【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将

夏目広次(なつめひろつぐ)は、古くから安祥松平家(後の徳川家)に仕える譜代衆です。

「寛政重修諸家譜」の記載から一般的には「夏目吉信」の名で知られているのですが、一時資料ではその名乗りは確認されていないため本稿では文書上記された「夏目広次」の名で統一して紹介します。

夏目広次は、三河一向一揆の際に徳川家康から離反して一揆方に与するも、後に許されて徳川家臣団に復帰します。

そのため、夏目広次は、以降はこの恩に報いるために徳川家康への忠義を貫き、三方ヶ原の戦いの際には徳川家康の身代わりとなって壮絶な討ち死にを果たしています。 “【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将” の続きを読む

【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣

平岩親吉(ひらいわちかよし)は、人質時代から徳川家康に付き従った最古参譜代家臣の1人であり、江戸幕府開幕の功労者である徳川十六神将の1人にも数えられる忠臣です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍して激しい戦いを繰り広げたのに加え、その清廉潔白な人柄から、徳川家康の嫡男・松平信康の傅役、九男・徳川義直の後見人にそれぞれ任じられています。 “【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣” の続きを読む

【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将

大久保忠世(おおくぼただよ)は、安祥城を本拠としていた時代から松平家に支えたいわゆる安祥譜代7家の1家に生まれた徳川家康を幼い頃から支えた古参家臣の1人です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍し、激しい戦いを繰り広げた武田家との最前線となる二俣城を任され、徳川家康が関東に移封された後には、関東への東海道からの出入口となる小田原を任されるほどの強い信頼を得ており、後世には徳川十六神将の1人に数えられる徳川家康臣下の猛将です。 “【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将” の続きを読む

【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀

本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の参謀であり、江戸幕府の開幕の功労者です。

若い頃には三河一向一揆に参加して徳川家康に敵対し、その後は徳川家を出奔して全国を放浪した後に帰参を許されるという変わった経歴を持っています。

本多正信は、この放浪経歴に裏付けられた経験と人脈を駆使し、武断派の多い徳川家臣団の中で、数少ない官僚型家臣として徳川家康を支え、徳川家康・徳川秀忠という2代に亘る将軍の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るいました。

また、何を考えているかわからない狸親父と言われる徳川家康から、友と言われるほどの信頼を勝ち得た数少ない人物でもあります。 “【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀” の続きを読む

【渡辺守綱】徳川十六神将に数えられるもう1人の半蔵(槍の半蔵)

渡辺守綱(わたなべもりつな)は、安祥松平家に仕える古参の家に生まれ、槍働きで徳川家康の天下統一を支えた猛将です。

人質時代から徳川家康に付き従い、三河一向一揆の際に一旦は袂を分かったものの再び徳川家康の下に帰参し、徳川家の主たる戦いのほとんどに参戦して武功を挙げ続け、服部半蔵と並び称されるにまでに至ります。

晩年は、その経験を買われて尾張藩付家老とされ、三河国寺部城主に入って徳川義直を支えました。

後世には、徳川十六神将の一人にも挙げられています。 “【渡辺守綱】徳川十六神将に数えられるもう1人の半蔵(槍の半蔵)” の続きを読む

【榊原康政】豊臣秀吉に10万石の懸賞金を懸けられた徳川四天王

榊原康政(さかきばらやすまさ)は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる、徳川家康の側近中の側近です。

戦いで抜群の戦功を挙げているのみならず、大樹寺修業時代に学んだ幅広い知識・教養を用いて内政・外政でも大活躍をしており、文武両道の武将と言えます。

陪臣の立場から自らの才覚で立身出世を遂げ、徳川家康の主要な戦いにほとんど従軍してなんどもその危機を救い、遂には10万石という大領を与えられて上野国館林藩の初代藩主ともなっています。 “【榊原康政】豊臣秀吉に10万石の懸賞金を懸けられた徳川四天王” の続きを読む

【今川氏真】戦国大名・今川家を滅亡させた今川義元の嫡男

今川氏真(いまがわうじざね)は、海道一の弓取りと言われた戦国大名である駿河・遠江守護であった今川義元の嫡男であり、今川家12代当主です。

家督相続時には、駿河・遠江・三河を領有する大大名だったのですが、父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれた後は領国の混乱を鎮めることができず、数年のうちに徳川家康に三河国を奪われてしまいます。

また、残った駿河・遠江についても、武田信玄と徳川家康の同時侵攻から守りきれず、ついには遠江国を徳川家康に、駿河国を武田信玄に奪われて、戦国大名としての今川家を滅亡に追い込んでいます。

大名家を滅亡させた後も、正室であった早川殿の実家である北条氏を頼って生き延び、最終的には大名家であった今川家を滅亡させた徳川家康に臣従して生き延びていることから暗君としての評価を不動のものとしています。 “【今川氏真】戦国大名・今川家を滅亡させた今川義元の嫡男” の続きを読む

【奥平信昌】武田勝頼から長篠城を守り切った徳川家康の娘婿

奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は、織田徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦った長篠設楽原の戦いのきっかけとなった長篠の戦いの渦中にいた戦国武将です。

長篠城主として周辺巨大勢力の中を巧みに生き抜いていた奥平家に生まれた奥平信昌は、徳川家康の長女・亀姫を室に貰い受けて重用されました。

もっとも、縁故で出世した人物ではなく、武田軍から長篠城を守り切ったり、武田遺領切り取りに尽力したり、京都所司代として安国寺恵瓊を捕縛したりするなど、数々の功を挙げた極めて有能な武将です。

その能力を評価され、初代上野小幡藩主、その後初代美濃加納藩主となり、10万石もの大領を得るという立身出世を果たした人物でもあります。 “【奥平信昌】武田勝頼から長篠城を守り切った徳川家康の娘婿” の続きを読む

【碓井姫】酒井忠次正室となった徳川家康の叔母

碓井姫(うすいひめ)は、松平清康の娘として生まれた女性であり、徳川家康の父方の叔母にあたります。

また、碓井姫の母が、松平清康と再婚する前に水野忠政に嫁いで徳川家康の母である於大の方を生んでいますので、徳川家康の母方の叔母にもあたります。

碓井姫は、当初、長沢松平家の松平政忠に嫁いだのですが、松平政忠が桶狭間の戦いで死去した後、徳川四天王筆頭・酒井忠次に再嫁し、嫡男酒井家次を儲けています。 “【碓井姫】酒井忠次正室となった徳川家康の叔母” の続きを読む

【太原雪斎】海道一の弓取り今川義元を支え今川家最盛期を築いた軍師

太原雪斎(たいげんせっさい)は、海道一の弓取りと言われた戦国大名・今川義元を支えた僧・政治家・武将です。諱は崇孚(そうふ)といいますので、実際には太原崇孚が正しいのですが、本稿では一般的な名称である雪斎と表記します。

今川家の重臣の家に生まれながら若くして僧籍に入ったものの、今川義元の養育係となったことから今川義元が今川家の家督を相続した後は、内政・外交・軍事の全てにおいてその手腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた人物でもあります。 “【太原雪斎】海道一の弓取り今川義元を支え今川家最盛期を築いた軍師” の続きを読む