織田信長は、尾張国を統一後、永禄3年(1560年)から美濃侵攻を開始しますが、美濃国を平定するのに足掛け7年間も費やしています。
織田信長のその後の快進撃と比べると、美濃平定には相当手こずったことが見てとれます。
以下、織田信長が苦労した美濃平定戦について、時間の経過を追いながら見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
美濃の3地域
美濃国は、大きく分けると、①稲葉山城と井ノ口の町がある西美濃(西濃)、②小高い山に囲まれた加茂野という盆地である中美濃(中濃)、③中美濃と山で遮られた東側にある信濃に接する東美濃(東濃)の3つに分かれていました。
このうち西美濃(西濃)が美濃国の中心であり、斎藤家の本拠地である稲葉山城とその城下町である井ノ口があり、これらを木曽川や長良川といった大きな川で守られた天然の要害であった上、これと西側の大垣城を拠点とする西美濃三人衆(氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就)との相互ネットワークで防衛力が強化されている地域でした。
西美濃平定戦失敗(1560年~)
美濃侵攻に至る経緯
元々は、織田信長が美濃のマムシ、斎藤道三の娘の帰蝶(濃姫)を正室に迎え、また織田信長は斎藤道三から美濃を譲るという遺言書を貰うほど、織田家・斎藤家には深い同盟関係がありました。
ところが、弘治2年(1556年)4月に、長良川の戦いで斎藤道三が息子の斎藤義龍に討ち取られると、織田家と斎藤家との仲が険悪になります。
その結果、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元を討ち、また三河の松平元康と同盟を結んで東の守りを得た織田信長は、次の攻略目標を、斎藤道三が自分に譲ると約した美濃に定め、美濃攻めを開始します。
攻略対象は,斎藤義龍率いる斎藤家居城稲葉山城です。
第1次西美濃侵攻(1560年6月)
桶狭間の戦いの10日後である永禄3年(1560年)6月2日、織田信長は、尾張中嶋郡から木曽川を超えて西美濃に侵攻します。
いきなり美濃国の中心を攻略する作戦です。
もっとも、この頃は、三河国岡崎城に入った松平元康(後の徳川家康)からの散発的な織田領攻撃があったためにその控えとして尾張国に兵を残さなければなりませんでした。
そんな中で北上を続ける織田信長軍に対し、稲葉山城の西側にある大垣城の氏家卜全、曽根城の稲葉一鉄、美濃北方城の安藤守就の西美濃三人衆の援軍として織田軍を横撃したため、横っ腹を突かれた織田信長軍は大敗を喫して尾張国に撤退します。
第2次西美濃侵攻(1560年8月)
織田信長は、続けて永禄3年(1560年)8月にも、再び西美濃への侵攻を試みますが、このときは侵攻を予想をしていた美濃兵が大軍で待ち構えていたため、ほとんど戦わずして撤退をしています。
織田信長は、この2度の戦いで、斎藤義龍の強さを思い知らされます。
斎藤義龍死去(1561年5月11日)
しかし、ここで織田信長に思わぬ幸運が訪れます。
斎藤義龍が、永禄4年(1561年)5月11日、35歳の若さで急死し、その嫡男であった僅か14歳の斎藤龍興が後を継ぐこととなったのです。
斎藤家の当主が、有能な斎藤義龍から若く凡庸な斎藤龍興に変わったことで、美濃国を狙う織田信長には願ってもないビッグチャンスが到来します。
森部の戦い(1561年5月14日)
斉藤義龍死去の報を聞いた織田信長は、直ちに1500人の兵を集め、西美濃侵攻を開始します。
清洲城を出て北西に進み木曽川・長良川を超えた織田軍は、永禄4年(1561年)5月14日、勝村(現在の岐阜県海津市平田町)まで進んだところで兵を伏せ、墨俣砦から迎撃に出てきた長井利房・日比野清実らが率いる斎藤軍6000人と対陣します。
数に劣る織田軍でしたが、織田信長は軍を三手に分けて潜ませ、湿地帯を進んで来た斎藤軍に対して三方から総攻撃を仕掛け、織田軍に与した森部城主河村久五郎や事前に追放処分を受けたために浪人として参加していた前田利家らの活躍もあり、長井利房・日比野清実・神戸将監らの将を含めた170人余りを討ち取る大勝利をおさめます。
