小西行長(こにしゆきなが)は、商人から出世し肥後半国を領する大大名(宇土城主)にまで出世した戦国大名です。
商人として培った経済感覚を発揮して豊臣政権下での海上輸送(兵站)を担当して大出世し、兵站のみならず水軍の将としても活躍しました。
また、アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名としても有名です。
武将としても優秀であり、特に文禄の役では、日本軍一番隊の総大将として女婿・宗義智らと共に先遣隊として朝鮮半島に上陸した後、破竹の勢いで進軍してわずか21日で朝鮮首都・漢城を攻略する活躍を見せています。
天下分け目の関ヶ原の戦いでは、石田三成方に与して西軍の将として奮戦したものの敗北して捕縛され、市中引き回しの後で六条河原において斬首されるという最期を迎えています。
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小西行長の出自
出生(1558年?)
小西行長は、永禄元年(1558年)、堺の商人であった小西隆佐の次男として、京都で生まれたといわれています。なお、生家が豪商小西家の本家かどうかは不明です。
幼名を弥九郎といいました。
生年については、朝鮮文書である「宣祖実録」の宣祖二十八年の項に「行長今年三十八」と記載されているものを逆算して特定しているのですが、この他に小西行長の生年を記した資料は存在しておらず、正確な生年は必ずしも明らかではありません。
また、小西行長存命時に描かれた肖像画は残されていませんので、どのような顔であったかはわかっておりません。
宇喜多直家に仕える
成長した小西行長は、備前国福岡の豪商であった阿部善定の手代・源六の養子となります。
このときに備前国の商人となったことから、以降、同地(備前国・美作国)を治める戦国大名であった宇喜多直家との接点ができます。
そうしたところ、小西行長は、宇喜多直家にその才能を見出され、宇喜多家に取り立てられてその家臣として宇喜多家に仕えるようになります。
羽柴秀吉の家臣となる(1580年)
天正6年(1578年)末、宇喜多直家が、織田信長の軍団長として三木城攻めを行っていた羽柴秀吉の下に使者として小西行長を派遣し、織田家に臣従することとなります。
このとき、羽柴秀吉は、使者を務めた小西行長の才覚を気に入り、天正8年(1580年)に父・小西隆佐と共に宇喜多家から引き抜いて自らの幕下に引き入れました。
この結果、小西行長は、羽柴家家臣となります。
豊臣政権で出世を重ねる
豊臣政権の舟奉行に就任
羽柴秀吉の家臣となった小西行長は、播磨国室津(現在の兵庫県たつの市)に所領を与えられ、また舟奉行に任命されて讃岐国塩飽(現在の香川県丸亀市・坂出市)から堺までの航路を管理する水軍を率いることとなりました。
この水軍を上手く運用した小西行長は、当時敵対していた毛利軍の水軍に対抗するための海運・海上軍事作戦司令官として重宝されるようになります。
また、舟奉行は、瀬戸内航路を一手に管理する大坂の兵站を管理する仕事ですので、豊臣政権の兵站奉行を務める石田三成とも近しい関係となります。
なお、一次資料に小西行長の名が初めて登場するのは、天正9年(1581年)に豊臣秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状です。
洗礼を受ける(1584年)
小西行長は、天正12年(1584年)、高山右近の勧めを受けてカトリック教会で洗礼を受け、アゴスチノ(アウグスティヌス)の洗礼名を貰い受け、キリシタンとなりました。
小豆島1万石を与えられる(1585年)
小西行長は、天正13年(1585年)の紀州征伐では水軍を率いて参戦し、雑賀衆との戦いでは抵抗を受けて敗退した一方で、太田城の水攻めでは安宅船や大砲による攻撃で開城のきっかけとなる武功を挙げ、戦後に小豆島1万石を与えられて大名となります(もっとも、小豆島の石高だけでは1万石に満たないため、その他にも領土を有していたか、1万石が過大評価であったかは不明です。)。
小豆島に入った小西行長は、島の田畑の開発を積極的に行うと共に、グレゴリオ・デ・セスペデスを招いて積極的にキリスト教の布教を行います。
