【武田信玄の駿河国侵攻】今川と手切し北条を敵に回して海を得た戦い

 

信濃国全域と西上野を獲得した武田信玄は、越後を獲得して海(日本海)を得ることを諦め、駿河を獲得して海(太平洋)を得ることを目指します。

もっとも、駿河国侵攻は、同盟相手である今川家との戦いを意味し、今川義元の死により弱体化したとはいえ甲相駿三国同盟の破棄を伴う作戦となりますので、駿河国侵攻が武田家に及ぼす影響は絶大です。

本稿では、武田信玄が、今川・北条を敵に回してまで念願の海(湊・塩・海上輸送路・武田水軍)を獲得するに至った駿河国侵攻作戦について、そこに至る経緯から説明します。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

武田信玄の駿河国侵攻に至る経緯

今川義元の死(1560年5月19日)

天文23年(1554年)、武田・今川・北条という三大超大国間の巨大軍事同盟である甲相駿三国同盟が成立し、武田信玄は、この同盟により南側・東側の安全を確保して信濃国内で北にその勢力を広げていきます(時期的には、上田盆地で村上義清と争っている頃です。)。

もっとも、武田信玄の北進策は、越後の龍・上杉謙信と対峙してからはその勢いを失います。

上杉謙信が手強すぎて日本海に到達できないのです。

武田信玄の北進での領土拡大政策に停滞感が訪れ始めた永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打ち取られるという大事件が起こります。

今川義元の死により、今川氏真が後を継いだのですが、カリスマの死によって今川家中が混乱し、三河国岡崎城主・松平元康(後の徳川家康)が独立したり、遠江国においては今川家臣団の騒乱(遠州騒乱)が勃発ししたりするなどして、今川家は大きく力を落とします。

織田信長との同盟締結(1565年11月)

今川義元死後もしばらくは甲相駿三国同盟を維持していた武田信玄でしたが、上杉謙信との戦いに限界を感じていたこと、今川家の力が落ちていくのを目の当たりにしたことなどから、次第に北進(越後)ではなく、南進(駿河)を考えるようになっていきます。

そこで、武田信玄は、南側の駿河国・今川家攻略の布石として、永禄8年(1565年)9月ころから西側(美濃国)で勢力を伸ばしつつあった織田信長との同盟交渉を開始します(甲陽軍鑑)。

上洛の途を探っていた織田信長にとっても武田信玄との同盟は好都合であったため、武田・織田同盟はトントン拍子で交渉が進み、同年11月には武田信玄の4男・諏訪勝頼(後の武田勝頼)が織田信長の姪であり養女(遠山直廉の娘)でもある龍勝院と結婚するという婚姻同盟の形でまとまります。

義信事件

武田・織田の接近は、そのまま武田・今川の破局を意味しますので、武田・織田同盟交渉に、武田信玄の嫡男・武田義信(武田義信は、今川氏真の妹・嶺松院を正室としていました。)が反対します。

そればかりか、武田義信は、武田・織田同盟が纏まる直前に家臣である飯富虎昌・長坂勝繁・曽根周防守らと謀って謀反を計画します(甲陽軍鑑)。

このクーデター計画は事前に露見し、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌は切腹させられ、武田義信も永禄10年(1567年)10月19日に30歳で死去しています(切腹か病死かは不明)。

武田義信の死後、武田義信に嫁いでいた今川氏真の妹・嶺松院が駿河国に返還され、その結果、武田・今川の甲駿同盟関係が破綻します。

徳川家康との密約(1568年3月ころ)

永禄11年(1568年)3月に今川氏真の祖母・寿桂尼が死亡すると、武田信玄は、駿河国への野望を顕在化させていき、今川家臣の調略や三河国を治める徳川家康へ接近していきます。

そして、武田信玄は、徳川家康との間で、大井川を境にして東部を武田信玄が、西部を徳川家康がそれぞれ攻め取るという内容の今川領分割の密約を締結します。

なお、武田信玄から、相模の北条氏康・北条氏政父子に対しても、今川領の分割を提案したのですが、北条氏政はこれを拒絶しています。

第1次駿河侵攻【失敗】

第1次薩埵峠の戦い(1568年12月13日)

武田信玄は、徳川家康に対して従前の密約のとおりに遠江国に遅れることなく侵攻するよう申し向けた後、永禄11年(1568年)12月6日、穴山信君を先発隊とする1万2000人の兵を率いて駿河国への侵攻を開始します。