西美濃侵攻作戦中止(1562年)
ところが、西美濃侵攻作戦を進める織田信長に、今度は悪いニュースが飛び込んできます。
永禄5年(1562年)、織田信長の従兄弟である犬山城主・織田信清が、領地分配を巡って織田信長と諍いを起こし、斎藤龍興に寝返ったのです。
犬山城は、木曽川を挟んで北側の美濃国中美濃と接する尾張国最北端に位置する城であり、中美濃からの攻撃を封じるため最重要拠点でもありました。
この犬山城が斎藤龍興に渡ったということは、織田信長が西美濃侵攻に侵攻すると,その際に手薄となる尾張を中美濃から狙われることを意味します。
そのため、犬山城の喪失により、このときの織田信長の西美濃平定戦は失敗に終わります。
織田信長は、やむなく美濃国侵攻ルートの変更を決め、西美濃からの侵攻を諦めて失った犬山城を取り戻した上でそのまま北上して中美濃から侵攻し、中美濃を制圧して美濃国を東西に分断して後詰封じ、その上で孤立した西美濃の稲葉山城を攻略するという作戦を立案します。
この作戦は、西美濃に直接侵攻するより美濃平定に時間はかかりますが、より可能性の高い作戦といえます。
清洲同盟締結(1562年1月?3月?)
ここで、織田信長は、本格的な美濃国侵攻作戦を進めるため、永禄5年(1562年)正月ないし3月、小競り合いを続けていた松平元康と軍事同盟を締結します(清洲同盟)。
これにより、南東の国境部の安全のみならず、松平家という今川・武田に対する盾を手に入れた織田信長は、以降、全力で美濃国侵攻作戦を進めていきます。
本拠地を小牧山城に移転(1563年)
西美濃直接攻略作戦から中美濃経由での攻略作戦に変更した織田信長は、早速中美濃攻略準備に取り掛かります。
織田信長は、永禄6年(1563年)、中美濃に近い小牧山に新城となる小牧山城(普請総奉行は丹羽長秀)を築き、織田家の本拠地を清洲城から小牧山城に移転します。
この小牧山城は、中美濃平定のために急遽作られた城であったにもかかわらず三重石垣を備えた本格的な城として高い防御力を備えており、後に起こった小牧・長久手の戦いの際には徳川家康軍の勝利を支えた城として機能しています。
中美濃平定戦(1564年~)
竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り
小牧山城に本拠を移して中美濃侵攻準備を整えた織田信長が、いよいよ美濃に入ろうとした永禄7年(1564年)2月6日、斎藤龍興の家臣であった竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、斎藤龍興から稲葉山城乗っ取るという事件が起こります。
この話を聞いた織田信長は、戦わずに稲葉山城を手に入れることが出来る好機であると考え、同年3月、竹中半兵衛に対して美濃半国を与えるとの条件を示して稲葉山城の明け渡すう交渉を持ちかけますが、竹中半兵衛にこれを拒否されます。
犬山城奪還(1565年2月22日)
調略による稲葉山城取得に失敗した織田信長は、やむなく武力による中美濃方面からの美濃侵攻作戦を開始します。
まずは、中美濃の入り口に位置する裏切者の織田信清が守る犬山城です。
織田信長は、犬山城の支城群をを次々攻略した後、永禄7年(1564年)8月から犬山城の攻城戦を開始し、永禄8年(1565年)2月22日にこれを落城させます。
鵜沼城・烏峰城・猿啄城の攻略
犬山城を取り戻したことにより中美濃への入り口を確保した織田軍は、長良川を越えて中美濃に進入し、伊木山の地に砦を築いて橋頭堡とします。
その上で、織田軍は、鵜沼城・烏峰城・猿啄城への同時侵攻を開始しました。
ここで、鵜沼城城主大沢次郎左衛門(大沢二郎左衛門)が木下藤吉郎の説得を受け入れ開城し、烏峰城も続いて開城します。
その後、猿啄城もまた陥落します(丹羽長秀の先方であった河尻秀隆がその功績から城主に任命され、この勝利を祝って勝山城に改めています。)。
中美濃平定(1565年7月)
