北条政子の演説は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て北条義時を討伐する好機と判断した後鳥羽上皇が、北条義時追討の院宣を発したのに対し、この「北条家の危機」を「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促したという歴史のターニングポイントとなった出来事です。
その後の承久の乱により、朝廷の権威を失墜させ、幕府と朝廷という二元体制から幕府による一元支配につながるきっかけともなりました。
本稿では、そんな歴史のターニングポイントの端緒となった北条政子の演説について、そこに至る経緯からみていきたいと思います。
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北条政子の演説に至る経緯
尼将軍の誕生(1219年7月19日)
源氏将軍治世初めての武家政権として成立した鎌倉幕府でしたが、当初は、鎌倉幕府の支配力は主に東日本に及んでいたものの、西日本についてはいまだ朝廷の力が強く及んでいたため、二元統治体制となっていました。
もっとも、朝廷にとっても、鎌倉幕府を討伐できるだけの力はなく、また源氏が清和天皇の血を引くいわば身内の関係にあったことから、鎌倉幕府の将軍が源氏の者であった間は、両者の間に微妙なパワーバランスが維持され、両者の間に武力衝突は発生しませんでした。
ところが、建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿・源実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶すると、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係が急速に悪化します。
その後、同年2月13日、北条義時からの皇族将軍下向の奏上を後鳥羽上皇が拒否し、これに対して後鳥羽上皇が北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じたことに端を発した対立により、北条義時が、同年3月、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で再び皇族将軍下向の圧力をかけるなどという問題に発展します。
このときは、軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく摂関家の子弟を下向させるとの結論に落ち着きます。
そして、最終的には、このとき2歳であった九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)を後の第4代鎌倉殿(摂家将軍)とするために下向させることとなり、承久元年(1219年)7月19日、三寅が鎌倉に送り届けられます。
もっとも、鎌倉殿となることが決まったとはたはいえ、この時点で僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、執権である北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。
いわゆる尼将軍の誕生です。
後鳥羽上皇の北条義時討伐計画
摂関家から三寅を迎えたことにより、朝廷と鎌倉幕府との関係はなんとか維持されたのですが、これらの将軍継嗣問題は、北条義時と後鳥羽上皇に消えることのないしこりを残します。
また、三寅下向により、その血筋から源実朝の次の鎌倉殿は自分であると考えていた源頼茂が反発して謀反を起こすという事件にまで発展します(源頼茂謀反事件)。
このときの鎌倉幕府内のごたごたを見た後鳥羽上皇は、さんざん煮え湯を飲まされてきた北条義時討伐のチャンスであると考え始めます。
そして、後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)ころから、毎月のようにどこかの寺社で密かに北条義時調伏の祈祷を行うようになります。
そして、承久3年(1221年)4月28日、ついに北条義時との対決を決意した後鳥羽上皇は、後鳥羽上皇の御所であった高陽院(かやのいん)において、土御門上皇・順徳上皇・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王などの皇族をはじめとする名だたる外戚・近臣・僧侶を招集した上、北条義時調伏の祈祷を行います。
その上で、後鳥羽上皇は、鳥羽離宮内の城南寺で行う予定の「流鏑馬揃え」を口実として、御所の警備を担う北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士らの招集を命じます。