対する今川氏真は、庵原忠胤に1万5000人の兵を預け、武田軍を迎撃するために薩埵峠に向かわせました。

今川氏真は、さらに小倉資久・岡部直規に7000人の兵を預けて薩埵峠の北に位置する八幡平に配置し、今川氏真自身も興津の清見寺まで出陣して武田軍を待ち構えます。なお、今川氏真は、さらに北条氏政に後詰めを要請しています。

状況を見ると今川氏真方が有利に見えるのですが、武田信玄による今川家臣団に対する事前調略が功を奏しており、武田軍が迫ると、今川家の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら21人の武将が次々と武田信玄に内通します。

こうなると、今川方は戦線を維持できませんので、今川氏真は、戦うことなく退却を選択し、同年12月13日、今川氏真も清見寺を脱出します。

総大将が退却した今川軍の士気は地に落ち、薩埵峠に布陣した前線の部隊からも逃亡兵が続出したため、武田軍は難なく薩埵峠を突破することに成功します(第1次薩埵峠の戦い)。

今川館を占拠(1568年12月13日)

薩埵峠を突破した武田軍は、そのまま今川氏真を追って駿府・今川館に突入し陥落させてこれを占拠します。なお、武田軍は、今川館攻略以前に、詰城であった賤機山城を先行して占拠していましたので、今川氏真に籠る城がありませんでした。

今川館を占拠した武田軍は、馬場信春が中心となって駿府の町と今川館を焼き払います(なお、駿府に乱入する際、武田信玄から各将に対し、今川館には今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたにもかかわらず、馬場信春は、財産目当てで駿府を攻めたと思われては名折れであると判断し、敢えてこれらの宝物ごと焼き払ったとも言われていますが、真偽は不明です。)。

駿府を焼き払った後、武田軍は、続けてその支城である愛宕山城や八幡城も攻略します。

駿府を追われた今川氏真は、遠江国・懸川(後の掛川)城主の朝比奈泰朝を頼って落ち延びます。

また、なだれ込んでくる武田軍を避けるため、今川方の侍女らも方々に逃げ出し、今川氏真の正室であった早川殿(北条氏康の娘)女らは輿も用意できずに徒歩で逃げざるをえないという切迫した状況であったと伝えられています。

そして、この早川殿に対する扱いに激怒した北条氏康は、武田信玄との甲相同盟を破棄します。

懸川城の戦い(1568年12月27日〜)

武田軍から逃れて遠江国・懸川(掛川)城に入った今川氏真でしたが、武田信玄との密約によって、徳川家康が西側から遠江国に侵攻して井伊谷城や白須賀城、曳間城(のちの浜松城)を攻略してきており、永禄11年(1568年)12月27日には徳川軍に掛川城が包囲されます。

第2次薩埵峠の戦い(1569年3月13日~)

北から武田、西から徳川に攻められ危機に陥った今川氏真は、北条氏康に後詰要請をします。

今川氏真からの救援要請を受け、北条方からは4万5000人とも言われる大軍が動員され、北条氏政に率いられて小田原城を出陣します。

小田原城を出発した北条軍は、永禄12年(1569年)1月5日に伊豆国・三島に入った後、伊豆水軍を海路から懸川城救援に向かわせます。

その上で、北条氏政率いる陸上部隊は、そのまま西進し、同年1月26日、蒲原城に到達して同城を拠点として布陣します。

他方、武田信玄は、同年2月、河内領主・一門衆筆頭の穴山信君に、甲斐国との補給線上に位置する富士信忠が守る大宮城を攻めさせたのですが、蒲原城から出される北条軍の後詰による妨害もあって攻城戦は失敗に終わります。

そこで、武田信玄は、北条軍を撤退させるために1万8000人の兵で東に向かって軍を進め、同年3月13日、薩埵峠を封鎖した北条勢と対峙します。

その上で、下総国・簗田晴助、常陸国・佐竹義重、安房国・里見氏ら反北条勢力に呼びかけて反北条の挙兵を呼び掛けたのですが北条氏を撤兵させるには至りませんでした。なお、このとき、北条氏康や今川氏真もまた、反武田のために越後国・上杉謙信に武田領である信濃国を攻撃するように要請したのですが、功を奏しませんでした(武田信玄も、織田信長を通じて上杉謙信との和睦を試みたことにより足利義昭から御内書が発生られていたため・甲越和与)。

