【御成敗式目】武士の基本法はなぜ作られ、いつまで使われたのか

御成敗式目は、貞永元年(1232年)に鎌倉幕府執権北条泰時によって制定された51か条から成る武家法であり、武家政権最初の成文基本法典です。

日本では、法規として既に律令が存在していたにも関わらず、新たに御家人統制と訴訟・行政の基準を示す法が制定されたのはなぜだと思いますか?

実は、律令が公家法であったために武士にそのまま適用することが難しかったという理由があるのですが、それ以上に文字が読めない者が多かった鎌倉武士に律令が認知されていなかったという理由が挙げられます。

すなわち、鎌倉幕府成立後も、鎌倉武士にとっては「律令て何?」位の認識しかなく、武士を規律する法が機能していないに等しかったのです。

そこで、鎌倉幕府に属する武士に行動指針を与えるために制定されたのが御成敗式目だったのです。

御成敗式目が必要とされた理由

御成敗式目制定前の法規

日本では、飛鳥時代頃から中国の法体系に倣う形で法律の整備が進められていきました。

そして、大宝元年(701年)にそれまでの集大成として全17巻にも及ぶ大法典として完成します(大宝律令)。

大宝律令の内容は、天皇を中心とした中央集権を進めために制定された現代の法律に相当するものであり、6巻からなる律(現在でいう刑法)及び11巻からなる令(現在でいう行政法)と、その追加法たる格・施行細則たる式で構成されていました。

すなわち、律令は、天皇を支える官僚機構を構築することでこれらを通じて全国の土地・人民に支配を及ぼすためのものでした(その後、天平宝字元年/757年の養老律令に引き継がれていきました。)。

もっとも、律令は貴族社会の法であり、一般庶民はもちろん、武士階級にも全く周知されていませんでした。

そのため、律令は、武士対武士、武士対庶民、庶民対庶民の諍いについては全く無意味なものでした(貴族は、武士や庶民の生活に興味はありません)。

源頼朝による武家統治システム構築

政治が貴族によって行われている間は律令に基づく法律システムで大きな問題は起こらなかったのですが、時代が進んで平安時代の末期になると、武士の力が強くなっていき、それに伴って武士対武士の諍い(主に土地所有権を巡る紛争)も増えていきました。

そんな中、富士川の戦いに勝利した源頼朝が鎌倉に入り、平家打倒を目指し、武家政権を確立するための拠点とするべく鎌倉を開発していきました。

鎌倉を本拠とした源頼朝は、味方となる御家人を集めていったのですが、次第にその数が増えていったため、物理的に源頼朝とその側近たちだけでは対応しきれなくなります。

そこで、源頼朝は、増えていく御家人達を管理する必要に迫られ、御家人を管理して後の鎌倉幕府による東国統治を進めていくために新しい機関を作っていきます。

まず最初に設置したのは侍所です。今でいう、人事部です。

侍所の設置により、それまで源頼朝と行っていた御家人に関する手続きが、侍所を通じて行われるようになり、その管理が一気に合理化されます。この侍所は、人事部であるとともに、警察・防衛をも担当することとなります。

また、御家人が増加により鎌倉幕府が認める土地が増えていくため、そこの管理・徴税に加え、その調整や統合した鎌倉幕府自体の政務をする必要が出てきます。

今風にわかりやすく言えば、個人事業主が法人成りするようなイメージでしょうか。

これらの幕府行政を一手に引き受ける新しい機関として公文所(後の政所)が設置されます。今でいう総務部です。

訴訟専門機関設置の必要性

さらに、源頼朝の下に多くの御家人が集まってくると、当然それぞれ紛争を持ち込んで来るようになります。

そして、その多くが土地紛争でした。

と言うより、むしろ東国武士の最大の関心事は、土地所有についてのものであり、自らの土地所有の正当性を認めてもらうために源頼朝を担いでいたというのが本音でした。

それまでの東国武士は、土地を巡る紛争に際して自分の意見が通らなければ、すぐに武力で解決しようとしたため、非公式に発足した源頼朝の軍事政権(後の鎌倉幕府)としては、この東国武士の土地紛争を解決することが重視されました。

実際、源頼朝挙兵後も東国武士相互間の土地紛争は続発し、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなったのです。

鎌倉幕府のキーワードとなる「御恩と奉公」のうちの御恩の1つが土地使用権の安堵(本領安堵・荘園の場合などでは法的には所有権は持っていませんので、あえて使用権と表記します。)だからです。

この土地使用権の安堵があるから、御家人は鎌倉幕府に奉公するのです。

とは言っても、御家人の土地使用権の安堵はとても難しい問題です。

土地使用権を御家人同士で争っている場合などでは、双方の土地所有権を安堵することができませんので、これを適切に判断し、かつそれを当事者(特に敗訴方御家人)に納得させなければならないからです。

