諏訪、上伊那、佐久を次々に攻略し、順調に信濃国を侵食していた武田信玄ですが、上田原の戦いで村上義清に大敗して信濃国衆の信頼を失って信濃侵攻作戦を中座させられます。
そればかりか、占領地で反乱が起き、また他国からの侵略を受けるなど、厳しい立場に追い込まれていきます。
そんな中、武田信玄は、小笠原長時を破って、失地を回復し、さらには松本平を手に入れるという逆転劇をやってのけます。
なお、本稿がどの段階の話であるについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。
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上田原の戦い敗北と武田軍の求心力低下
武田軍は、天文11年(1542年) 9月に諏訪盆地攻略を、天文14年(1545年)6月に上伊那攻略を、天文16年(1547年) 8月に佐久盆地攻略を果たし、その後も破竹の快進撃を続けます。
勢いに乗る武田軍は、次の攻略目標として上田盆地に侵攻したのですが、天文17年(1548年)2月14日、村上義清の軍に大敗し(上田原の戦い)、甲斐国・躑躅ヶ崎館に逃げ帰ります。
武田軍は、この上田原の戦いの敗北により上田盆地・小県郡への侵攻の足掛かりを失うのですが、それのみならずこの敗戦によって武田軍の信濃侵攻作戦自体の危機が訪れます。
この戦いで板垣信方らを失った武田軍は、一気に信濃国での求心力を失い、それまで武田軍の快進撃になりを潜めていた信濃国内の反武田勢力が一気に蜂起したからです。
小笠原長時らの諏訪郡侵入
松本平を治める小笠原長時も、天文17年(1548年)4月、諏訪郡に対する武田家の支配力が衰えたと判断し、武田家から離反した藤沢頼親(小笠原長時の娘婿)、仁科盛能、村上義清らと示し合わせて諏訪下社へ侵攻を開始します。
諏訪郡代を務めていた板垣信方が上田原の戦いで敗死したため、以降は板垣信方の弟である室住虎登が引き継いでいたのですが、相次ぐ反乱に追われて諏訪郡の統治さえままならない状況に陥っており、十分な対応ができません。
また、小笠原長時は、その後も、同年7月1日、諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族矢島氏、花岡氏らに武田に反旗を翻させたため、諏訪下社近辺が大混乱に落ち入ります。
そして、小笠原長時は、この西方衆の反乱に乗じて諏訪郡へと勢力を拡大するため、本拠地である林城から5000人の兵を率いて諏訪郡に向かって進軍し、塩尻峠付近に布陣します。
塩尻峠の戦い(1548年7月19日)
小笠原長時の進軍を知った武田信玄は、天文17年(1548年)7月11日、まずは諏訪郡に危機をもたらしている小笠原長時を諏訪郡から追い払うべく3000人の軍勢を率いて躑躅ヶ崎館を出発します。
そして、天文17年(1548年)7月18日に上原城に入った武田軍は、同日夜、夜陰に紛れて小笠原軍5000人の陣が敷かれた塩尻峠の近くまで進めて朝を待ちます。
そして、天文17年(1548年)7月19日早朝、武田軍は、小笠原長時の陣を急襲し、小笠原軍を散々に打ちまかします(塩尻峠の戦い)。
1000人とも言われる死者を出し大敗北を喫した小笠原長時は、命からがら本拠地の林城に逃げ帰ります。
小笠原軍を追い払った武田軍は、諏訪にとって返して、離反した西方衆を追討し、諏訪の安全を確保します。
小笠原長時を追って松本平に侵入
武田軍は、逃げる小笠原長時を追い、塩尻峠の戦いで勝利した勢いにのって塩尻峠を越え、小笠原氏の本拠地・府中(松本)まで追撃し、小笠原長時の本拠地である林城付近を焼き払います。
また、塩尻峠の戦いにおいて小笠原長時の下で戦った村井氏が滅亡したことにより、武田信玄は、現在の松本市芳川小屋にあった村井氏の本拠地・村井城(小屋城)を接収します。
その後、武田軍は、同年7月25日、一旦上原城に帰陣して軍を整えるとすぐさま佐久郡に向かって進軍し、佐久郡の失地を回復します。
村井城普請(1548年10月4日)
武田信玄は、接収した村井城(小屋城)に兵を置き、松本方面への前線拠点とすることにします。