また、天正14年(1586年)10月頃より摂津守を名乗るようになり、天正15年(1587年)3月から5月までの僅かな期間のみ日向守を名乗った以外は死ぬまでこのときの受領名である摂津守を名乗り続けました。
表面上のキリスト教棄教(1587年)
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉がキリスト教の布教と南蛮貿易に関する禁制文書(バテレン追放令)が発布し、キリスト教の布教禁止と宣教師の20日以内の国外退去を命じたため、小西行長はこれに従って棄教したかのように装って改易を免れます。
もっとも、小西行長は、実際にはキリスト教を棄教しておらず、追放されたキリシタン大名高山右近や宣教師オルガンティノらを所領の小豆島において匿っています。
肥後南半国を与えられる(1588年)
その後、小西行長は、天正15年(1587年)の九州平定や天正16年(1588年)の肥後国人一揆討伐で功を挙げたことにより、佐々成政の改易によって支配者不在となった肥後国南半国となる宇土・益城・八代の3郡を与えられ、14万石もの大領を有する大大名となります。
小西家では、この急激な加増により領土統治を行うための家臣団が不足しましたが、改易された高山右近の旧臣(主にキリシタン)を家臣に取り立てることで人材不足を乗り切ります。
そして、肥後南半国を与えられた小西行長は、天正17年(1589年)、肥後国人衆に命じてかつての宇土古城の東側(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城を築城し、小西家の本拠地と定めました。
また、肥後国に入った小西行長な所領を安堵された天草五人衆(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏)が宇土城普請を拒否して天正17年(1589年)に反乱を起こしたため(天草国人一揆)、小西行長は、加藤清正と共にこの反乱を鎮圧し、鎮圧天草五人衆が領した天草1万石を所領に組み込んでいます。
領内の整備
水軍の将でもあった小西行長は、本城である宇土城について、城郭域と武家屋敷・城下町水堀とを運河によって一体的に結合されることで「惣構」を形成し、これにより強固な防御力を持たせました。
また、豊臣秀吉の命を受けて、相良氏統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)の球磨川と八代海に面する河口島に麦島城を築城して水利を強化した上で、重臣の小西行重を城代として配置することにより防衛力の強化を図りました。
さらに、その他にも、隈庄城(小西主殿介)・木山城・矢部城・愛藤寺城(結城弥平次)などを整備し、これらの支城ネットワークを利用した防衛網を構築しています。
また、キリシタン大名でもある小西行長は、領内でのイエズス会の活動に援助を与え保護していきました。
加藤清正との対立
他方、当初は良好な関係であった肥後国北半国を領する加藤清正との関係が次第に悪化していきます。
その理由として、肥後の国を分け合う小西行長と加藤清正は、隣接する領地の境界線や水利の争いが絶えなかったこと、加藤清正が日蓮宗信者・小西行長がキリシタンであったこと、小西行長が加藤清正から薬問屋の小倅と侮られたことなどがあると言われているのですが、その真相は不明です。
また、小西行長と加藤清正との対立が深刻化するのは、天正20年(1592年)5月、文禄の役の際の漢城占領後に策定された八道国割によって、小西行長と加藤清正とに別の方針が示されたことによるものであり、それ以前の対立に関する逸話は後世の創作であるとする説もあり、対立時期もよくわかっていません。
文禄の役
日本軍一番隊を任される
天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により武力による日本統一を果たした豊臣秀吉は、新たな敵の創設と徳川家康対策とを同時に満たす政策として、明国侵攻を計画します。
この点、船舶用磁気コンパスが存在していなかった当時、「山あて」と呼ばれる船団が沿岸を目視できる範囲を確認しながら位置を特定しつつ航行する方法が主流であり、日本から海を越えて直接明国に上陸する航海技術は存在していなかったため、日本から明国に攻め入るためには、そのルート選択として必然的に海路で最短ルートとなる肥前名護屋→壱岐→対馬南部→対馬北部→釜山を経由し、そこから朝鮮半島南部沿岸を西回りで明国に向かうというルートに限定されることとなりました。
