【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点

不破関(ふわのせき)は、天智天皇の死後に皇位継承を巡って勃発した壬申の乱に勝利して即位した天武天皇により、天武天皇2年(673年)に現在の岐阜県不破郡関ケ原町に設けられた古代東山道の関所の1つです。

当初は、東山道を監視することによって都(飛鳥浄御原宮)を防止する役割を担っていたのですが、次第に周囲の警察・軍事の機能を兼備するようになります。

また、律令制度の整備により、伊勢鈴鹿関(東海道)・越前愛発関(北陸道)と共に3関の1つに数えられ、関西(畿内)と関東(東国)とを分ける境目にもなっています。

もっとも、膨大な費用を要する三関の維持が困難となった朝廷は三関の廃止を決定し、延暦8年(789年)7月、不破関もまた廃止されるに至ります。 “【不破関】天武天皇により設けられた東山道防衛の拠点” の続きを読む

【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城

岐阜城(ぎふじょう)は、現在の岐阜市金華山(かつての美濃国井之口山・稲葉山)を利用して築かれた戦国山城です。

築城当初は東国にあった鎌倉幕府による、西国の朝廷に対する抑えとして築かれた砦(井口砦)にすぎなかったのですが、戦国時代に美濃国を治めることとなった斎藤家によって大改修がなされて稲葉山城となりました。

その後、同城に拠点を移した織田信長が、大規模改修を行うと共に岐阜城に名を改めたことで有名です(なお、このとき城下町も井口から岐阜に改名しています。)。

急峻な山に築かれた城であったことから山頂部に十分な平坦を確保できず、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は西麓の槻谷(けやきだに)に設けるという戦国期山城によく見られる二次元分離構造となっています。

織田信長が居城としたこともあって堅城と考えられがちな岐阜城ですが、急峻な山に築かれた城であるために平坦部が少なく籠ることのできる兵数が少ないこと、山自体が岩盤で構成されていることから井戸がなく水の確保が困難であったことなどからその防御力は高くなく、何度も落城している問題点の多い城でもありました。 “【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城” の続きを読む

【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城

大垣城(おおがきじょう)は、美濃国と尾張国との間に位置する現在の岐阜県大垣市郭町にあった戦国平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。

立地の重要性から、美濃国斎藤家と尾張国織田家との間で激しい争奪戦が繰り広げられ、その後の関ヶ原の戦いの際には、合戦前日まで西軍の本拠地とされており、本戦で西軍が敗れた後は激しい攻城戦の舞台となった城でもあります(大垣城の戦い)。

最終的には内堀・中堀・外堀の三重の堀とその中に並郭式に本丸と二ノ丸を並べてその周囲を三ノ丸で囲い、更にその外周に外曲輪を配置した惣堀構造を持った堅城に仕上がっています。

もっとも、廃城後の宅地開発や戦災によって城域の大部分が失われ、現在では門や石垣跡(及び、後に再建された復元建築物)などがわずかに残されているのみとなっています。 “【大垣城(続日本100名城144番)】関ヶ原合戦の西軍本拠となるはずだった平城” の続きを読む

【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城

八幡山城(はちまんやまじょう)は、本能寺の変の後の後継者を巡る争いに勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天正10年(1585年)に織田家の居城としてのシンボル的存在であった安土城を廃城して、その代わりとして近江国の国城として築かれた山城です。

徳川家康との間で小牧・長久手の戦いの講和を模索している時期の築城であったため、まだまだ防衛面での機能が重要視されており、八幡山という急峻な山が選地され、戦国期によく見られる城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は2本の尾根に挟まれた谷筋にある場所に設けるという二次元分離構造とされました。

城下には、八幡堀と呼ばれる全長6kmにも及ぶ運河が巡らされ、回船業を営むことができる親浦の一つである八幡浦と共に発展したのですが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、その名残を消すかのようにかつての居城であった八幡山城までもが廃城とされました。 “【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城” の続きを読む