また、御家人と公家・寺社との争いの場合には、鎌倉幕府による朝廷や寺社との調整までが必要となるからです。

もっとも、ここで大きな問題に直面します。

それは、これらの者たちの間の土地紛争を解決するための基準がなかったことです。

この時点では、日本国内で適用される法規として律令が存在したのですが、律令は貴族のための法であり、武士社会で適用するのは適当ではありませんでした。

また、鎌倉武士は、地方武士であったために学問に疎く、文字を読める者すら少数であったため、そもそも律令の存在すら認知されていませんでした。

そのため、鎌倉武士達の土地紛争解決は困難を極めました。

当初は、公文所においてこの土地紛争を個別具体的に処理していたのですが、あまりに土地紛争の数が多くてとても公文所では処理しきれなくなります。

そこで、訴訟専門の機関の設置が求められるようになりました。

問注所設置(1184年10月20日)

こうして設置されることとなったのが問注所です。

問注所は、元暦元年(1184年)10月20日、大倉御所の東西にある小さな建物をその設置場所として発足します(当初から独立の機関として設置されたのか、当初は公文所の一部として作られた後に独立したのかについては争いがあります。)。

そして、その長である執事には、親類に源頼朝の乳母がいた縁をたどり、京から代々算道を家業としていた三善康信を招き初代問注所執事に任命しています。

なお、長をわざわざ京から招いた理由は、物事を論理的に審理・判決する能力がある者が坂東武者の中にいなかったからです。

こうして設置された問注所でしたが、裁判制度ができても東国武士の血の気の多さが直ちに収まるものではなく、問注所には多くの案件が持ち込まれ、そこでは多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交わされたそうです。

実際、建久3年(1192年)に起こった熊谷直実と久下直光の土地紛争では抜刀騒ぎの事件に発展するなどしています。

武士と朝廷のパワーバランスが逆転(1221年)

初めての武家政権として成立した鎌倉幕府でしたが、成立当初の鎌倉幕府の支配力は主に東日本には及んでいたものの、西日本についてはいまだ強く及んでおらず、東日本には幕府の、西日本には朝廷の力が強く及ぶという二元統治体制となっていました。

この状況下で、建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が暗殺されて鎌倉幕府が北条家の支配下に置かれると、一御家人に過ぎない北条家(北条義時)が執権の立場で実質支配する鎌倉幕府と共存することが朝廷の勘気に触ったこともあり、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係が急速に悪化します。

そして、ついに後鳥羽上皇が、承久3年(1221年)5月15日、北条義時討伐を掲げて挙兵します。なお、このときの後鳥羽上皇の目的が鎌倉幕府という組織の打倒であったのか、北条義時個人の討伐であったのかは必ずしも明らかではありません。

もっとも、承久3年(1221年)5月19日に行われた北条政子の演説などにより、御家人たちは北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めたため後鳥羽上皇の下に将兵が集まらず、後鳥羽上皇方は鎌倉幕府軍に鎮圧されてしまいます(承久の乱)。

承久の乱では、日本史上初めて朝廷が朝敵に敗れた戦いとなり、その結果、朝廷が事実上武士の軍門に下り名目的存在に成り下がる結果をもたらしてしまいました。

その結果、朝廷・公家階級が無力化し、以降武士が国家の実効支配権(行政権、立法権、司法権)を奪取してしまったのです。

鎌倉幕府が西国裁判実務も所管(1221年)

鎌倉幕府は、承久の乱を鎮圧した後、上皇方から没収した所領に東国御家人を新補地頭に任じて西国に派遣した上で、朝廷を監視するために京に鎌倉幕府の出先機関として六波羅探題を設置します。

その結果、西国の裁判事件もまた六波羅探題を通じて鎌倉幕府が所管することとなります(六波羅探題の裁定に不満があれば、鎌倉に異議を申し立てることも可能でした。)。なお、元寇後には九州の訴訟は鎮西探題が担当しています。

以上のとおり、全国的に勢力を拡大した鎌倉幕府では、東国は問注所が、西国は六波羅探題が訴訟実務を担当・処理することとなりました。

その結果、鎌倉幕府において全国の武士の訴訟実務を一手に引き受けることとなったため、その処理件数が急騰します。

もっとも、前記のとおり、鎌倉幕府では、基本概念となる法規が存在しておらず、1つ1つ個別事案を詳細に検討して裁定が下されていましたので、簡易迅速処理が進みません。

そこで、鎌倉幕府の訴訟事案処理が滞って未処理事案が積みあがっていきました。

御成敗式目制定

御成敗式目制定(1232年)

対応に困った鎌倉幕府では、訴訟処理の簡易迅速化を進めるため、執権・北条泰時が中心となって連署・北条時房、太田康連、斎藤浄円ら評定衆と協議し、判断基準となる法規を制定することを目指し、それまでに問注所・六波羅探題にて裁定されてきた裁定を先例や道理(慣習・道徳)として整理する形で成文法化作業を進めていきます。