そのため、日本から明国に攻め入るためには朝鮮半島を経由する必要があったのですが、朝鮮王朝が日本軍の朝鮮半島通過を拒否したことから、豊臣秀吉は、明国進軍の前段階としてまずは武力にて朝鮮半島を強行突破することを決定しました。
そこで、豊臣秀吉は、天正20年(1592年)正月、同年3月に出兵するとした上で征明軍陣立てが行われ、その先陣となる一番隊計1万8700人(先導役である宗義智5000人、先鋒を小西行長7000人とし、その他松浦鎮信3000人・有馬晴信2000人・大村喜前1000人・五島純玄700人)を編成します。
なお、この先陣を誰にするかで小西行長と加藤清正とが揉めたのですが、最終的には、豊臣秀吉が、小西行長を一番隊、加藤清正を二番隊に決定しています。
釜山攻略(1592年4月14日)
小西行長・宗義智率いる日本軍一番隊は、天正20年(1592年)4月12日に釜山浦に上陸した後、翌同年4月13日から釜山の陸上軍事拠点である釜山鎮城・多大鎮砦・西平浦砦の攻撃を開始します(文禄の役初戦・釜山攻略戦)。
そして、翌日までに宗義智軍が釜山鎮城を、小西行長軍が多大鎮砦・西平浦砦を攻略して、その後の日本軍の朝鮮半島上陸の橋頭保を確保します。
快進撃
上陸拠点となる釜山を占領した日本軍は、次なる攻略目標を朝鮮首都である漢城に定めます。
この点、釜山から漢城に向かう街道は中路・東路・西路の三路あり、朝鮮半島に先行上陸を果たした小西行長率いる日本軍一番隊はこのうちの中路を通って漢城を目指すこととします(後に二番隊が東路・三番隊が西路を進軍)。
その後、小西行長率いる日本軍一番隊は、同年4月15日に東萊城、同年4月16日に梁山城、同年4月18日に密陽城、同年4月24日に尚州城(尚州城の戦い)、同年4月28日に忠州城(弾琴台の戦い)と朝鮮方の拠点を次々と攻略して漢城目指して進んで行きました。
なお、同日、新寧→比安を進んでいた加藤清正率いる日本軍二番隊もまた忠州に到達し、一番隊の小西行長と二番隊の加藤清正が、どちらが先に漢城に入るかで大喧嘩となるというトラブルが発生し、鍋島直茂が仲裁に入ったことにより双方が別ルートを行き、先に漢城に到達した方を先陣とすることで何とか事なきを得ています。
漢城攻略(1592年5月2日)
そして、天正20年(1592年)5月2日、日本軍一番隊及び二番隊が漢城府に到着し、国王不在となって混乱を極めていた漢城府を占拠します。
その後、朝鮮半島に上陸していた日本軍諸将が続々と漢城に入城したところで、豊臣秀吉から明国に向かって進軍するよう指示がなされます。
ところが、現場にいた諸将は、占領直後で不安定な朝鮮半島情勢を置いておくことはできないと判断し、七番隊の総大将宇喜多秀家と奉行衆に漢城と全体の総指揮を任せた上で、朝鮮半島に上陸しているその他の一番隊から六番隊までの諸将を朝鮮半島全域に展開させ朝鮮半島八道の占領作戦を進めることによりその安定化を図ることを決めます。
このとき、小西行長は、小西行長・宗義智・有馬晴信・松浦鎮信ら一番隊諸将と共に平安道の占領作戦を任されることとなりました。
平壌攻略(1592年6月16日)

開城府を占領した日本軍は、それまでに決めた計画に従って、一番隊・三番隊は北上して平壌へ向かい、二番隊は咸鏡道制圧のため東側へ向かって進んで行くこととなりました。
そして、天正20年(1592年)6月14日に平壌南側に迫った小西行長率いる日本軍一番隊は、翌同年6月15日に大同江で朝鮮軍を破ると(大同江の戦い)、そのまま平壌城に逃げ帰る朝鮮軍を追って平壌城に向かい、翌同年6月16日に平壌城を占領します。
明国軍参戦
他方、平壌からも逃亡した朝鮮国王・宣祖は、義州へ逃れて明国に救援を求めたため、ここから明国軍が動き始め、その結果として日本軍の快進撃が止まることとなります。
ボバイの反乱鎮圧のために北西に回していた兵を日本対策にあてるために朝鮮に向かわせた明国軍が、朝鮮人の血も引く李如松に率いられて平壌城に向かっていきます。
