【摂家将軍】源氏将軍断絶後のつなぎの鎌倉殿の藤原頼経と藤原頼嗣

摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府において、源氏将軍が途絶えた後、九条家から迎えられた藤原頼経(第4代鎌倉殿)とその子・藤原頼嗣(第5代鎌倉殿)の2人の征夷大将軍を言います。藤原将軍あるいは公卿将軍とも呼ばれます。

摂家将軍が置かれた期間は、嘉禄2年(1226年)正月から建長4年(1252年)までのわずか26年間に過ぎません。

宮将軍を擁立するまでのつなぎとして擁立された上で北条家の権威の基盤として使われ、必要がなくなるとポイ捨てされるという悲しい結末を迎えています。

本稿では、悲しいつなぎの将軍であった「摂家将軍」について見ていきたいと思います。 “【摂家将軍】源氏将軍断絶後のつなぎの鎌倉殿の藤原頼経と藤原頼嗣” の続きを読む

【北条政子の演説】北条家の危機を鎌倉幕府の危機にすり替えた尼将軍の名演説

北条政子の演説は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て北条義時を討伐する好機と判断した後鳥羽上皇が、北条義時追討の院宣を発したのに対し、この「北条家の危機」を「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促したという歴史のターニングポイントとなった出来事です。

その後の承久の乱により、朝廷の権威を失墜させ、幕府と朝廷という二元体制から幕府による一元支配につながるきっかけともなりました。

本稿では、そんな歴史のターニングポイントの端緒となった北条政子の演説について、そこに至る経緯からみていきたいと思います。 “【北条政子の演説】北条家の危機を鎌倉幕府の危機にすり替えた尼将軍の名演説” の続きを読む

【北条義時追討の院宣】承久の乱のきっかけとなった後鳥羽上皇の命令

北条義時追討の院宣は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て好機と判断した後鳥羽上皇が、1221年(承久3年)、鎌倉幕府執権・北条義時打倒の兵を挙げた際に(承久の乱)、全国の有力者に対して自らに味方するよう命じた院宣です。

このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいませんでしたので、「北条家」存亡の危機に瀕することとなります。

もっとも、北条政子の演説により、「北条家の危機」であったのを「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促し、ついに後鳥羽上皇を打ち破る結果につなげるという大逆転劇をやってのけます。

本稿では、北条義時に敗れて権威を失った朝廷が武士に権力を奪われるという歴史のターニングポイントの端緒となった北条義時追討の院宣について、その発出の経緯からみていきたいと思います。 “【北条義時追討の院宣】承久の乱のきっかけとなった後鳥羽上皇の命令” の続きを読む

【牧氏の変・牧氏事件】北条時政が失脚し北条義時台頭の契機となった内紛

牧氏の変(まきしのへん)・牧氏事件(まきしじけん)は、元久2年(1205年)閏7月に起こった、北条氏内の内紛です。

北条時政とその継室である牧の方が、第3代鎌倉殿・源実朝を暗殺して平賀朝雅を第4代鎌倉殿に就任させるクーデターを画策したものの、北条時政の先妻の子である北条義時・北条政子らに阻止されて失脚するに至った一大事件です。

本稿では、将軍暗殺に失敗した北条時政が失脚し、北条義時が執権となって鎌倉幕府を事実上乗っとるきっかけとなった歴史の転換点でもある牧氏の変について、発生の要因から順に見ていきたいと思います。 “【牧氏の変・牧氏事件】北条時政が失脚し北条義時台頭の契機となった内紛” の続きを読む

【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件

堀川夜討ちは、文治元年(1185年)10月17日、源頼朝が、刺客を放って源義経の暗殺を試みたが失敗し、対する源義経が源頼朝に敵対することを決めるに至った暗殺未遂事件です。

政治の天才・源頼朝が、源平合戦の英雄である源義経を粛清するという名目で守護・地頭を設置するきっかけとなり、関東を治める地方武士から全国を治める武家の棟梁に駆け上がる最初のステップとなった歴史の転換期の事件でもあります。