もっとも、院宣を出せば鎌倉幕府は戦うことなく内部崩壊するとたかをくくっていた後鳥羽上皇は、単に集まった面々に兵を集めることを指示するのみで、具体的な京の防衛策や、鎌倉幕府御家人に対する事前調略工作を検討することはありませんでした。
流鏑馬揃い(1221年5月14日)
承久3年(1221年)5月14日、「流鏑馬揃え」の場に、北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士ら1700余騎が集まったのを見た後鳥羽上皇は、北条義時討伐を決意します。
北条義時追討の院宣後鳥羽上皇挙兵(1221年5月15日)そして、後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日朝、ついに北条義時討伐を掲げて挙兵します。
最初のターゲットに選んだのは、後鳥羽上皇の誘いを断った伊賀光季でした。
後鳥羽上皇は、藤原秀康・大内惟信・佐々木広綱・三浦胤義ら800騎を高辻京極邸の伊賀光季討伐に向かわせました。このとき伊賀光季が率いたのはわずか85騎でしたので、多勢に無勢で勝負になりませんでした。
次男・伊賀光綱の死を見届けた伊賀光季は、北条義時宛に事の顛末を伝える使者を送りだした後、討ち死にしてしまいます。
北条義時追討の院宣発布(1221年5月15日)
緒戦に勝利してほぼ京を制圧した後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日、東国を含む全国の鎌倉幕府御家人・守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の院宣や官宣旨をしたためます(なお、この院宣・宣旨については、実物が現存していないため、それらが正式文書としての「官宣旨」であったのか、略式の「院宣」に過ぎなかったのかなど、詳細は不明です。)。
後鳥羽上皇は、院宣・官宣旨の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって後鳥羽上皇方に味方すると考えて戦局を楽観視していました。
そして、この北条義時討伐の官宣旨・院宣は、同年5月16日、藤原秀康の所従であった押松丸に託され、鎌倉へも運ばれていきます。
上皇挙兵の報が鎌倉に届く(1221年5月19日)
以上のように、京から鎌倉に向かって、鎌倉幕府方の伊賀光季の使者と、後鳥羽上皇方の院宣・官宣旨の双方が送られたのですが、先に鎌倉に着いたのは、鎌倉幕府方の伊賀光季からの使者でした。
承久3年(1221年)5月19日、西園寺公経の家司・三善長衡と伊賀光季からの使者が北条義時の下に到着し、北条義時が、自らが朝敵とされたこと、上皇が挙兵したことを知ることとなります。
院宣が鎌倉に届く(1221年5月19日)
伊賀光季による上皇挙兵の報の到達から少し遅れて、後鳥羽上皇の使者・押松丸が鎌倉に入ります。
もっとも、三善長衡・伊賀光季からの報告を受けて鎌倉全域を警戒させていた北条義時は、鎌倉に入った押松丸を捕らえ、院宣と共に、院宣配布対象を記載した名簿を没収します。
関東の有力御家人に届く前に「北条義時追討の院宣・官宣旨」を回収できた北条義時でしたが、事情が分からない御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の報を聞いて大いに動揺します。
このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいなかったからです。
混乱した御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の理由を聞くために、北条政子・北条義時の下に続々と集まってきます。
もっとも、北条政子・北条義時としては、後鳥羽上皇が、「北条義時追討」のために挙兵したなどとは口が裂けても言えません。
そんなことを言えば、北条義時が御家人たちに捕えられて京に送られ、北条家が滅亡する可能性があるからです。
北条政子の演説
割れる軍議
北条義時・北条政子は、すぐに御家人たちを集め、承久3年(1221年)5月19日、その対応を協議するため軍議が開きます。
この軍議の出席者は、必ずしも明らかではありませんが、少なくとも、北条義時・北条時房・北条泰時・足利義氏・三浦義村・安達景盛・大江広元らは参加していました。
このとき、「北条義時」が朝敵とされただけであり「鎌倉幕府」の存続は問題とされていないという事の真相を知っていたのは、北条政子と北条義時ら一部の権力中枢にいた人物だけであり、他の御家人らは、鎌倉幕府の危機であると勘違いをしています。
