【多聞城(多聞山城)】大和国支配のため宗教勢力と戦う松永久秀の居城

多聞城は、三好政権下において松永久秀が難治の国と言われた大和国に侵攻するための橋頭保とするために築かれ、大和国平定後には巨大宗教勢力であった東大寺と興福寺を押さえつけ睨みを利かせるために用いられた城です。

戦国期の城の代表格と言える安土城の15年も前に築かれた城であったにもかかわらず、瓦葺きの屋根・漆喰塗りの白壁・四階建の高矢倉など、後世の築城に大きな影響を与えた画期的な城です。後の城で多用された多聞櫓の名称の由来となった櫓の発祥地となった城でもあります。

本稿では、そんな歴史的に重要な意味を持つ多聞城について紹介していきます。 “【多聞城(多聞山城)】大和国支配のため宗教勢力と戦う松永久秀の居城” の続きを読む

【筒井城】筒井氏8代の栄枯盛衰を見届けた大和国の古城

筒井城は、大和国・興福寺一乗院に属する有力宗徒で宗徒の取締役として筒井城を拠点に武士化し、筒井順慶の代に戦国大名となった筒井氏の居城です。

何度も争奪戦の舞台となり、後に筒井順慶大和郡山城に移るまで筒井氏の栄枯盛衰を見届けた城でもあります。

以下、筒井氏と共に波乱万丈の戦国乱世を生き抜いた筒井城の歴史について見ていきます。
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【安土城(日本100名城51番)】織田信長の最後の城

全国統一を目前にして夢破れた織田信長の最後に拠点が安土城です。

山城であるにもかかわらず石垣を巡らしたり、最初に石垣の上に天守を乗せたりと革新的な技術も数々見受けられます。

また、整備・発掘調査により歴史の解明も進み、観光のために訪れるにも最適な城かもしれません。

本稿では、そんな安土城について、できるだけ簡単にその歴史・縄張り等について説明したいと思います。 “【安土城(日本100名城51番)】織田信長の最後の城” の続きを読む

【和歌山城(日本100名城62番)】徳川御三家・紀州徳川家の居城

言わずと知れた徳川御三家の1つ紀州徳川藩の居城・和歌山城。

余り知られていませんが、御三家でありながら江戸幕府に対する藩主の謀反を疑われて惣構え構造の完成を見なかった城でもあります。

とは言え、その縄張りの見事さ、石垣の妙、重要文化財として残る岡口門、庭園や復元された御橋廊下の美しさなど一見の価値があることに疑問の余地はありません。

そこで、本稿は、和歌山城観光をより楽しむための前提となる和歌山城の歴史知識を簡単に説明します。 “【和歌山城(日本100名城62番)】徳川御三家・紀州徳川家の居城” の続きを読む

【勝竜寺城】細川ガラシャ輿入れと明智光秀最後の城

勝竜寺城は、細川忠興とその妻ガラシャが新婚時代を過ごした城であり、山崎の戦いで敗れた明智光秀が最後の夜を過ごした城でもあります。

京にもほど近く、度々歴史上のターニングポイントに現れる城であるにもかかわらず、その遺構のほとんどが消失していることから、マイナー扱いされている勝竜寺城。

本稿では、そんな勝竜寺城について簡単に解説をしていきます。 “【勝竜寺城】細川ガラシャ輿入れと明智光秀最後の城” の続きを読む

【高槻城】キリシタン大名・高山右近の居城

高槻城は、現在の大阪府高槻市のほぼ中央に位置する芥川の扇状地に築かれた平城です。

京都と大阪の中間にあり、南の淀川と北の西国街道とに挟まれた水陸の要衝でもあるというその立地の重要性から、西国大名に対する抑えとして天下普請によって本格的な大城郭として整備されました。

もっとも、明治期に鉄道敷設のためにそのほとんどが破却され現存していないため、歴史に埋もれてしまっています。

本稿では、そんな高槻城の歴史を振り返ります。 “【高槻城】キリシタン大名・高山右近の居城” の続きを読む

【岸和田城(続日本100名城161番)】紀州徳川藩の裏切りに備えた城

岸和田城は、現在の大阪府岸和田市岸城町にあった惣構え構造を有する巨大な平城で、江戸時代には岸和田藩の藩庁も置かれていました。

岸和田城は、別名として猪伏山榺城、蟄亀利城、千亀利城と呼ばれます。榺(ちぎり)とは、機のタテ糸を巻く器具のことで、本丸と二の丸を連ねた形がこの榺に似ているところからそう呼ばれています。

残念ながら、明治維新後の廃城令により、石垣と堀の一部を残して取り壊されていますので、現在残る遺構はこれらのみです(天守を含め現存するその他の建築物は再建されたものです。)。 “【岸和田城(続日本100名城161番)】紀州徳川藩の裏切りに備えた城” の続きを読む

【大和郡山城(続日本100名城165番)】秀吉の弟・豊臣秀長の居城

豊臣政権の絶対的ナンバー2で、紀伊国・河内国・大和国の3か国を治めた大和大納言豊臣秀長の居城・大和郡山城をご存知ですか。

大和郡山城は、大坂城防衛のための重要地点に建っており、100万石の大大名の居城としてふさわしい名城なのですが、豊臣秀長が早死にしたこともあって歴史に埋もれてしまっています。

本稿では、そんな名城・大和郡山城について簡単に紹介していきます。 “【大和郡山城(続日本100名城165番)】秀吉の弟・豊臣秀長の居城” の続きを読む

【二条城は4つある】三英傑が築いた4つの二条城を順に紹介します

京都を代表する観光地である世界遺産・二条城ですが、現存する二条城の他にも複数の二条城があったことをご存じですか。

それ以前の屋敷の規模にとどまる大きさものを除外し、城と言える規模のものだけを抽出してもこれまでに4つの二条城が存在しています。

①足利義昭の旧二条城、②織田信長の二条御所、③豊臣秀吉の妙顕寺城、④徳川家康の二条城です。

以下、これらの4つの二条城の歴史を簡単に紹介します。 “【二条城は4つある】三英傑が築いた4つの二条城を順に紹介します” の続きを読む

【明石城(日本100名城58番)】西国大名の東上を防ぐため山陽道に配された巨城

明石城については、JR明石駅からそびえたつ石垣や櫓が目の前に飛び込んできますので目にしたことがある方が多いのではないでしょうか。建物自体の多くは現存していませんが、明治以降の旧藩士の働きかけや天皇の御料地候補となったことがあったため、多くの曲輪が残されていることも見どころとなっています。

もっとも、明石城は、天守が存在しなかったこと、近くに有名な姫路城があること、合戦経験がないために脚光を浴びることがなかったことなどの理由により知名度はいまいちです。

明石城は、江戸幕府による山陽道上の城郭整備の一環を担う姫路城に並ぶ超重要拠点であり、本来は注目を浴びてしかるべき城でありこの知名度の低さは本意ではありませんので、本稿で簡単にその位置づけから説明したいと思います。 “【明石城(日本100名城58番)】西国大名の東上を防ぐため山陽道に配された巨城” の続きを読む