一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年(1184年 )2月7日に起こった、源頼朝方(源範頼・源義経)と平家との直接対決の第1段の戦いです
一般に一ノ谷の戦いといわれますが、実際の合戦は、生田口・塩屋口・夢野口などの広範囲に亘って行われており、福原・須磨の戦いとでも言った方が正しいかもしれません。
また、この戦いは、様々な逸話が生まれ、「梶原の二度駆け」、「鵯越の逆落とし」、「熊谷直実による平敦盛討ち取り」など後世にまで語り継がれるエピソードが目白押しです。
以下、一ノ谷の戦いについて、戦いに至る経緯から順に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
一ノ谷の戦いに至る経緯
木曾義仲上洛と平家都落ち(1183年7月)
京の都で隆盛を誇った平家ですが、寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで木曾義仲に敗れて兵力の大半を失ったことから京を維持できなくなり、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、九州・太宰府まで逃れて再起を図ります(平家都落ち)。
ところが、力を失った平家は、九州の在地勢力に九州を追い出されます。
腰を据える場所を見つけられない平家は、柳ヶ浦を出て、四国・屋島にたどりつき、ここで勢力を立て直していきます。
水島の戦い
平家が流転している中、京でも事件が起こります。
京を制圧した木曾義仲が、京の統治に失敗して後白河法皇とも対立したのです。
そして、木曾義仲を邪魔に思った後白河法皇は、木曾義仲を京から追い払うために、木曾義仲に平家追討を命じます。
木曾義仲は、後白河法皇の命に従って、平家を追って西に出兵をしますが、備中国で平家方に大敗します(水島の戦い)。
水島の戦いの勝利に敗北続きだった平家も息を吹き返します。
これを見た後白河法皇は、木曾義仲を見限って鎌倉の源頼朝に木曾義仲追討を命じたのですが、この事実が木曾義仲に露見して木曾義仲を激怒させたため、後白河法皇は幽閉されてしまいます(法住寺合戦)。
源範頼・源義経入京
後白河法皇を排除して新政権を樹立した木曾義仲でしたが、法皇に弓を引いたことにより人心がさらに離れ、情勢が不利になっていきます。
困った木曾義仲は、屋島にいる敵であるはずの平家に和平を申し出ますが拒絶されます。
後がなくなった木曾義仲は、やむなく少なくなった自身の兵のみで源頼朝軍に挑むこととします。
そして、寿永3年(1184年)1月20日、源頼朝から派遣された源範頼、源義経軍に攻められ(宇治川の戦い、瀬田の戦い)、木曾義仲は死亡します。
その結果、源範頼・源義経が入京し、後白河法皇を解放します。
平家による福原再建(1184年1月)
一方で、平家方も、水島の戦いの勝利と、その後の木曾義仲と源頼朝方の源氏同士での争いの間に、勢力を整えていきます。
そして、屋島を本拠地とする平家は、寿永3年(1184年)1月には、京奪還のための拠点とすべく大輪田泊に上陸し、かつて平清盛が都を計画した福原の再建を進めるまでに至ります。
そして、その後、平家は、福原の外周(東の生田口、西の一ノ谷口【一ノ谷城】、山の手の夢野口など)に砦を築き、強固な防御陣を構築していきます。
源氏軍が福原へ(1184年2月4日)
源範頼・源義経によって返り咲くことができた後白河法皇でしたが、法皇の下には三種の神器がありませんので、権威の正当性の根拠がありません。
そこで、後白河法皇は、この状況を打破すべく、寿永3年(1184年)1月26日、源頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じます。名目は平家追討の宣旨ですが、実質は三種の神器奪還命令です。
源頼朝は、これを受けて、京にいた源範頼と源義経に平家追討を命じ、源頼朝の命を受けた源範頼・源義経は、直ちに軍勢を整え、寿永3年(1184年)2月4日、源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発し、福原に向かいます。
三草山の戦い(1184年2月5日)
京を出発した源氏軍は、源範頼率いる大手軍が京からゆっくりと西進して平家方の気を引きつけ、その間に源義経率いる搦手軍が北側の丹羽路を通って大きく西側に迂回していきます。
平家が守る福原を挟撃する作戦です。
急ぎ丹羽路を東進して行く源義経軍は、寿永3年(1184年)2月5日夜、播磨国・三草山に設置されていた平資盛、平有盛らの陣にたどり着き、これに夜襲をかけます。
このとき、平資盛、平有盛らは、源義経軍の到着がもう少し先であると考えて完全に油断しきっていたため、全く対応できず、源義経軍の圧勝で戦いが終わります(三草山の戦い)。
三草山を攻略した源義経は、兵を2つに分け、土肥実平に7000騎を与えて敗走した平資盛・平有盛らを追撃させて屋島に追い払わせた後、西側に回り込ませた上で塩屋口に向かわせ、自身は3000騎を率いて夢野口に向かいます。
