【武田信玄の佐久盆地侵攻】若き武田信玄の信濃侵攻作戦第3段となる佐久郡攻略戦

信濃国内で諏訪盆地・伊那盆地北部を獲得した武田信玄は、次に佐久盆地獲得を目指します。

主たる攻略対象は、大井貞清が治める内山城と笠原清繁が治める志賀城です。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

武田信玄の佐久侵攻作戦に至る経緯

武田信虎による佐久侵攻

武田家は、武田信玄の父・武田信虎の代に、甲斐国を平定し、駿河国・今川家、信濃国諏訪郡の諏訪家と同盟を結んで、佐久郡・小県郡への侵攻を行っていました。

天文9年(1540年)ころ、武田家は、海尻城や前山城に拠点を置いて、佐久侵攻作戦を展開し、天文10年(1541年)には、武田・諏訪連合軍により、小県郡の海野氏、真田氏を駆逐するなど(海野平の戦い)、佐久郡・小県郡の奥地にまで武田家の影響力を及ぼしていました。

信虎追放と国人衆の離反(1541年6月)

ところが、天文10年(1541年)6月、武田家内で、武田信玄が家臣団とともにクーデターを起こして武田信虎を駿河国へ追放したことにより、状況は一辺します。

このクーデターにより、武田家のお家騒動と求心力低下を見てとった佐久郡・小県郡の国人衆達が離反し始めたのです。

これに乗じて、大井貞隆が長窪城を奪回し、武田家は佐久郡・小県郡への侵攻拠点を失います。

そして、その結果、武田家の勢力は大きく後退します。

武田信玄の諏訪攻略(1542年9月)

武田家の家督を継いだ武田信玄は、信濃国・佐久郡、小県郡の失地の代わりとして、それまでは同盟関係にあった諏訪郡の切り取りを狙い、諏訪郡侵攻作戦を展開します。

そして、天文11年(1542年)7月に諏訪頼重を切腹させて諏訪総領家を滅ぼし、同年9月には諏訪郡共同統治の関係にあった高遠頼継を伊那郡に追い払ったことにより、武田信玄は、諏訪盆地全域を制圧します。

そして、武田信玄ほ、天文12年(1543年)5月に諏訪・上原城に板垣信方を入れ、諏訪支配と信濃侵攻の拠点とします。

武田信玄の長窪城攻略(1543年9月)

諏訪・上原城の整備により侵攻拠点を得た武田信玄は、天文12年(1543年)9月、小県郡に出兵して一度失った佐久盆地への橋頭堡・補給路となる長窪城を攻略し、佐久郡・小県郡への侵攻拠点兼防衛拠点を再獲得します。

諏訪郡を獲得し、北への抑えを得た武田信玄は、続いて伊那獲得を目指します。

武田信玄の上伊那攻略(1545年4月)

足掛け2年に亘る伊那侵攻作戦の結果、天文14年(1545年)4月に、高遠頼継が治める高遠城と藤沢頼親が治める福与城とを相次いで攻略し、武田信玄は上伊那を制圧します。

武田信玄の佐久侵攻作戦【内山城攻略戦】

天文15年(1546年)5月3日、武田信玄は、再び佐久郡に侵攻し、海野口まで到達します。

その後、武田軍は、同年5月6日、前山城に陣を敷き、大井貞清が立て籠もる内山城を包囲します。

そして、内山城の水の手を断ち、1つ1つ曲輪を攻略していきます。

同年5月20日、それ以上の抵抗が不可能と判断した大井貞清が降伏し、内山城を武田信玄に明け渡します(なお、大井貞清は、翌年武田家に臣従しています。)。

その後、内山城には、同年7月18日に小山田虎満が城代として入り、志賀城主・笠原清繁や上野国・上杉憲政に備えます。

内山城が陥落したことにより佐久郡の大半が武田氏に制圧されたこととなり、佐久郡で反武田として残るのは志賀城の笠原清繁のみとなります。

武田信玄の佐久侵攻作戦【志賀城攻略戦】

笠原清繁と上杉憲政との同盟

佐久郡の国衆が次々と武田家の軍門に下っていったため、佐久郡に残る志賀城主・笠原清繁は焦ります。

笠原清繁は、迫りくる武田軍に対抗するため信濃国小県郡の村上義清と、上野国の山内上杉憲政と結び、これらの同盟により相互防衛ラインを構成します(山内上杉憲政側からすると、関東で勢力を強めてくる北条氏と対峙するために周囲の勢力を取り込む必要がありました。)。