鵜沼城・烏峰城・猿啄城を獲得した織田軍は、これらを足掛かりとして中美濃の加茂野盆地に向かって侵攻していきます。
この織田軍の侵攻に対し、加茂野に城を構える、関城主の長井道利・堂洞城主の岸信周・加治田城の佐藤忠能が、中濃三城盟約を結んで対抗を試みたのですが、永禄8年(1565年)7月10日、加治田城主佐藤忠能・忠康父子と加治田軍(加治田衆)が織田信長の調略に呼応して寝返り、すぐさま盟約が破綻します。
その後、織田信長は、堂洞城主の岸信周の調略を試みたのですが失敗したため、同城を包囲して陥落させます(なお、堂洞城では、岸信周が18度も敵兵を追い返した後、本丸に引き奥方と共に自刃したとも言われ、同城は戦後に焼き払われています。)。
その後、織田信長率いる織田軍は、長井道利率いる関城軍と斎藤龍興軍の攻撃を受けて一旦犬山城に戻るも、再び加治田軍と共に関城を攻略しています。
織田信長は、これらの一連の勝利の結果、中美濃地方を完全に平定し、美濃国内の斎藤勢を西と東に分断させることに成功します。
西美濃平定(1567年8月)
河野島の戦い(1566年閏8月8日)
中美濃を制圧した織田信長は、あらためて斎藤家の本拠地である稲葉山城を目指して西美濃侵攻作戦を始めます。
そして、永禄9年(1566年)8月29日、西美濃国境まで進軍した織田軍でしたが、予期せぬ出水に遭遇して進路を阻まれたため、木曽川を渡って国境付近に位置する河野島(現在の岐阜県各務原市木曽川辺りとも言われますが正確な場所は不明です。)へ入ります。
他方、織田軍迫るの報を聞いた斎藤龍興は直ちに軍を派遣し境川を防衛ラインとして布陣したため、織田側もまた川べりまで後退し、境川を境に相対したのですが、その後、木曽川が増水したため両軍ともに動きが取れなくなります。
そして、同年閏8月8日になり、水が引き始めたことから織田軍が撤退を開始したのですが、まだ洪水は治まっていなかった川に足を取られた織田軍に多くの溺死者が出ます。
これを好機と見た斎藤軍が、川から上がってきた織田方に攻めかかって多くの兵を討ち取り、織田兵は武器すら投げ出し逃げていくという大惨敗を被ったと言われています(河野島の戦い)。
もっとも、織田信長の歴史を記す一級資料と言える太田牛一が記した「信長公記」には河野島の戦いについての記載はなく斉藤方に残る西美濃三人衆及び竹腰尚光から甲斐国の快川紹喜に宛てた戦勝報告を記した連判状の中にしか記録が残されていませんので実際のところは不明です。
西美濃三人衆の調略(1567年)
中美濃を制圧したとはいえ、西美濃を攻略するには西美濃三人衆への対応が必要だと判断した織田信長は、ここか西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)の調略を開始し、ついにこれを成功させます。
この西美濃三人衆の調略成功により、斎藤家の本拠である稲葉山城が完全に孤立します。
稲葉山城の戦い(1567年8月)
こうして稲葉山城を丸裸にした織田信長は、いよいよ稲葉山城攻略へ動きます。
永禄10年(1567年)8月1日、内通した西美濃三人衆の案内によって織田軍を瑞龍寺山に登らせた上、城下町である井ノ口を焼き払います。
その上で、翌同年8月2日には稲葉山城の四方に鹿垣(ししがき)を築いて稲葉山城を完全に包囲してしまいます。
この織田軍の動きに対し、斉藤龍興は、一旦は稲葉山城に籠城する構えを見せたものの、士気の低下した城兵では籠城戦を維持出来ないと判断し、同年8月15日に降伏して稲葉山城を明け渡して長良川沿いに北伊勢・長島へ逃れたことにより稲葉山城の戦いが終わります。
西美濃攻略後の快進撃と東美濃について
この結果、中美濃に続いて西美濃までをも平定したことにより、織田信長の美濃平定戦は終わります。
なお、稲葉山城を獲得して西美濃を制圧した織田信長は、周の文王の故事にちなんで稲葉山城を岐阜城に、城下町井ノ口を岐阜にそれぞれ名を改め、ここを本拠として本格的に天下統一に乗り出します。
残った東美濃(東濃)については、この後、織田信長と武田信玄・武田勝頼との間で熾烈な争奪戦が始まるのですが、長くなるので、本稿での紹介は割愛します。