されたのですが、武田軍に岩村城を陥落させられた際に武田への人質となり、その前半生を武田家で過ごすこととなります。

その後、織田家に戻ることが出来たのですが、その僅か1年後に本能寺の変に巻き込まれて若い命を散らしています。

織田信房の出自

出世

織田信房は、織田信長の五男として生まれます。

幼名は御坊丸、通称は源三郎といい、生年や生母は不明です。

なお、織田信長の四男である於次丸(後の羽柴秀勝)が永禄11年(1568年)に誕生し、御坊丸が元亀3年(1572年)に岩村城主となっていることから、御坊丸は1568年から1572年の間に生まれたと考えるのが一般的です。もっとも、事実関係を推認すると於次丸よりも御坊丸の方が先に生まれたと考える方が自然であるとする説もあり、生年の推認すら困難な状況となっています。

東美濃・岩村城主となる(1572年)

織田信長は、永禄3年(1560年)6月から、美濃国攻略戦を開始したのですが、当初はなかなか戦果があがりませんでした。

そこで、織田信長は、東美濃を取り込むために永禄5年(1562年)、叔母であるおつやの方を東美濃遠山荘の国衆であった岩村城主・遠山景任に嫁がせます。

この結果、遠山家が武田家と織田家に両属する形となりました。

その後、元亀3年(1572年)8月14日に遠山景任が跡取りを残すことなく病死したため岩村城主が不在となります。

これを東美濃岩村城とその周辺勢力の取り込みの好機と見た織田信長は、自身の五男である御坊丸(後の織田信房)を遠山家(遠山景任とおつやの方)の養嗣子として送り込み、岩村城主に据えてしまいます。

織田家による岩村城の取り込みです。

もっとも、この時点ではまだ御坊丸が幼く、名目上の城主に過ぎませんでしたので、前城主の妻であったおつやの方が遠山家当主の座を代行することとし、事実上の岩村城の女城主となったのです。

武田家への人質として甲府に送られる

岩村城陥落(1572年11月)

元亀2 年(1571年)10月3日に甲相駿三国同盟の破綻後長らく武田信玄と対立してきた北条家当主北条氏康が死去すると、武田信玄は、家督相続後の混乱を鎮めようとする北条家と和睦します(甲相同盟の復活)。

これにより東側の脅威を排除した武田信玄は、元亀3年(1572年)10月、織田信長・徳川家康と雌雄を決すべく自ら軍を率いて、遠江国・三河国方面に向かって出陣してきます(武田信玄の西上作戦)。

このとき武田信玄は、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート、伊那盆地から西に進んだ後に南下して北側から三河国に入るルート、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルートの3つのルートからの同時侵攻作戦を選択します。

この結果、武田方の秋山虎繁率いる3000人が織田領となっていた東美濃侵攻への侵攻を開始し、おつやの方が女城主として守る岩村城を包囲します。

武田軍に囲まれたことから、おつやの方は、織田信長に対して援軍を要請しますが黙殺されたため、同年11月初旬に岩村城は陥落します。

武田家の人質となる(1573年2月)

元亀3年(1572年)11月14日に、武田軍が岩村城に入城し、秋山虎繁が織田方の牽制のため同城に留まります。

このとき、おつやの方が秋山虎繁を夫として迎え入れ、幼主を養育することを条件として武田方との和議が結ばれ、元亀4年(1573年)2月下旬、織田掃部の仲介によって、おつやの方は岩村城代となった秋山虎繁と祝言を挙げます。なお、織田信長は、おつやの方が秋山虎繁と再婚したことを聞いて周囲の者が驚くほど激怒したと伝えられています。

そして、そのままおつやの方が事実上の岩村城主を務めることとなり、御坊丸は武田家の人質として甲府に送られました。なお、信長公記では、武田信玄から織田信長の子を養子に欲しいという要望があり、これに応じた織田信長が御坊丸を甲府に送ったと記載されているのですが、その記載内容には強い疑問があります(信長公記・天正9年/1581年11月24日条)。

甲府での人質生活

甲府に送られた御坊丸は、五十君久助を傅役としてつけられてその下で成長し、その後、武田勝頼の下で元服して源三郎信房と名乗ります(甲陽軍鑑では、織田勝長と名乗ったとされていますので、これに従うと武田勝頼よりから偏諱を賜ったとも考えられます。)。

他方、寛政重修諸家譜では、織田家に戻った後である天正9年(1581年)11月24日に織田家で元服し、源三郎勝長と称したとされていることから、必ずしもその経緯は明らかとなっておりません。

おつやの方刑死(1575年)