ところが、この後、源義経はさらに兵を2つに分け3000騎を安田義定、多田行綱に預けて平通盛・平教経の1万騎が守る夢野口へ向かわせます。
他方、源義経は、僅か70騎を率いて山中の難路を南東へ向かい、鵯越へ向かいます(この兵数を見る限り、兵を分けたというより源義経が離脱したと考えた方が正しいかも知れません。)。
なお、真偽は不明ですが、このとき源義経が、配下の武蔵坊弁慶が見つけてきた地元の年老いた猟師に、鵯越を鹿は越えることができるのかと聞いたところ可能と回答されたため、鹿が通るのであれば馬も通れると判断し、鵯越を決めたと平家物語に描かれています(その後、源義経は、猟師の息子・鷲尾三郎義久を郎党に加えて道案内をさせたそうです。)。
一ノ谷の戦いの経緯
一ノ谷の戦いの布陣
以上の結果、西側・塩屋口から土肥実平ら7000騎が、北西側・夢野口から安田義定、多田行綱ら3000騎が、北側から源義経70騎が、東側から源範頼5万6000騎が福原に迫る形となりました。
福原は、西側・北側を厳しい崖が連なる山で、南側を海で守られています。
そして、唯一開けた東側にも生田川が流れており、これを天然の堀として利用することで四方を防衛できるまさに天然の要害でした。
源氏方としては、大軍を山越えさせたり、船で運んだりするのは困難ですので、必然的に主力の源範頼軍が徒歩で進める東側からの侵攻となるので、当然の布陣です。
他方、福原の地形を知り尽くしている平家方も、当然これに対応します。
平家の主力部隊・平知盛、平重衡らを生田川沿に配置し、また塩屋口・夢野口にも防衛軍を配置して待ち受けます。北側には崖が(馬で崖は下れないと判断しました)、南側には海がありますので(源氏は水軍がありません。)、守りは東西だけで十分との判断でした。
なお、東西が突破されなければ到達されないと考えた平家は、福原中心部には多くの兵を配置しなかったため、これが後にこの戦いの帰趨を決定してしまいます。
塩屋口の戦い(1184年2月7日明け方)
東・西から福原に取り付いた源氏軍ですが、一番最初に動いたのは、西側の塩屋口でした。
寿永3年(1184年)2月7日明け方、西側に取り付いた土肥実平の軍の中から先駆けをしようと抜け出した熊谷直実・直家父子・平山季重を含めた5騎が、先陣を争って抜け駆けし、平忠度が守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げます。
平家方は、朝方に数騎で声を上げているだけと無視していたのですが、熊谷直実らがあまりにしつこかったため、やむなくこの5騎を討ち取らんと兵を繰り出します。
多勢に無勢ですので、熊谷直実はすぐにピンチに陥るのですが、ここに土肥実平率いる7000余騎が駆けつけたため、両軍入り乱れる大激戦が始まります。
一ノ谷の戦いの始まりです。
夢野口の戦い
塩屋口の戦いが始まったのにつられて、近くの夢野口(山の手)に取り付いていた安田義定、多田行綱らも夢野口への攻撃を開始します。
なお、源氏方の夢野口の将については、安田義定1人であった、多田行綱1人であった、安田義定と多田行綱の2人であったという様々な説があり、本当のところはわかっていませんが、本稿では2人説を前提に進めます。
生田口の戦い(1184年2月7日早朝)
西側で戦いが始まったのを知った源範頼は、東側の生田口の攻撃を開始します。
生田口の戦いは、戦の王道の方法で始まります。
1184年(寿永3年)2月7日午前6時頃、源範頼軍が平家方に向かって大量の矢を放ち、平家方もこれに応戦します。
矢合わせが終わると、源氏方の河原高直・河原盛直兄弟の先陣により白兵戦が始まります。
このときの有名なエピソードが、梶原の二度懸です。
生田口では、源氏軍の先陣であった河原高直・盛直の兄弟、藤田行安などが討死するなど死傷者が続出したのですが、この状況を打破すべく、梶原景時とその息子梶原景季・梶原景高兄弟が平家方の砦の中に突撃していきます。
砦の中を荒らしまわった梶原景時らは、一旦源氏方の人に退却をするのですが、陣に戻った梶原景時は、長男の梶原景季が戻ってきていないことを知ります。
息子の危険を察知した梶原景時は、再度砦に向かって突撃し、砦の中で敵兵に囲まれていた梶原景季を助けて再び源氏方の陣に戻っていきます。
これが有名な「梶原の二度懸」と言われるエピソードです。ちなみに上の屏風絵の上部で囲まれている武士が梶原景季で、下部の馬に乗って駆け付けた武士が梶原景時です。
こうして、生田口、塩屋口、夢野口という東西で激戦が始まったのですが、当然平家方も激しく抵抗しますので、一進一退の攻防が続きます。
鵯越の逆落とし
ここで、戦局を変える事件が起こります。
生田口、塩屋口、夢野口をよそに、北西の山から迫った源義経が、平家の喉元に突然飛び込んできたのです。
有名な、鵯越の逆落としです(なお、本稿は平家物語を基本に紹介しています。九条兼実の日記である玉葉では、山手を攻撃したのは多田行綱で、源義経は鵯越ではなく一ノ谷【塩屋口】にいることになっていますので、真実は不明です。)。