そして、鎌倉幕府は、貞永元年(1232年)、源頼朝以来の慣習・判例を整理した成文法となる全51か条の御成敗式目(貞永式目・関東御成敗式目)を制定しました。

この結果、武士社会で起こった紛争が御成敗式目により公平に裁定されることが決まりました。

これにより、武士の意識として、御成敗式目がその行動規範となるという共通認識ができあがります。

そのため、御成敗式目が武家政権の基本法典(武家法の出発点)となったのです。

御成敗式目の内容

御成敗式目は、鎌倉幕府支配圏における、武士社会の秩序維持と公正な裁判基準の提示を立法趣旨として全51か条で構成されました(朝廷支配下では公家法が、荘園領主支配下では本所法が適用されるとされています。)。

その具体的内容は、概ね以下のとおりです。

① 神社・寺院関係(1条〜2条)

② 朝廷・本所との関係(3条〜6条)

③ 裁判原則(7条〜8条)

④ 刑事法(9条〜17条)

⑤ 家族親族法(18条〜27条)

⑥ 訴訟法(28条〜31条、35条)

⑦ 刑事法・追加(32条〜34条)

⑧ 朝廷領と名主・地頭との関係(36条〜38条)

⑨ 官位(39条〜40条)

⑩ 奴婢・逃亡農民(41条〜42条)

⑪ 刑事法・追加(43条〜51条)

以上の内容で制定された御成敗式目は、武家社会を秩序づける根拠となったため、後に武士社会が確立したことにより武家政権による日本初の武士国家法であるとともに中世以降の法体系の基盤となりました。

公武二元支配確立

以上のとおり、御成敗式目は承久の乱終結後まもなくの時期に制定されたものであり、当然、力を強めていく鎌倉幕府に対し朝廷の警戒心は高まっていきます。

そこで、北条泰時は、朝廷に対し、六波羅探題を通じて朝廷権力との棲み分けをアピールするために泰時消息文を提出し、御成敗式目が朝廷の法(律令)や沙汰を改めるものではないと弁明をしています。

この北条泰時の対応を見ても、幕府側は、鎌倉幕府を頂点とする武家社会(幕府と御家人との関係など)は、朝廷を頂点とする旧来のピラミッド社会を破壊する意図はなく、朝廷の他に武士も新たな社会を構築するという公武二元支配を確立しようとしていたことがわかります。

御成敗式目制定後の調整

御成敗式目制定後の鎌倉幕府の争訟処理

御成敗式目の制定により幕府権力が及ぶ地域での裁判基準を確立させた鎌倉幕府は、さらなる迅速な裁判を目指し、建長元年(1250年)12月9日に引付衆を新設して御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を所管させます。

なお、刑事事件訴訟(検断沙汰)は侍所が、一般民事訴訟(雑務沙汰)は政所がそれぞれ所管しています。

また、問注所は、東国におけるこれらを除いた訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱う機関となり、これらの各機関が役割分担をすることで御成敗式目に基づいた公平迅速な裁判業務が進められていきました。

式目追加

そして、御成敗式目制定後、時間経過により新たな問題が生じてくると、その都度追加法が制定されることで対処するようになりました(式目追加)。

御成敗式目の終焉

室町幕府に継承

鎌倉幕府によって制定された御成敗式目でしたが、鎌倉幕府が滅亡した後も効力は残り続けます。

鎌倉幕府滅亡後の建武3年/延元元年(1336年)11月7日、足利尊氏によって新たな武家政権が確立するに際して室町幕府の施政方針を示す建武式目が制定されたのですが、そこで御成敗式目もまた武士の基本法として継承されることが確認されました(なお、建武式目と御成敗式目とを合わせて貞建の式条と呼ばれます)。

また、後続法となる建武式目の内容にも強い影響を与えました。

以上の結果、新たに成立した室町幕府でも御成敗式目は効力を有しており、武士の基本法としてあり続けました。

そして、室町幕府成立後しばらくは、日本各地の大名が室町幕府により任命された守護の資格によって支配地を統治していたため、これらの守護大名を通じて御成敗式目もまた全国の武士に及んでいくこととなりました。

分国法の広がりにより実効性が失われる

ところが、応仁の乱の発生後頃から室町幕府の権威が低下していくようになると、室町幕府の権威を基にした守護大名の権威も低下していきました。

そのため、日本各地で実力を基にした戦いが繰り広げられるようになり、その戦いを勝ち抜いた者が実力で地域支配を作り上げていくようになります(戦国大名)。

こうして支配地域を獲得した戦国大名達は、鎌倉幕府から室町幕府へと繋がる武士の伝統を必ずしも是としていた者ばかりではありませんでした。

そのため、日本全国に多数生まれた戦国大名達は、自身の支配領域内に適用される法を自ら制定していくようになりました(分国法)。

この点、各分国法の内容に御成敗式目が影響を与えたことは間違い無いのですが、一口に戦国大名といっても、その素性から考えたまで千差万別であり、旧来からの武士の道理に近い考えを持つ者もあれは、これと遠い考え方を持つ者もいましたので、分国法の内容への御成敗式目の影響の程度は様々です。

いずれにせよ、この分国法の普及により、幕府により定められた武士の基本法といえ概念が薄れていき、御成敗式目もその役目を終えましていきました。

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