天正3年(1575年)に起こった長篠設楽原の戦いで武田軍を打ち破った織田軍は、その勢いのまま武田領への侵攻を開始し、織田信忠の手により岩村城も奪還します。

岩村城奪還に際し、織田信長は、武田の将である秋山虎繁と裏切ったおつやの方を逆さ磔刑にて処刑します(命じたのは織田信雄とする説もあります。)。

こうして岩村城は織田方に戻ったのですが、甲府に送られていた織田信房の人質という立場に変わりはありませんでした。

織田家に戻って武田家と戦う

織田家に戻る(1581年)

その後、織田・徳川と一進一退の攻防戦を繰り広げていた武田勝頼でしたが、天正8年(1580年)3月に越後国の上杉家中の内乱(御館の乱)に手を出して北条家との同盟関係が破棄されたことで東に北条・西に織田・南に徳川という敵対大国に囲まれる形となってしまいます。

苦しくなった武田勝頼は、常陸国の佐竹義重を介して織田信長に対して和睦を申し出ます。

武田勝頼は、織田信長に対する和睦交渉(甲江和与/こうごうわよ)に際し、天正9年(1581年)、まずは織田家の心証を高めるため、大竜寺麟岳らの勧めに従って織田信房を織田家に返還します。

この結果、織田信房は、約10年ぶりに故郷に戻ることができました。

犬山城主となる(1581年)

織田家に戻った織田信房は、安土城で織田信長と対面し、それまでの苦労をねぎらう意味もあって尾張国犬山城(現在の愛知県犬山市)の城主に任じられます(信長公記)。

このとき織田信長は、織田信房に対して小袖・刀・鷹・馬・槍などを贈り、さらに織田信房の側近にまで相応のものを贈ったと言われています。

また、織田信長の家臣団もまた、それぞれが織田信房に犬山城主任命の祝いの品を進呈しています(羽柴秀吉は銀子三千両・小袖二百を進呈したといわれています。)。

甲州征伐従軍(1582年2月)

武田家から織田信房の返還を受け入れた織田信長でしたが、この頃には既に武田家を滅亡させる方針を固めていたため、武田家との和睦な応じることはありませんでした。

織田信長は、武田勝頼との和睦交渉はのらりくらりかわしつつ武田領の東側に位置する北条家と連携して挟撃準備を進めつつ、武田領内の国衆の調略を進めていきます。

そして、天正10年(1582年)2月3日、武田勝頼による木曾一族殺害を知った織田信長は、武田勝頼討伐を決定し動員令を発します。

このとき、織田信長・織田信忠父子は伊那方面から、金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面からそれぞれ武田領に進軍することに決定します。

そして、同年2月より織田・徳川連合軍による本格的な武田領侵攻(甲州征伐)が始まり、織田信房は、総大将である兄・織田信忠に従って参陣します。

その後、織田信房は、同年3月3日に大島城から退去した上野国衆の安中七郎三郎が立て篭もった諏訪高島城の明け渡しを指揮した後、同年3月7日には森長可・団忠直らと共に足軽隊を率いて上野国に進軍してこれを制圧していきます(信長公記)。

そして、同年3月21日までに安中城へ入城し、武田家に与していた上野国衆を服属させています。

織田信房の最期

本能寺の変(1582年6月2日未明)

武田家を滅ぼした織田信長は、天正10年(1582年)6月2日、嫡子・織田信忠と共に中国方面作戦を担当する羽柴秀吉の備中高松城攻めの援軍に向かうために京に滞在し、織田信長はわずかな兵を伴って本能寺に、織田信忠は1500人の兵を伴って京の妙覚寺に滞在していました。

ところが、同日未明、明智光秀の謀反により本能寺に滞在していた織田信長が討ち取られてしまいます(本能寺の変)。

織田信房討死(1582年6月2日)

このとき、織田信忠は、妙覚寺を出て織田信長救援のために本能寺に向かったのですが、途中で織田信長が討死したとの報を聞きます。

織田信忠は、ここで本拠地・岐阜に向かって逃げるべきだったのですが、何を思ったか織田信房、京都所司代である村井貞勝や斎藤利治らを引き連れてその当時皇太子であった誠仁親王の居宅となっていた二条御所に向かい、親王一家を退去させた上で二条御所(4つある二条城のうちの二条御所・下御所と呼ばれる旧二条家の邸宅です。)に籠城します。

もっとも、二条御所は5m程度の堀があるだけの簡単な城にすぎず、防衛施設としては不十分である上、織田信忠軍がわずか1500人と寡兵であったことから、すぐに1万3000人とも言われる明智光秀軍に囲まれて陥落し、織田信忠は自刃して果てます。

また、織田信忠と共にあった織田信房もまた、攻め寄せてくる明智軍と奮戦した後に討ち死にします。

生年が不明であるため享年は判明しないのですが、20歳代であったと推定されています。

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