文禄2年(1593年)1月5日、李如松率いる明国軍4万3000人が平壌城に到着し、これに朝鮮軍の都元帥・金命元率いる8000人が加わったことにより、明・朝鮮連合軍合計5万1000人(明軍4万3000人・朝鮮軍8000人)が小西行長が籠る平壌城を包囲します。
平壌失陥(1593年1月)
そして、文禄2年(1593年)1月6日、明・朝鮮連合軍による平壌攻撃が始まります(第三次平壌城の戦い)。
平壌城では、小西行長・宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄らが率いる1万5000人が篭っており、北側の牡丹台に2000人を配した上で、平壌城内の七星門・普通門・正陽門・含毬門に1万人を配して防戦します。
何とか初日の攻撃をしのいだ日本軍でしたが、既に外郭は突破された上に援軍の見込みがない状態でしたので、これ以上の防衛は不可能であると判断します。
そこで、日本軍は、同年1月7日夜、夜陰に紛れて平壌城から退却しました。
明国軍から逃れるために南進を続ける一番隊は、同年1月9日夕方、龍泉山城に在陣していた三番隊の黒田長政軍に迎えられ、同軍と合流します。
そして、同城で小西行長と黒田長政とが軍議を行って以降の対応の協議をしたのですが、これら2人が率いている兵で明国の大軍を防ぐことは困難であると判断し、一旦開城まで撤退した後に、漢城に状況報告をして日本軍全体として対応を決めることとします。
他方、平壌城を奪還した明国軍は、撤退する小西行長を追って南進し、同年1月18日には開城府を奪還し、その勢いのままさらに南進しながら日本軍に占領された朝鮮都市を解放していきました。
戦線の膠着
勢いに乗る明国軍は、文禄2年(1593年)1月25日、李如松(大将)・査大受(先鋒)・李如梅(左軍)・李如柏(中軍)・張世爵(右軍)らが率いる漢城攻撃隊が編成され、開城を出発して漢城に向かっていきました。
この動きに対し、小西行長を含む退却してきた将兵は休息のために漢城に残し、宇喜多秀家を総大将・小早川隆景を先鋒大将とする4万1000人が明国軍の迎撃に向かい、同年1月26日これを撃破します(碧蹄館の戦い)。
この大きな戦いに敗れた明国軍の戦意は低下したのですが、他方で厳しい寒さと兵糧不足とに悩まされた日本軍もまた戦いどころではなくなり、双方に厭戦気分が高まった結果、講和交渉が始められることとなりました。
偽りの講和
その後、小西行長は、西部方面総司令官となって熊川城(東部方面総司令官であった加藤清正の西生浦倭城と並ぶ最大規模の城郭)に入り、明国との休戦交渉中に独自行動を行う朝鮮軍を牽制します。
その上で、小西行長は、石田三成と共に明国との講和交渉を担当します。
このときの明国側の担当者は沈惟敬だったのですが、日明共に為政者が無茶な講和条件を主張したため講和交渉が難航します。
困った小西行長と沈惟敬は、お互いに相手方が譲歩したと自国の為政者を騙し、事実を偽って講和交渉をまとめることに合意しました。
そして、小西行長が、豊臣秀吉に対して明国が降伏したと伝えたことにより、文禄の役が終結するに至りました(なお、文禄の役の詳しい講和経緯については、別稿:文禄の役の講和交渉をご参照ください)。
慶長の役
文禄の役講和の破綻
もっとも、このような偽りの講和がバレないはずがありません。
明国が降伏したと考えている豊臣秀吉は、小西行長家臣である内藤如安を明都・北京に遣わし、自らの要求を伝えさせます。
これに対し、日本が降伏したと考えている明国王は、豊臣秀吉を日本国王に封じ(冊封)、内藤如安に書面と金印を与えたのです。
当然ですが、双方の為政者が自分に都合のいいことを言っているだけなので、まとまるはずがありません。
明国王の書面は、西笑承兌によって読み上げられることで豊臣秀吉に伝えられたのですが、その内容を聞いた豊臣秀吉は、小西行長に騙されたことを知って激怒します。
怒った豊臣秀吉は、すぐさま小西行長に死罪を申し渡したのですが、この命令は西笑承兌・前田利家・淀殿らの説得により撤回され、小西行長は一命をとりとめました。
もっとも、怒りの治らない豊臣秀吉は、各将に対して直ちに再度の出兵準備を命じます。
陣立
以上の結果、再度の出兵準備が急ピッチで進められたのですが、文禄5年(1596年)閏7月13日子の刻に山城国伏見(現在の京都市伏見区)付近で大地震(慶長伏見地震)が起こったことで一旦延期されます。
