【懐良親王】南朝征西大将軍として九州を制圧した後醍醐天皇の末子

懐良親王(かねよししんのう・かねながしんのう)は、後醍醐天皇の皇子(八宮)として生まれ、衰退する南朝の勢力を取り戻すために幼くして征西大将軍に任命されて九州に送られた親王です。

傑物揃いの後醍醐天皇皇子の中でもひときわ際立った軍事的才能を持ち、肥後国の菊池武光の協力を得て、領地無しから九州統一に迫る覇業を築きました。

他方で、裸一貫から九州統一に迫った軍才を持ちながら、明(中国)から日本国王に冊封されたことから歴史家の評価は必ずしも芳しくない人物でもあります。

本稿では、南朝が低迷していた南北朝時代初期の段階で唯一南朝優位の状況を作り上げた名将・懐良親王の生涯について紹介していきたいと思います。 “【懐良親王】南朝征西大将軍として九州を制圧した後醍醐天皇の末子” の続きを読む

【赤松円心(赤松則村)】赤松家躍進のきっかけとなった播磨守護

赤松円心(あかまつえんしん)は、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した武将です。出家前は、赤松則村(あかまつのりむら)と言いました。

赤松円心は、後醍醐天皇の皇子であった護良親王の呼びかけに呼応して挙兵し、足利尊氏と共に六波羅探題を攻略する武功を挙げたのですが、鎌倉幕府を滅亡させた後は後醍醐天皇に冷遇されたため、同じ境遇となった足利尊氏と共に建武政権打倒のために立ち上がり、これを果たして赤松家躍進の礎を築いた人物です。 “【赤松円心(赤松則村)】赤松家躍進のきっかけとなった播磨守護” の続きを読む

【第88代・後嵯峨天皇】鎌倉幕府に忖度して天皇家分裂をもたらした天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は、承久の乱で鎌倉幕府に敗れて失脚した後鳥羽上皇・順徳上皇系の天皇に代わり、同戦で中立の立場をとったことにより後に鎌倉幕府の後押しを受けて即位した土御門上皇系の天皇です。

承久の乱の後に即位した天皇ですので、完全に鎌倉幕府の影響下にあります。

この後嵯峨天皇が、死去に際して自身の後継者となる治天の君を誰にするか指名しなかったために、後深草上皇と亀山天皇との間で治天の君の座を巡って争われることとなり、このことが後に日本全国を2つに割った南北朝大乱の原因となっていきます。 “【第88代・後嵯峨天皇】鎌倉幕府に忖度して天皇家分裂をもたらした天皇” の続きを読む

【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名

荒木村重(あらきむらしげ)は、摂津国の有力国人の池田家に仕える武士の子として生まれ、後に織田信長に下った上で池田家を乗っ取り摂津国全域を支配するに至った戦国武将です。

その才覚を高く評価されて織田政権下で重用されながら、織田信長に反旗を翻し敗れ全てを失った武将でもあります。

また、織田信長との戦いでは、妻を残して居城であった有岡城から脱出しこれを見殺しにしたため、後世すこぶる評判の悪い人物でもあります。

本稿では、その後に茶人として生き、利休十哲の1人にもなった波乱万丈の戦国大名・荒木村重の生涯について簡単に紹介していきたいと思います。 “【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名” の続きを読む

【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将

片桐 且元(かたぎりかつもと)は、豊臣秀吉死後に豊臣家と徳川家との対立に翻弄された武将です。

若い頃は賤ヶ岳の七本槍の1人にも数えられるほどの武功を挙げるなどしていたのですが、豊臣秀吉からは官僚としての能力を買われて直参とされ、豊臣秀吉死後には家老として豊臣家を支えました。

もっとも、方広寺鐘銘事件に端を発した豊臣・徳川の対立の際に、徳川家康との内通を疑われて豊臣家から出奔し、徳川家臣として旧主家の滅亡を見届けることとなっています。 “【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将” の続きを読む