本格的な争いに発展することなく薩埵峠を挟んでにらみ合いを続ける武田軍と北条軍でしたが、同年3月も末頃になってくると、3カ月を超える長期遠征をしていた武田軍に兵糧の不足が見え始めます。

駿河国から撤退(1569年4月28日)

苦しくなった武田軍は、同年4月7日に、共同戦線をはる徳川家康に対し、掛川城攻撃を要請していますが、秋山虎繁(信友)ら下伊那衆が遠江を侵犯したことや、武田・徳川の密約の内容であった大井川を境にして東を武田・西を徳川で分け合うとの約定を一方的に破棄して天竜川を境にして東を武田・西を徳川で分け合うと言い出したこと等から、武田・徳川の関係が急速に冷えて徳川家康の協力が得られなくなっていました(その後、徳川家康が上杉謙信と同盟を結んだことにより、武田・徳川の関係は完全に決裂します。)。

そして、同年4月、もはや戦線を維持できなくなったことから、武田信玄は、駿河国からの撤退を決断します。

久能山に久能城を築城して横山城とともに対北条氏の拠点城郭とし、また江尻城に穴山信君を残した上で、同年4月28日、武田信玄は興津の陣を引き払って甲斐国に撤退します。

こうして、武田信玄による第1次駿河国侵攻作戦は失敗に終わります。

武田信玄・徳川家康の手切れ

永禄12年(1569年)4月に武田軍が撤退したため、徳川家康は、どさくさに紛れて統治者不在となった駿府を占領します。

もっとも、単独で今川軍・北条軍に対峙しなければならなくなった徳川家康も苦しくなったため、徳川家康は、危険を排除して撤退するべく、永禄12年(1569年)5月、不義理を続ける武田信玄との関係を手切とし、北条氏康と同盟交渉を開始します。

このとき、徳川家康は、同年5月17日、北条氏の仲介の下で、どさくさに紛れて占領した駿府と引き換えに掛川城を無血開城させることに成功します(なお、このときの仲介を基礎として、同時に徳川氏と北条氏の同盟が締結されます。)。

こうして、武田信玄の第1次駿河国侵攻作戦においては、武田信玄はほとんど戦果を挙げることができなかったのに対し,徳川家康は掛川城まで領土を東進させるという大戦果を得ます。

他方、後詰として遠征してきた北条軍も、幾つかの城を傘下に収めた後、相模に兵を撤退させます。

大名家としての今川家滅亡

また、交渉の末に掛川城を出た今川氏真は、北条氏政を頼って伊豆に落ちのび、北条氏政の嫡男・国王丸(北条氏直)を養子に迎えて駿河・遠江の支配権を北条氏に譲ったことにより戦国大名家としての今川家は滅亡します。

武田家が四面楚歌となる

また、永禄12年(1569年)6月9日、北条氏政と上杉輝虎(上杉謙信)が越相同盟を締結したことから、武田家は、西の織田信長とは一応の同盟関係があるものの、北の上杉、南・東の北条、南西の徳川と敵対するという、厳しい状況に置かれることとなります。

また、北条氏康の横やりと徳川家康との関係悪化によって第1次駿河国侵攻作戦が失敗に終わった武田信玄は、駿河国侵攻作戦の練り直しを迫られることとなりました。

第2次駿河侵攻【富士郡獲得】

北条軍を足止め(1569年6月)

第1次駿河国侵攻作戦に失敗して甲斐国に戻った武田信玄でしたが、すぐに再軍備を整え、再び駿河国侵攻作戦を展開します。

いきなり駿府を狙って失敗した第1次作戦の反省を生かし、このときは、北条軍を牽制した後で支城群から攻略していく作戦に切り替えました。

武田信玄は、永禄12年(1569年)6月5日、別動隊を編成して武蔵国・御岳城を攻撃させます(後に陥落)。

また、同年6月16日、武田信玄自ら本隊を率いて北条綱成が守る相模国・深沢城を攻撃します。

その後、武田信玄は深沢城の包囲を解いて伊豆国に入り、同年6月17日、伊豆国・三島を攻撃して北条軍をけん制します。

第2次駿河侵攻(1569年6月)