もっとも、豊臣秀吉は、まだまだ震災復興中の慶長2年(1597年)2月22日に、再度の唐入り(朝鮮出兵)のための陣立を立案し、家臣団・人民の不満を抱えたまま無理な対外作戦を始めてしまいました。
開戦
そして、慶長2年(1597年)から始まった慶長の役においても、小西行長は再び出陣を命じられ、そればかりでなく、文禄の役での講和交渉における責任をとるために特別の武功を挙げるよう命じられての出兵となりました。
なお、慶長の役の作戦目標は、朝鮮・全羅道の制圧後に慶尚道沿岸部に倭城を築城してそこに主に九州大名を配置しそこを拠点として慶長4年(1599年)から大規模攻勢するというものでした(その意味で、征明を目的としていた文禄の役とは当初から目的が異なっていました。)。
同年7月16日、海上から藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明ら水軍が、陸上からも島津義弘・小西行長ら陸軍が同時攻撃を行い(漆川梁海戦)、日本軍は、朝鮮水軍指揮官であった元均・李億祺・崔湖を討ち取ると共に、朝鮮水軍の軍船のほとんどを撃沈するという壊滅的打撃を与えました。
この結果、 日本からの兵站ルートを確保した日本軍は、朝鮮半島侵攻軍の編成を整え(右軍と左軍及び水軍の2隊に分けた)、慶尚道から全羅道に向かって進軍を開始しました。なお、右軍の攻略目標は黄石山城、左軍及び水軍の攻略目標は南原城でした。
小西行長隊は、左軍に加わって南原城包囲戦に従軍し、宇喜多秀家・藤堂高虎・太田一吉らと共に南面封鎖に尽力します。
その後、ほぼ同時に黄石山城と南原城を攻略した日本軍は、そのまま全羅道・忠清道を制圧してさらに京畿道まで進出したところで、当初の計画通り沿岸部へ撤収し、蔚山から順天に至る範囲に倭城郡を築くことで恒久領土化を図りました。
順天城の戦い(1598年9月~10月)
そして、当初の予定どおり、このとき築かれた倭城に九州諸大名が入ることとなり、小西行長は松浦鎮信・有馬晴信・五島玄雅・大村喜前らと共に約1万3700人で順天城に在番することとなりました。
以上の日本軍の動きに対し、朝鮮及び明国軍でも反攻作戦が計画され、朝鮮・明国連合軍は、合計11万人もの兵を動員して三方面同時攻撃(第二次蔚山城の戦い・泗川の戦い・順天城の戦い)を決行しました。
このうち、小西行長が籠る順天城に対しては、慶長3年(1598年)9月19日から、明国・朝鮮連合軍による水陸両面から攻撃が始まりました(順天城の戦い)。なお、順天城の戦いに先立って明将・劉綎から偽りの講和が持ちかけられ、明国側が交渉に臨むために城を出た小西行長を捕縛しようと試みたのですが、小西行長は寸前のところで窮地を脱し城内に駆け込むことで窮地を脱するという事件が起こっています。
もっとも、このときの明国・朝鮮連合軍の三方面作戦は、日本軍の抵抗によって全て失敗に終わります。
帰国命令が届く(1598年10月)
文禄の役に続く慶長の役においては、多くの将兵が長期間に亘って朝鮮半島に渡って行きますので、兵站に要する負担は相当なものになります。
また、慶長の役の軍役に加えて慶長伏見地震の震災復興に苦しめられたことにより、諸大名から一般庶民に至るまで豊臣政権に対する不満が高まっていきました。
この不満は、豊臣秀吉存命中は豊臣秀吉に対するおそれにより抑えつけられていました。
慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去したのですが、当初はその事実が伏せられていたものの、その後政権内での権力対立の結果、豊臣秀吉死去と為政者が幼い豊臣秀頼に引き継がれたとの報が朝鮮半島に届けられてしまいました。
この結果、朝鮮半島に残る諸将の不満を抑え続けることは出来なくなり、対外戦争を継続するような状況ではなくなってしまいました。
そこで、同年10月15日、形式上は、豊臣秀吉の死を秘匿されたまま、五大老から朝鮮半島に残る諸将に対して帰国命令が発令されました(冬になると対馬海峡が荒れて、大量輸送が困難になるため冬を迎える前の撤退の判断が下されたのです)。
関ヶ原の戦い
小西行長帰国(1598年12月)