猟師の息子・鷲尾三郎義久の案内により一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上にたどり着いた源義経は、防衛の薄い平家方の中心部に飛び込み一気に戦の趨勢を決める好機と見たのですが、坂の余りの急角度を見て、この坂を駆け下りることができるか考え込みます。
ここで、源義経は、崖から馬を2頭落としてみて、可否を判断することとします。
崖から落ちた馬のうち、1頭は足を挫いて倒れたのですが、残る1頭は無事に駆け下りました。
これを見た源義経は、気をつけて降りれば崖を下ることは可能と判断し、先陣をきって崖に飛び込んでいきます(なお、逆落としの場所については、一ノ谷の裏手鉄拐山とする説・鵯越説とする説から、逆落とし自体が創作であるとする否定説などがあり、はっきりしていません。)。
大将である源義経が飛び込んだため、他の者も続かざるを得なくなり、源義経配下の騎馬武者達も次々と崖を駆け下って行きます。
なお、このときに大力の畠山重忠が、崖を駆け降りる際に名馬を失ってはもったいないと思い、馬に乗るのではなく、逆に馬を背負って岩場を駆け下りたとの伝説が残されています(もっとも、吾妻鏡によると畠山重忠は源範頼軍に属しているとされていたためこの話とは整合しませんので、真偽は不明です。)。
いずれにせよ、崖を駆け下って、福原の中心部に入り込んだ源義経率いる70騎は、そのまま兵の手薄な福原の内部を荒らしまわります。
塩屋口、夢野口のいずれかにいると思っていた源義経が、予想もしていなかった崖の上から駆け降りてきて攻撃してきたことで平家陣営は大混乱に陥り、福原に火の手が上がって混乱した平家方の兵は我先にと海へ逃げ出します。
こうなると平家方は、戦線を維持できません。
平家の壊滅
(1)塩屋口突破
福原中心部の大混乱は、当然に混戦中の塩屋口・夢野口・生田口にも波及します。
塩屋口を守る平家兵からも逃亡者が続発したため、塩屋口もすぐに総崩れとなり、平忠度の守る塩屋口も突破されます。
塩屋口を守っていた平忠度は退却を試みたのですが、源氏方の岡部忠澄に組み敷かれて首を刎ねられます。
この後、ここであまりなも有名な出来事が起こります。
平家方が一気に退去して行ったため、熊谷直実が、兜首を探して海岸沿を駆け回っていました。
そうしたところ、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけます。
このとき、熊谷直実が船に向かって「敵に背を向けるのは卑怯であろう。戻りなされ」と呼びかけたところ、船に乗っていた武者はこれを聞いて陸へ引き返し、熊谷直実と一騎討ちをします。
熊谷直実は、引き返して来たむしゃを組み敷いて首を取ろうとして顔を見たのですが、その際その武者が薄化粧をした美しい顔立ちの少年であることを知ります。
熊谷直実にも同じ年頃の子がいたため、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っていたために逃れることはできまいと考え、泣く泣く若武者の首を討ち取ります。
熊谷直実は、このときの行為を生涯悔いており、後に法然に仕えて出家し、高野山に登って若武者(平敦盛)を供養しています。
なお、現在、京都市左京区黒谷町にある金戒光明寺に熊谷直実と平敦盛の供養塔が向かい合う形でありますので、興味のあるかたは是非。
(2)生田口突破
必死に防戦する平家方は、生田口の東城戸の副将・平重衡が、8000騎を率いて安田義定、多田行綱らの猛攻に晒されていた夢野口(山の手)の救援に向かうなど、必死に防戦します。
ところが、同日午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た源範頼が、生田口に向かって総攻撃の命令を出すと、平家方の戦線が崩壊し、生田口の大将・平知盛が退去を始めます。
そして、この平家の主力軍の敗北により、一ノ谷の戦いの勝負も決まりました。
(3)決着
一ノ谷の戦いが始まった直後から安全のために船に乗って海上にいた安徳天皇、建礼門院、総大将・平宗盛らは、福原を放棄して敗北を悟って屋島へ向かい、一ノ谷の戦いは終わります。
また、平重衡が、梶原景季と庄太郎家長に捕えられています。
一ノ谷の戦いの後
もっとも、源氏方においても、福原から平家一門を追放しまたその勢力に大打撃を与えたという戦術的勝利はあったものの、合戦の戦略目標であった安徳天皇と三種の神器の確保には失敗します。
そこで、後白河法皇は、平家方に対し、捕えた平重衡と三種の神器を交換するよう交渉しますが、三種の神器の有用性を熟知する平宗盛に拒絶されます。
これにより、後白河法皇・源頼朝方は、さらに安徳天皇と三種の神器奪還を目指して、源範頼の山陽道・九州遠征、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと進んでいくこととなります。