そのため、御家人たちも自分たちの土地支配の後ろ盾である鎌倉幕府が失われないよう、必死になって対応を考えます。
このときの軍議は紛糾し、有力御家人が、朝廷との対立に慎重姿勢を示す守勢派(北条時房・足利義氏ら)と、武力で朝廷を鎮圧すべきとする攻勢派(安達景盛・大江広元・三善康信ら)とで意見が分かれます。
個人的には、文官であり、また息子が後鳥羽上皇に味方したという苦しい立場にいるはずの大江広元が、攻勢派であったことが驚きです。
守勢派は鎌倉の防御力を見込んで箱根・足柄に陣を敷いて後鳥羽上皇を待ち受けようと主張し、他方で攻勢派は京に向かって出撃すべきと主張したため、なかなか議論がまとまりませんでした。
ここで、業を煮やした北条政子が行ったのが、本稿の主題である起死回生の歴史的演説です。
北条政子の演説(1221年5月19日)
北条政子は、議論を重ねる御家人たちを庭に集め、歴史に残る演説を始めます(実際には、尼であったために世俗に関与できない立場の北条政子は、御簾の裏に隠れての参加となっており、この演説を読み上げたのは安達景盛です。)。
なお。このとき北条政子が行った演説は、「吾妻鏡(六代勝事記をもとに編集したもの」と「慈光寺本・承久記」に大まかな記載がなされており、以下、吾妻鏡・現代語訳を抜粋します。
「皆、心を1つにして聞きなさい。これは私の最期の詞(ことば)である。
亡源頼朝が、朝敵を征伐して関東を草設して以来、官位・俸禄を保証してきた恩は、山より高く、海より深い。
この恩に報いる意志もまた同じである。
これに対し、今般、逆臣の讒言により、道理に反した綸旨が下された。
名を惜しむものは、これに対抗して、速やかにその逆臣(藤原秀康・三浦胤義)を討ち取り、三代に亘る源氏将軍の遺跡を守るべきである。
ただし、後鳥羽上皇に降りたい者は、今すぐ申し出なさい。」
演説の内容を簡単に言うと、鎌倉幕府創設以来の源頼朝の恩顧を強調した上で、讒言に基づき鎌倉幕府を滅ぼそうとしている後鳥羽上皇の逆臣を追討しなければならないという内容でした。
「北条義時追悼」の院宣に対し、「鎌倉幕府の危機」であるかのように読み替え、事情を知らない御家人たちをまとめ上げた北条政子のしたたかさが際立っています。
他方、鎌倉幕府を創成期から支え、夫・息子2人の死を看取ってきた北条政子であったからこそ、夫・息子2人で作り上げた鎌倉幕府を必死に守ろうとしていると見え、御家人の心を動かしたのです。
この北条政子の演説により、御家人たちは北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めたのです。
そして、その後、北条政子の演説に心を動かされた御家人たちは、後鳥羽上皇らに対する対決姿勢を強め、京に出撃すべしとする攻勢論でまとまることとなり、安保実光ら武蔵衆の到着を待って京に向かって出撃することに決まります。
承久の乱へ
北条義時挙兵(1221年5月21日)
北条政子を精神的支柱とすることにより、御家人たちを後鳥羽上皇討伐に向かわせることに成功した北条義時でしたが、承久3年(1221年)5月21日、院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきます。
このとき、北条義時は、後鳥羽上皇の動きを見てきた一条頼氏から後鳥羽上皇の狙いが鎌倉幕府ではなく北条義時であるという事実が漏れることを恐れます。
そこで、北条義時は、鎌倉幕府の御家人たちが院宣の内容(北条義時追討)を知る前に出陣させてしまうことが重要であると考え、同日、信濃国・遠江国より東側の計15ヶ国の御家人に召集の命が下すとともに、北条泰時を先発隊として鎌倉から出立させることとします。
承久の乱の始まり(1221年5月22日)
北条泰時は、承久3年(1221年)5月22日早朝、軍備を整えることもせず、急いで18騎を率いて鎌倉を出発します。
北条泰時が寡兵で出陣する姿を見せて御家人たちをそれに続かせることにより、御家人たちに鎌倉に残って事の真実(院宣が、鎌倉幕府妥当ではなく、北条義時打倒を命じたものに過ぎないこと。)を認識させないようにするためでした。
その後、同日、北条時房・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱ら率いる東海道軍10万騎、同年5月25日までに、武田信光・小笠原長清・小山朝長・結城朝光ら率いる東山道軍5万騎、北条朝時・結城朝広・佐々木信実ら率いる北陸道軍4万騎が次々と鎌倉から出立して京に向かって進軍していき、承久の乱が始まることとなります。