この後、日本軍の帰国に対し、明国とは交渉の上で円満帰国の同意を取り付けたのですが、朝鮮では朝鮮水軍の李舜臣の反対に基づく海上封鎖による帰国妨害が続けられ、小西行長隊の帰国は困難を極めました。
この小西行長隊の窮状を知った泗川方面軍の島津義弘・立花宗茂・高橋直次・寺沢広高・宗義智・小早川秀包・筑紫広門らが救援に駆け付け、小西行長もまた同年12月に日本への帰国を果たしました。
そして、帰国した小西行長は、一旦宇土に戻った後、豊臣政権の中枢であった伏見に入り、寺沢広高と共に徳川家康の取次役を務めます。
もっとも、この後の豊臣政権では、このとき帰国した諸将についての慶長の役における働きと、それに対する評価をめぐって武断派大名と文治派大名との間で大きな確執が発生していきます。
会津征伐に従軍せず(1600年6月)
ところが、豊臣秀吉の死後間も無くすると、それまで耐え忍んでいた徳川家康が動き始め、諸将と縁戚関係を結ぶなどして味方となりそうな各大名の取り込みを始めます。
また、徳川家康は、敵対する大名に対しては、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の後見と称して武力で脅し、服従を強いていき、大国であった前田家までもがその軍門に降ってしまいました。
続けて、徳川家康は、同じく豊臣政権で五大老の一員を担っていた上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形式で、徳川家康への臣従を迫ったのですが上杉家がこれを拒否したため、慶長5年(1600年)6月、会津征伐の兵を興し大坂を離れます。
このとき、小西行長は、残留を命じられたため、上方に残されることとなりました。
石田三成挙兵に参加(1600年7月)
この後、石田三成が、中国地方の大大名であった毛利輝元を総大将として担ぎ上げ、反徳川家康の兵を挙げる決断をします。
そして、これに呼応した毛利輝元は、慶長5年(1600年)7月17日、毛利秀元に兵を与えて徳川家康の大坂拠点となっていた大坂城西の丸を占拠させました。
その上で、同日、増田長盛を含む五奉行の連名にて、豊臣秀吉の命に背いた徳川家康の罪名を書き連ねることで断罪した上でその討伐を求める檄文である「内府(家康)違いの条々」を全国の諸大名に送付し(筑紫古文書)、同年7月19日、毛利輝元も大坂城に入って反徳川家康の体制が整いました。
当然ですが、この状況で上方に残っている小西行長がこの流れに抗えるはずがありません(抗う意思もなかったと思いますが)。
そこで、小西行長もまた、石田三成と共に反徳川家康の挙兵に加わることとなりました。
もっとも、小西家は、それまでの2度に亘る朝鮮出兵での被害から領内・家臣団が疲弊しており、満足な数の将兵を集めることができず、石田三成から兵を借りて作戦行動を行ったため、その後の関ヶ原の戦いの前哨戦において目立った働きをすることはできませんでした。
そして、小西行長は、同年8月に当初の決戦の場と予想されていた大垣城に入り、徳川家康の動きを注視します。
関ヶ原の戦い本戦(1600年9月15日)
もっとも、大垣城の戦いとして予想されていた両軍の決戦でしたが、慶長5年(1600年)9月14日夜、大垣城に籠城する予定であった石田三成らが守備兵として福原長堯以下7500人を残して主力を関ヶ原へ移動させることとしたため、その舞台が関ヶ原に移ることとなります。

大垣城を出て関ヶ原に移動することとなった西軍主力部隊は、同年9月15日午前4時頃までに移動を完了させ、石田三成隊が笹尾山に、島津義弘隊・宇喜多秀家隊・小西行長隊(6000人)らがそれぞれ天満山付近に布陣することで決戦の準備が整います。
北国街道と東山道(中山道)の間に位置する天満山北側中腹に布陣した小西行長隊は、西軍主力の一端を担い、開戦を告げる合図の烽火を上げることで関ヶ原の戦い本戦を始めることとなりました。
開戦後、小西行長隊は、面前の東軍の一柳直盛隊・戸川達安隊・寺沢広高隊・田中吉政隊・筒井定次隊などと交戦したのですが、借りものの兵が多かったにも関わらず士気は旺盛で、戦いを有利に進めていきました。
ところが、小早川秀秋の寝返りによって大谷吉継隊が壊滅したことで戦局が一変して崩れていく戦線を支えきれなくなった西軍が崩壊し、小西行長隊も壊滅します。
小西行長の最期