本稿では、そんな大事件である堀川夜討ちについて、その発生経緯から見ていきたいと思います。 “【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件” の続きを読む

【曾我兄弟の仇討ち】源頼朝暗殺未遂事件にまで発展した日本三大仇討ちの1つ

曾我兄弟の仇討ち事件をご存知ですか。

曾我兄弟の仇討ちは、建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成(そがすけなり)と曾我五郎時致(そがときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ちとった事件です。

伊賀越えの仇討ち(寛永11年・1634年)・赤穂浪士の討ち入り(元禄15年・1703年)と並ぶ、日本三大仇討ちの一つに数えられている大事件です。

曾我兄弟の仇討ちは、後に武士社会において、仇討ちの模範とされて能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得ています。 “【曾我兄弟の仇討ち】源頼朝暗殺未遂事件にまで発展した日本三大仇討ちの1つ” の続きを読む

【鎌倉幕府滅亡】新田義貞の挙兵から鎌倉攻めまで

元弘3年(1333年)5月22日、源頼朝が開き、北条氏が権力を奪取して150年続いた鎌倉幕府が滅亡します。

鎌倉幕府滅亡のきっかけは、後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応した足利尊氏による六波羅探題攻略だったのですが、トドメを刺したは新田義貞による鎌倉攻略です。

前者は以前解説済みですので、本稿は後者の新田義貞による鎌倉攻めについて見ていきたいと思います。 “【鎌倉幕府滅亡】新田義貞の挙兵から鎌倉攻めまで” の続きを読む

源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵→東国私兵団として成立→公認東国私兵団→守護地頭設置権獲得→東北支配権→恒久的守護設置権→征夷大将軍任命という流れで確立していきます(完成は、承久の乱勝利後です。)。

この間、源頼朝はそのほとんどを鎌倉にて政治を行い鎌倉を離れていません。

すなわち、源頼朝の武家政権の樹立は、鎌倉で始まり,その後配下をうまく使って全国に拡大させていったのです。

本稿では、そんな源頼朝による武家政権の樹立のうちの初期の段階である鎌倉の開拓と東国支配に至るまでの流れについて見ていきたいと思います。 “源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造” の続きを読む

【足利尊氏旗揚げ】六波羅探題陥落に繋がった鎌倉幕府軍主力の離反

源頼朝によってひらかれた初の武家政権である鎌倉幕府でしたが、その支配権を確立した北条得宗家による横暴が目立つようになり、成立後150年ほどたつとその支配は限界を迎えていきます。

そして、後醍醐天皇の挙兵とそれに伴う全国各地の武士の蜂起によって始まった「元弘の乱」により、元弘元年(1333年)5月7日に足利尊氏によって六波羅探題が、同年5月22日に新田義貞によって鎌倉が陥落し、同日鎌倉幕府が滅亡します。

本稿では、この元弘の乱のうち、戦局が大きく動く一大事件となった鎌倉幕府軍主力・足利尊氏離反と、その後の鎌倉幕府の西国統治機関である六波羅探題の陥落について紹介していきたいと思います。 “【足利尊氏旗揚げ】六波羅探題陥落に繋がった鎌倉幕府軍主力の離反” の続きを読む

【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵・富士川の戦い東国支配木曽義仲追討→平家追討→西国支配→東北支配→征夷大将軍任命という過程を経て完成されます。

この中で、源頼朝の東国支配の経緯は従前説明しましたが、今回は平家追討後の西国支配の流れについて説明します。

源頼朝は、びっくり仰天の方法により西国支配を確立します。それは、鎌倉時代を学ぶ上で外すことができない「守護」と「地頭」の設置です。

学校では、守護は主に軍事力・警察力をもって治安維持を担い、地頭は主に土地を管理して年貢の徴収を行ったと学ばれた方が多いと思いますが、その詳細についてはあまり知られていないように思います。

そこで、本稿では、なぜ源頼朝が守護と地頭任命権を得たのか、またその任命権を得たことがどうして源頼朝(鎌倉幕府)の西国支配につながったのかについて簡単に説明します。 “【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝” の続きを読む