村井城(小屋城)が、小笠原氏の居城・林城の南西約6kmに位置しており、林城の攻略に都合がよかったからです。
そして、武田信玄は、同年10月4日、同城の総普請を開始し、松本平攻略作戦を勧めます。
村井城(小屋城)を抑えられたことにより、喉元にくさびを打ち込まれることになった小笠原方では、戦線離脱していた仁科盛明らが武田に寝返るなどして戦力が大きく減退し、以後武田軍の進入を止めるだけの力を失っていきます。
林城の支城群の攻略(1550年7月15日)
武田信玄は、村井城の普請完成を待ち、天文19年(1550年)7月3日、いよいよ本格的に小笠原長時を滅ぼすべく、躑躅ヶ崎館を出発します。
そして、武田軍は、同年7月10日に村井城に入った後、同年7月15日から、林城の出城である犬飼城(犬甘城)・埴原城などを次々と攻略していきます。
本格的な侵攻を受けた小笠原方では、戦線を維持できなくなり、同日夜、林城の支城である深志城(松本城)、岡田城(伊深城)、桐原城、山家城5城では城兵が逃亡し、島立城(荒井館)、浅間城の2城は武田に降ります。
また、大町・仁科道外、青柳城主・青柳頼長、刈谷原(苅谷原)城主・赤沢経康らも、次々と武田信玄に降っていきます。
林城落城(1550年7月15日)
次々と支城群が武田軍に攻略されたり寝返ったりしていったため、もはや勝ち目がないと悟った小笠原長時は、林城を捨てて一旦平瀬城に落ちていきます。
もっとも、小笠原長時は、平瀬城の維持も不可能と判断し、松本平を捨てて上田の村上義清を頼って逃亡します。
そのため、武田軍は、大きな戦いもなく、松本平(府中)を手に入れることに成功します。
深志城(松本城)の修築
松本平全体を手に入れた武田信玄は、松本平の支配と更なる目的である北信濃への侵攻の拠点となる地をどこに置くかを検討します。
そして、武田信玄は、奥まった林城ではなく、街道沿いの平地にある深志城の場所を選択し、林城を破却して深志城の修築を決め、23日に同城の総普請を開始します。
そして、馬場信春を深志城の城代に任じて、同城を通じて松本平の支配を開始します。
余談(小笠原家の没落)
松本平を攻略した武田信玄は、再度村上義清と雌雄を決するため、再度上田に侵攻します。
もっとも、武田信玄は、天文19年(1550年)9月、再度村上方の砥石城攻めで村上義清にまたもや大敗します(砥石崩れ)。
再度武田信玄を下した村上義清は、平瀬城で再起を図る小笠原長時を助ける形で松本平、続いて小諸へ進行し、武田信玄に奪われていた城を奪還していきます。
この勢いに乗じて、小笠原長時も、村上義清から3000人の兵を借りて深志城を奪還しようとし塔ノ原城へ出陣します。
そして、1550年10月末、小笠原長時が、梓川氷室に陣を敷くと、武田に下っていた旧小笠原氏家臣が集まり、小笠原軍は4000人を越えます。
ここで、鳥立城も小笠原勢に協力し、小笠原長時は勢いに乗ります。
ところが、村上義清が高梨勢や武田との対立して松本平に兵力を割く余裕がなくなり、小笠原長時に無断で葛尾城へ帰陣してしまいます。
その後、小笠原長時は、飫富虎昌を大将とする武田軍に攻められ、一旦は、塩尻からは上条藤太が援軍に駆けつたためにこれを追い返します(野々宮合戦)。
もっとも、その後、武田信玄が、本隊約1万人を率いて攻めてきたため、二木重高が守る中塔城へ籠城したのですが、籠城戦の後、中塔城内では二木家臣が武田氏に寝返り放火するなど、もはや武田氏に降伏するほかなくなり開城します。
その後、武田軍は、天文20年(1551年)10月24日、小笠原氏の残党が籠る平瀬城を攻略し、以降、原虎胤が平瀬城代となります。
そして、武田信玄は、天文21年(1552年)8月、小笠原勢で最後まで武田に抵抗する小岩嶽城(小岩岳城)を攻め、高坂昌信(このときは春日源助)が先頭に立って奮戦し城内に駆け込むなどして、同年8月12日これを攻略します。なお、高坂昌信は、この小岩嶽城(小岩岳城)攻めの戦功により50騎の足軽大将に抜擢され、同年さらに150騎に更に出世した後、天文22年(1553年)から小諸城主を勤めています。
小岩嶽城(小岩岳城)落城により、小笠原氏は、松本平から完全に駆逐され、小笠原長時はこの年に越後の上杉謙信を頼って逃亡し、小笠原氏は没落します。