特に、山内上杉家は、志賀城が上野国との国境と近いために、碓氷峠を通じて関東管領山内上杉氏からの支援は極めて有用なものでした。

もっとも、頼りの山内上杉家も、天文15年(1546年)4月20日、河越城の戦いで大敗して大きくその勢力を失って満身創痍の状態です。

武田信玄出陣(1547年7月)

天文16年(1547年)閏7月、武田信玄は、佐久郡に残る志賀城を攻略するため、大井三河守を先手として甲斐国・躑躅ヶ崎館から出陣します。

躑躅ヶ崎館を出た武田軍は、板垣信方率いる諏訪衆と合流し、天文16年(1547年)閏7月24日、笠原清繁が守る志賀城を7000人の兵で包囲します。

志賀城を囲んだ武田軍は、翌日、金堀衆の活躍により、早々に志賀城の水の手を断つことに成功します。

大軍に囲まれ、水の手まで失われた志賀城は窮地に陥いります。

志賀城主・笠原清繁は、急遽、伝令を走らせて平井城主・関東管領上杉憲政に後詰を要請します。

小田井原の戦い(1547年8月6日)

上杉憲政は、笠原清繁の要請に応じ、金井秀景ら西上野衆を向かわせ志賀城救援に派遣します。

平井城からの後詰が到着すれば、これと城兵に挟撃されることとなるため、後詰が向かっているとの報を聞いた武田信玄は、板垣信方・甘利虎泰・横田高松・多田三八らを別動隊として迎撃に向かわせます。

その結果、平井城からの上杉後詰軍(だいたい現在北陸新幹線の線路上のコースを進軍しています。)と、志賀城からの武田別動隊が、浅間山麓の小田井原で対陣します。

そして、同年8月6日、決戦の火蓋が切って落とされますが、戦いは武田軍の一方的勝利に終わります(小田井原の戦い)。

上杉憲政軍は、この戦いで3000人もの兵が討たれたと言われ、戦力がさらに低下して関東戦線で北条家に抵抗する力を失い滅亡に向かうのですが、本稿の主題と離れますので、紹介のみにとどめます。

志賀城攻略(1547年8月11日)

小田井原の戦いに大勝した武田軍別動隊は、討ち取った敵兵の首3000人分を持ち帰り、志賀城戦線に復帰します。

このとき、武田信玄は志賀城の士気を下げるため、板垣信方らが持ち帰った3000もの首を志賀城の目前に晒したと言われています。

並べられた首を見て上杉憲政軍が敗れたこと(後詰の可能性がなくなったこと)知った志賀城では瞬く間に士気が低下します。

援軍に来ると思っていた上杉憲政兵が首になっていたのを見た志賀城兵の絶望は計り知れなかったと思われます。

志賀城の士気低下を見てとった武田信玄は、天文16年(1547年) 8月10日、志賀城への総攻めを開始し、同日、外曲輪、二の曲輪を焼き払います。

そして、翌8月11日、残る本曲輪(本丸)を攻めて、志賀城主・笠原清繁を討ち取り、志賀城は落城します。

この志賀城攻略により、武田信玄の佐久郡平定が果たされます。

佐久郡平定後の出来事

志賀城攻略後、武田信玄は、厳しい処置を下します。

美人であったと伝わる笠原清繁の妻は、郡内衆の小山田信有に与えられて妾とされます。

また、城内に立て籠もっていた兵は、金山などへ送って強制労働者として実質的に奴隷として扱います。

さらに、女・子供は捕虜とし、親類縁者がある者は二貫文から十貫文で身請けされましたが、その他は娼婦・奴婢として売り払われました。

佐久郡の最後の抵抗勢力であった志賀城を攻略した武田信玄は、信濃国・佐久郡全域支配に成功します。

佐久郡平定後の次のターゲットは、因縁の敵となる村上義清です(佐久を得たことにより西上野へのルートも開けましたが、上田攻略を優先し、武田信玄の西上野攻略は永禄9年・1566年まで待つこととなりますます。)。

もっとも、志賀城平定後に行ったこの過酷な処置が、佐久郡領民の恨みを買い、砥石崩れに繋がっていくのですが、長くなるのでその辺りの話は別稿に委ねます。

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