【武田信玄の伊那盆地侵攻】諏訪攻略後の北伊那攻略戦

東に北条、南に今川という超大国がある甲斐国・武田家としては、領土を拡大するためには北西の信濃国に向かうほかはありません。

この点、信濃国は山地で平野部が遮られているために超大国が成立することはなく、伊那・諏訪・佐久・善光寺平・上田・松本という6つの盆地に国人衆が群雄割拠している状態でした。

そこで、武田信玄は、これらの小勢力を各個撃破していけば国力の増強が図れると考え、本拠地である甲斐国に近い場所から順に攻略作戦を展開していきます。

天文11年(1542年)9月に信濃国・諏訪郡を攻略した武田信玄は、続いて伊那獲得を目指すのですが、伊那盆地への侵攻は諏訪盆地から行うこととなりますので、まず攻略対象となるのは伊那郡北部(上伊那)となり、具体的には藤沢頼親が治める福与城と高遠頼継が治める高遠城に決まります。

なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【砥石崩れ】武田信玄の戦の概念を一変させた2度目の大敗北

戦国最強で名高い武田信玄は、52年の生涯の中で自ら指揮をとって敗れた戦が2回あります。

この2回はいずれも北信濃の雄・村上義清に敗れているのですが、生涯で2回しか負けていない理由は、この2回の敗戦により武田信玄を反省し、その都度兵法を変えていったからです。

このうち、特に武田信玄に大きな影響を与えたのが2回目の敗北である砥石崩れです。

砥石崩れによる敗戦とその後の砥石城攻略が武田信玄を負けない武将に育てあげたのです。

以下、武田最強伝説を作ったともいえる砥石崩れとそれが武田信玄に及ぼした影響についてみていきましょう。 “【砥石崩れ】武田信玄の戦の概念を一変させた2度目の大敗北” の続きを読む

【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦

塩尻峠の戦いをご存知ですか。

塩尻峠の戦いは、上田原の戦いの大敗で信濃国衆の信頼を失って信濃侵攻作戦を中座させられた武田軍が、負けイメージを払拭して武田軍健在を印象付けて信濃侵攻作戦が再開できるようになった極めて重要な意味を有する一戦です。

以下、塩尻峠の戦いに至る経緯と、塩尻峠の戦いの経過について見ていきましょう。 “【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦” の続きを読む

【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北

クーデターを成功させて武田家当主となった武田信玄は、父・武田信虎の政治によって荒れた甲斐国の内政を整えた後、本格的に信濃国への侵攻を開始します。

その後、武田信玄は、破竹の勢いで信濃国南部を制圧したのですが、その面前に北信濃の猛将・村上義清が立ちはだかります。

そして、ここで、家督相続以来連戦連勝であった武田信玄に初めて土がつきます。天文17年(1548年)2月14日に起こった上田原の戦いです。

この戦いでは、板垣信方、甘利虎泰という当時の甲斐武田家の絶対的2大看板を一度に失うという大敗北喫します。

本稿では、この上田原の戦いについて、その発生経緯から順に解説します。 “【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北” の続きを読む

【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年(1569年)1月4日、本圀寺に宿泊していた足利義昭を、織田信長によって畿内から追い出された三好三人衆が襲撃した大事件です。

発生した場所から六条合戦とも言われます。

それまで幕府足軽衆の1人として埋もれていた明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなった戦いとしても有名です。 “【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件” の続きを読む

【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦

足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、そのまま京に残って畿内の抵抗の排除を始めます。

最初のターゲットは、当時畿内を事実上掌握していた三好三人衆です。

織田信長は、上洛後、直ちに京のすぐ南側にあった勝竜寺城を囲みます。 “【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦” の続きを読む

【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦

尾張国と美濃国とを手に入れて勢いに乗る織田信長は、天下統一に向けて動き出します。

足利義昭という絶好の神輿を手にして迎えた上洛作戦の初戦は、南近江を治める六角氏です。

本稿では、この天下統一戦の始まりとなる、南近江攻略戦(観音寺城の戦い・箕作城の戦い)について見ていきます。 “【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦” の続きを読む

【島原の乱】幕府を鎖国へ導いた江戸時代最大の内乱

誰もが一度は耳にしたであろう島原の乱。

島原・天草の乱、島原・天草一揆とも言われる江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆です。

宗教戦争であるとか、厳しい年貢に反発した一揆であるとか様々な説が唱えられる戦いでもあります。

島原の乱により鎖国が始まり、以降明治維新に至るまでの江戸幕府の本格的戦争といえ、歴史的意味は絶大です。

本稿では、そんな島原の乱について、発生原因から、戦の経緯、事後処理について順に見ていきます。

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【禁門の変】過激な攘夷思想で孤立した長州藩が朝敵となった戦い

崇高な思想を掲げて過激な攘夷運動を繰り返す長州藩が政権内で孤立し、ついには武力によって朝廷に働きかけようとして失敗に終わるという禁門の変(別名:蛤御門の変)とそこに至る経緯について、主に久坂玄瑞の目線から簡単に説明したいと思います。

なお、久坂玄瑞らが京都御所で戦っている間、桂小五郎(後の木戸孝允)も興味深い動きをしていますので、余談として禁門の変の最中の桂小五郎の動きについても見てみます。 “【禁門の変】過激な攘夷思想で孤立した長州藩が朝敵となった戦い” の続きを読む

【姉川の戦い】織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り岐阜と京の導線を確保した戦い

姉川の戦いは、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とが最初に決戦をした合戦です。

この戦いの主戦力であった織田家と浅井家では、主戦場があった場所から「野村合戦」と呼んでいたのですが、この戦いに参戦し、後に天下を統一した徳川家が「姉川の戦い」と呼んでいることから、この表記が一般的となりました。

正面衝突だったのか奇襲だったのか、はたまた大戦だったのか小競り合いだったのかなど、戦いの内容についてついては諸説ありますが、いずれにせよ織田信長が南近江の支配権と岐阜・京都の進軍ルートを取り戻し、さらには琵琶湖水運を得た戦であったことは間違いないありません。

本稿では、いわゆる旧来の通説を基に、姉川の戦いについて、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【姉川の戦い】織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り岐阜と京の導線を確保した戦い” の続きを読む