その上で、武田信玄は、本体を率いて御殿場から駿河国に入ります。

三島・韮山へと進んだ武田軍は、そのまま進路を西にとり、永禄12年(1569年)6月25日頃、中道往還(なかみちおうかん)を押さえる駿河国・富士郡の要衝である大宮城へ取りつきます。

武田軍は、本隊が大宮城を囲む一方で、別動隊が武蔵国秩父郡に侵攻して鉢形方面を荒らしまわったため、北条方は武田別動隊の対処に手いっぱいとなり大宮城救援軍を編成することができません。

こうして北条方の援軍を封じられた大宮城は孤立して城兵の士気が低下します。そして、籠城戦を維持できなくなった大宮城では、武田一門衆・穴山信君と大宮城方との開城交渉の結果、同年7月3日に大宮城は開城し武田方に下っています。

こうして、武田信玄は、駿河国・富士郡を獲得し、駿府への突破口を得ます。

第3次駿河侵攻【駿河国獲得】

北条軍を足止め(1569年9月)

第2次駿河国侵攻作戦で大宮城を獲得した武田軍は、一旦甲斐国に戻りますが、準備を整え、すぐに第3次駿河国侵攻作戦を開始します。

第3次駿河国侵攻作戦も、第2次駿河国侵攻作戦と同様に、まず北条氏康を牽制することから始めます。

まず、武田信玄は、碓氷峠を越えて上野国へ侵攻し、鉢形城包囲戦(永禄12年【1569年】9月10日)、滝山城攻城戦(同年10月1日)、廿里の戦い(同年10月1日)と、北条方の支城群に次々と攻撃を加えながら関東平野を南下していき、遂に小田原城を包囲します(同年10月1日〜)。

そして、5日間小田原城を囲むと共に小田原城下を荒らした後、武田軍は、三増峠を越えて甲斐国への帰還の途につきます。

もっとも、さんざん武田軍に領地を荒らされた北条方では怒りが収まりません。

そこで、支城の兵で甲斐国に戻る帰路にある三増峠で武田軍待ち伏せして足止めし、これを小田原城から追ってくる北条氏政率いる2万人が後方から攻撃して挟撃・殲滅しようと試みたのですが、武田信玄の巧みな戦術により返り討ちに遭います(三増峠の戦い・同年10月8日)。

北条軍を三増峠で蹴散らしたことにより、北条氏は、駿河国に軍を回すことが出来なくなります。

北条軍を牽制するという武田信玄の策は大成功に終わります。

第3次駿河侵攻(1569年11月)

こうして北条方の援軍を封じた武田信玄は、永禄12年(1569年)11月、満を辞して駿河国に侵攻します。

このとき駿河国に入った武田信玄は、第2次駿河国侵攻の際に獲得した大宮城に本陣を構えます。

そして、大宮城を本拠として、横山城、北条綱重の守る蒲原城などを攻略していきます。

また、永禄12年(1569年)に馬場信春の縄張りによって清水城(清水袋城)を築城した後、永禄13年(1570年)1月には駿河西部にまで進出し、武田勝頼らが花沢城と徳之一色城(後の田中城)を攻略して武田信玄による駿河国支配が完成します(結果的には、当初の徳川家康との密約のとおり大井川を境に今川領を武田と徳川で分け合う形となったのですが、その関係は当初の予定とは異なり最悪のものとなりました。)。なお、今川氏の本拠地であった今川氏館(後の駿府城)は、武田信玄には捨て置かれています。

駿河国を支配下に置いた武田信玄は、同年、馬場信春の縄張りによって江尻城を築城し、武田信玄は、この江尻城と前年に築いた清水城とを本拠とする念願の港と海上輸送路を確保しています

そして、この後、武田信玄は、志摩国で九鬼嘉隆に敗れて落ちてきた小浜景隆・向井正重の両名を登用し、これらの城を本拠とする武田水軍を編成していきます。

駿河国獲得後(遠江国・三河国侵攻へ)

元亀元年(1570年)10月、駿河国を得た武田信玄に対抗するため、に徳川家康が上杉謙信と同盟関係を結んだため、武田信玄は遠江国攻撃の大義名分を得ます。

そこで、武田信玄は、元亀3年(1572年)、武田軍は兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始し(西上作戦)、徳川家康の人生最大の危機となる三方ヶ原の戦いが起こるのですが、長くなりますので以降の話は別稿で。

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