【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城

小山城(こやまじょう)は、武田信玄が、徳川家康との密約(大井川より西は徳川領・東は武田領とする約束)を破って大井川西側に攻め込み、そこから遠江国侵攻の橋頭保とする目的で遠江国榛原郡に築かれた平山城です。

密約を破って遠江国へ侵攻する武田家と、それに抗する徳川家との争奪戦の舞台となった城です。

同じ争奪戦が繰り広げられた近くの高天神城や諏訪原城などと比べるとやや知名度が劣るのですが、これらの城とは異なり徳川軍の攻撃では陥落しなかったという実績を残す堅固な城ですので、その詳細について本稿で紹介したいと思います。 “【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城” の続きを読む

【諏訪原城・牧野城(続日本100名城146番)】武田・徳川の国境防衛のための山城

諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国侵攻の兵站基地とするため、天正元年(1573年)に武田勝頼によって遠江国の東端近くの大井川の西側にある牧之原台地の舌状台地の先端部に築かれた戦国山城です。

城内に諏訪大明神を祀ったことからその名が付されました(徳川期に牧野城に改称)。

築城後、遠江国の支配権を巡って争った徳川家康と武田勝頼が争った城であり、徳川家康が獲得した後に三日月堀を巡らした丸馬出が7ヶ所も設けられ、これらが良好な状態で残されていることでも有名です。 “【諏訪原城・牧野城(続日本100名城146番)】武田・徳川の国境防衛のための山城” の続きを読む

【膳所城】江戸時代に琵琶湖南側を守った水城

膳所城(ぜぜじょう)は、大津市街の東部に位置する相模川河口付近にあった膳所崎に築かれた湖城です。

元々、この付近を治めるための城として大津城があったのですが、関ヶ原合戦の前哨戦において大津城の防御力の脆弱性が露見したため、徳川家康による豊臣家対策として大津城に代わって築かれました。

東海道陸運と琵琶湖水運を牛耳る位置にあり、往時には、水面に映えるその姿は「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠、水に浮かぶは膳所の城」と謡われるほどの美しさであったと言われています。 “【膳所城】江戸時代に琵琶湖南側を守った水城” の続きを読む

【犬山城(日本100名城43番)】日本最古の天守が残る城

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国の最北端に位置し、尾張国に勢力を高めた織田家が美濃国との境防衛のために築いた平山城です。

戦国期に何度も攻城戦を経験し、3度に亘る落城とその後の対策から、戦国屈指の仕掛けが講じられた名城です。

また、江戸時代までに建造された天守が現存する「現存天守12城」の1つであり、建築年については諸説あるものの現存する日本の城の中で最古の天守があることから国宝指定された5つの天守のうちの1つとしても有名です。

さらに、 平成16年(2004年)4月1日まで、個人が所有していたという稀有な城としても有名です。 “【犬山城(日本100名城43番)】日本最古の天守が残る城” の続きを読む

【高屋城】安閑天皇陵が本丸として利用された管領・河内守護畠山氏の居城

高屋城(たかやじょう)は、室町時代に大勢力を誇った三管領の1つに数えられた名門畠山氏が河内守護として河内国支配の中心城郭とした城です。

安閑天皇陵と言われる高屋築山古墳を主郭として取り込んだ特徴的かつ複雑な城であり、河内国支配の重要拠点であったがゆえに畠山氏・安見氏・三好氏による争奪戦の舞台となって再三城主が入れ替わった城でもあります。

最終的には、天正3年(1575年)に織田信長の攻撃により落城して廃城となり、その後主郭部を残して宅地開発がなされたため、今日までに城址のほとんどが失われています。 “【高屋城】安閑天皇陵が本丸として利用された管領・河内守護畠山氏の居城” の続きを読む

【池田城(摂津国)】有岡城攻めの際の織田軍の陣城

池田城(いけだじょう)は、大阪府池田市にあった日本の城です。

建武元年(1334年)前後に現在の池田市にある五月山南麓の丘陵地に、豊島の土着豪族池田教依が築いた後は代々池田氏が城主を務めて拡張を続けました。

荒木村重が織田信長から離反した際、これを討伐するために編成された織田軍の陣城となったことでも有名です。

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