【多々良浜の戦いから湊川の戦いまで】建武政権が足利尊氏に敗れた終盤戦

鎌倉幕府討伐後、その功労者である後醍醐天皇と足利尊氏確執は、中先代の乱の後に始まります。

両者の争いは、中先代の乱の後、矢作川の戦い、手越河原の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、第一次京都合戦、打出・豊島河原の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いを経て建武政権が倒れて終了します。

これらの一連の戦いのうち、前回建武政権が足利尊氏を追い払った前半戦を説明しましたので、今回は、足利尊氏が勢力を盛り返した多々良浜の戦いから建武政権終焉と室町幕府設立のきっかけとなった湊川の戦いまでについて見ていきましょう。 “【多々良浜の戦いから湊川の戦いまで】建武政権が足利尊氏に敗れた終盤戦” の続きを読む

【足利尊氏離反から豊島河原合戦まで】建武政権が足利尊氏に勝っていた序盤戦

鎌倉幕府討伐後、その功労者である後醍醐天皇と足利尊氏確執は、中先代の乱の後に始まります。

両者の争いは、中先代の乱の後、矢作川の戦い、手越河原の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、第一次京都合戦、打出・豊島河原の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いを経て建武政権が倒れて終了します。

本稿では、これらの一連の戦いのうち、建武政権方が有利に展開していた中先代の乱から豊島河原の戦いまでについて見ていきましょう。 “【足利尊氏離反から豊島河原合戦まで】建武政権が足利尊氏に勝っていた序盤戦” の続きを読む

【槇島城の戦い】足利義昭が追放され室町幕府が滅亡した戦い

室町幕府が滅亡することとなった戦いをご存知ですか。

室町幕府最後の将軍足利義昭は、元亀4年(1573年)に2回も織田信長と戦い、遂に敗れて室町幕府が滅亡します。

この室町幕府滅亡に至った最後の戦いが槇島城の戦いです。

槇島城の遺構がほとんど残っていないこと、市街地がから離れているため土地勘が薄い人が多いこと、近くにあった巨椋池が埋め立てられて当時とは地形が異なっていることなどから、室町幕府という一大勢力がなくなった戦いであるにもかかわらず知名度が低く、マイナーすぎる評価を受けています。

本稿では、そんな歴史の闇に埋もれてしまいそうな大戦、槇島城の戦いについて簡単に見ていきましょう。 “【槇島城の戦い】足利義昭が追放され室町幕府が滅亡した戦い” の続きを読む

【富士川の戦い】平家打倒で挙兵した源頼朝が関東武士団を統べるに至った合戦

安徳天皇の外戚となるなど、平氏にあらずんばひとにあらずとまで言われた栄華を誇った平氏ですが、その驕りから各地で平氏に対する不満が高まっていきます。

そして、治承4年(1180年)4月9日、源頼政と共に高倉天皇の兄宮である以仁王が挙兵し、「最勝親王」と名乗って諸国の源氏や大寺社に平氏追討の令旨を下します。

そして、この以仁王の令旨は、各地の反平氏勢力を刺激し、各地で反平氏の武装蜂起が起きます。

その多くは、早期に鎮圧されますが、源頼朝(河内源氏)、源義仲(河内源氏)、武田信義(甲斐源氏)の3勢力は、平氏勢力を蹴散らして生き残ります。

このうち源義仲は独力で京を目指すのですが、源頼朝と武田信義は協力して進んでいきます。

本稿では、この対平氏3勢力のうち、源頼朝の挙兵後の動きについて、武田信義との関係性にも配慮しつつ見ていきます。 “【富士川の戦い】平家打倒で挙兵した源頼朝が関東武士団を統べるに至った合戦” の続きを読む

【武田信玄の佐久盆地侵攻】若き武田信玄の信濃侵攻作戦第3段となる佐久郡攻略戦

信濃国内で諏訪盆地・伊那盆地北部を獲得した武田信玄は、次に佐久盆地獲得を目指します。

主たる攻略対象は、大井貞清が治める内山城と笠原清繁が治める志賀城です。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【武田信玄の伊那盆地侵攻】諏訪攻略後の標的となった北伊那攻略戦

東に北条、南に今川という超大国がある甲斐国・武田家としては、領土を拡大するためには北西の信濃国に向かうほかはありません。

この点、信濃国は山地で平野部が遮られているために超大国が成立することはなく、伊那・諏訪・佐久・善光寺平・上田・松本という6つの盆地に国人衆が群雄割拠している状態でした。

そこで、武田信玄は、これらの小勢力を各個撃破していけば国力の増強が図れると考え、本拠地である甲斐国に近い場所から順に攻略作戦を展開していきます。

天文11年(1542年)9月に信濃国・諏訪郡を攻略した武田信玄は、続いて伊那獲得を目指すのですが、伊那盆地への侵攻は諏訪盆地から行うこととなりますので、まず攻略対象となるのは伊那郡北部(上伊那)となり、具体的には藤沢頼親が治める福与城と高遠頼継が治める高遠城に決まります。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【砥石崩れ】武田信玄の戦の概念を一変させた2度目の大敗北

戦国最強で名高い武田信玄は、52年の生涯の中で自ら指揮をとって敗れた戦が2回あります。

この2回はいずれも北信濃の雄・村上義清に敗れているのですが、生涯で2回しか負けていない理由は、この2回の敗戦により武田信玄を反省し、その都度兵法を変えていったからです。

このうち、特に武田信玄に大きな影響を与えたのが2回目の敗北である砥石崩れです。

砥石崩れによる敗戦とその後の砥石城攻略が武田信玄を負けない武将に育てあげたのです。

以下、武田最強伝説を作ったともいえる砥石崩れとそれが武田信玄に及ぼした影響についてみていきましょう。 “【砥石崩れ】武田信玄の戦の概念を一変させた2度目の大敗北” の続きを読む

【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦

塩尻峠の戦いをご存知ですか。

塩尻峠の戦いは、上田原の戦いの大敗で信濃国衆の信頼を失って信濃侵攻作戦を中座させられた武田軍が、負けイメージを払拭して武田軍健在を印象付けて信濃侵攻作戦が再開できるようになった極めて重要な意味を有する一戦です。

以下、塩尻峠の戦いに至る経緯と、塩尻峠の戦いの経過について見ていきましょう。 “【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦” の続きを読む

【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北

クーデターを成功させて武田家当主となった武田信玄は、父・武田信虎の政治によって荒れた甲斐国の内政を整えた後、本格的に信濃国への侵攻を開始します。

その後、武田信玄は、破竹の勢いで信濃国南部を制圧したのですが、その面前に北信濃の猛将・村上義清が立ちはだかります。

そして、ここで、家督相続以来連戦連勝であった武田信玄に初めて土がつきます。天文17年(1548年)2月14日に起こった上田原の戦いです。

この戦いでは、板垣信方、甘利虎泰という当時の甲斐武田家の絶対的2大看板を一度に失うという大敗北喫します。

本稿では、この上田原の戦いについて、その発生経緯から順に解説します。 “【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北” の続きを読む

【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年(1569年)1月4日、本圀寺に宿泊していた足利義昭を、織田信長によって畿内から追い出された三好三人衆が襲撃した大事件です。

発生した場所から六条合戦とも言われます。

それまで幕府足軽衆の1人として埋もれていた明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなった戦いとしても有名です。 “【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件” の続きを読む