捕縛
敗れた小西行長は、伊吹山中に逃れた後、このとき廃寺となっていた観音寺(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)の須弥壇に隠れて落武者狩りをやり過ごしていました。
再起の可能性がなくなった小西行長でしたが、キリシタンであったために信仰上の理由から自決をすることができませんでした。
自ら死を選ぶことができなかった小西行長は、最終的に徳川方に捕縛されます。
なお、この捕縛の経緯については、自首説と密告説という2説あります。
① 自首説
自首説の根拠は、徳川家康の侍医であった板坂ト斎が記した慶長記(板坂ト斎覚書)に、関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)秋に板坂ト斎が城昌茂と共に江戸に向かって木曽路を東進していた際、関ヶ原の庄屋であった林蔵主に宿を借り受けることとなったところ、同人から小西行長捕縛の経緯を聞かされた。
その内容は、関ヶ原の庄屋であった林蔵主が、落武者を探して岐阜県揖斐郡揖斐川町春日地区中山に達したところ、小西行長が自ら出てきて自分は小西行長(小西摂津守)である、自分はキリシタンだから自害ができないので、自分を徳川家康の前に引き出して褒美を貰えと言ってきた。
驚いた林蔵主は、同地領主であった竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞らに状況を報告した上で、当時草津村越直吉の陣にいた徳川家康の下まで馬に乗せて連れて行き、引き渡したというものです。
なお、林蔵主は、褒美として黄金十両を受け取ったとされています。
② 密告説
密告説は、春日村に伝わる伝承であり(春日村の文化財所蔵「中山と小西行長」)、春日村人が炭焼き目的で押又に赴いたところ、美濃国不破郡新井村(現在の岐阜県垂井町新井)からきた林蔵から落武者狩りが厳しくなっているとの話を聞かされて怖くなり、領主であった竹中重門に小西行長の所在を密告したというものです。
この密告に基づいて竹中重門が兵を派遣し、小西行長は捕縛されたというものです。
この説によると、小西行長は、捕縛された際に密告した村人に対する恨みから、この村を三度焼き払ってくれると叫んだとされています。
その後、春日村では度々大火が発生し、その度に村人は小西行長の怨念であるとして恐れました。
そこで、春日村では、延享4年(1747年)11月3日に観音寺に小西行長の肖像画を奉納した上で、宝暦4年(1754年)2月29日に小西行長の残した短刀を埋めてこれを墓とし、その下にある観音寺に小西行長の位牌を祀ることにより、小西行長の祟りを鎮めようとしています。
この点については、キリシタンである小西行長の祟りを鎮めるために仏式で祀るのは相応しくないとして、大正12年(1923年)前記の墓の手前に小西神社を創建し、神として祀られることとなっています。
斬首(1600年10月1日)
捕えられた小西行長は、慶長5年(1600年)10月1日、市中引き回しの後、六条河原に送られ、石田三成・安国寺恵瓊らと共に斬首されました。
キリシタンであった小西行長は、斬首に先立ち、キリシタン大名であった黒田長政に告解の秘蹟を願い出たのですが、徳川家康に拒絶されその願いはかなえられませんでした。
また、斬首当日も、司祭が秘蹟を行うために小西行長の下に赴こうと試みたのですが、止められて接近できず、秘蹟がなされることはありませんでした。
そして、斬首に際して浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれそうになったのですが、小西行長はこれを拒否し、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて3度頭上に戴いた後に斬首されたと伝えられています。
埋葬
斬首後、小西行長の首は三条大橋に晒されます。
また、小西行長の遺体は、イエズス会の記録では、カトリック教会に引き取られた後に秘蹟を受けてカトリック式で葬られたとされているのですが、具体的にどこに埋葬されたのかは明らかとなっていません。
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