【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇

平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の後を継いだ第51代天皇です。

妃となった藤原帯子ではなく、その母親である藤原薬子を寵愛し醜聞を流したことでも有名です。

しかも、藤原薬子への執着の結果、これに唆されて平安京から平城京への遷都を試みるなどして朝廷を二分させる大事件を引き起こしています(薬子の変)。

最終的には、嵯峨天皇によって鎮圧されたために事なきを得たのですが、平安時代に南北朝の動乱が起きていてもおかしくなかった危険な事件でした。

本稿では、藤原薬子に溺れて朝廷を危機に陥れた平城天皇の生涯について簡単に見ていきたいと思います。 “【第51代・平城天皇】妃の母に溺れて薬子の変に連座した太上天皇” の続きを読む

【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟

織田長益(おだながます)は、織田弾正忠家当主であった織田信秀の十一男として生まれた武将であり、織田信長の末弟にあたります。

織田信忠の下について織田家の勢力拡大戦に従軍したのですが軍才はなく、目立った武功は見受けられませんでした。

本能寺の変により織田信長が死亡した後は、織田信雄・豊臣秀吉・豊臣秀頼の臣下となったのですが、そこでも武将としての活躍はほとんどありませんでした。

もっとも、千利休に茶道を学んで利休十哲の一人にも数えられるほどの茶人となり、千利休の死後に自らの茶道流派である有楽流を創始するに至り、長益系織田家嫡流初代として織田家の血を後世に残すことに成功しています。

出家後に有楽(うらく)・如庵(じょあん)と号したことから、織田有楽斎(おだうらくさい)と呼ばれることもあります。 “【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟” の続きを読む

【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男

織田 信雄(おだのぶかつ/おだのぶお)は、織田信長の次男です。

織田家による南伊勢乗っ取りのために南伊勢の北畠家に養子に出されて、同家で成長して見事に同家の乗っ取りを成功させ、織田家中も一門衆序列4位という高位に位置していました。

もっとも、武将としての評価は芳しいものではなく、織田信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に織田家を簒奪された上、その軍門に下って改易処分を受けるなど、その器量には大きな疑問符もつきます。

もっとも、数多く生まれた織田信長の息子のうち、江戸時代に大名として存続したのは織田信雄の系統だけであり、お家存続という成果を挙げたという意味では高く評価してもいい人物と考えます。 “【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男” の続きを読む

【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟

豊臣秀長(とよとみひでなが) は、豊臣秀吉の実弟です。

短期間で異例の出世を遂げる豊臣秀吉の傍らにあって、軍事・政治面で天下統一事業に大きく貢献しただけではなく、温厚な人柄によって家臣団や諸大名との調整役を務めるなど豊臣政権にとってなくてはならない立場にあった人物です。

また、豊臣秀吉に異を唱え、その制動を制御できる唯一の人物でもありました。

最終的には、大和国・紀伊国・和泉国と河内国の一部に及ぶ110万石を超える石高を領する大大名となり、また従二位権大納言となって大和大納言と尊称される出世を遂げています。 “【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟” の続きを読む

【小早川秀秋】関ヶ原の戦いのキーマンとなった豊臣秀吉の義甥

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、豊臣秀吉の正室「おね」の兄の5男として生まれた豊臣秀吉の義甥です。

幼くして豊臣秀吉・おねの養子となり、子宝に恵まれなかった豊臣秀吉の後継者候補として大事に育てられたのですが、文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀吉の子である豊臣秀頼が誕生したことにより人生が一変するという数奇な人生を歩んだ人物です。

それまでの後継者候補の立場から、新たに正当後継者となった豊臣秀頼の地位を脅かす可能性のある人物として邪魔者扱いされた上、他家(小早川家)に養子に出されてしまった上、その後も、豊臣家から冷遇されたことが、有名な関ヶ原の戦いでの寝返りに繋がっています。

寝返りにより東軍勝利の契機を作ったため、戦後に備前国岡山藩51万石を有することとなったものの、幼い頃からの飲酒によって体を壊し、21歳の若さで死去し、牽制を誇った小早川家を改易させています。 “【小早川秀秋】関ヶ原の戦いのキーマンとなった豊臣秀吉の義甥” の続きを読む