【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将

鳥居元忠(とりいもとただ)は、人質時代から徳川家康に付き従った古参家臣です。

数々の武功を挙げて徳川家康の天下取りに尽力した武将なのですが、何より関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで西軍の足止めをするために玉砕したことで有名です。

本稿では、この武勲から三河武士の鑑とまで言われた鳥居元忠の生涯を振り返って行きたいと思います。

鳥居元忠の出自

出生(1539年)

鳥居元忠は、天文8年(1539年)、安祥松平家(後の徳川家)に仕える鳥居忠吉の三男として三河国碧海郡渡郷(現在の愛知県岡崎市渡町東浦)で生まれます。生母は不明であり、通称は彦右衛門といいました。

徳川家康に近侍する(1551年)

父である鳥居忠吉が岡崎奉行などを務める岡崎譜代であったことから、鳥居元忠は、天文20年(1551年)から駿府に赴き、当時今川家の人質だった頃の徳川家康(当時は竹千代と名乗っており、その後松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と名を変えています、本稿では以降も全て徳川家康の表記で統一します。)に付き従い近侍します(寛政重修諸家譜)。

元服(1555年?)

弘治元年(1555年)に徳川家康が14歳で元服して今川義元から偏諱を与えられて「松平元信」を名乗るのですが、このときに3歳年上であった鳥居元忠も同時に元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと考えられています。

その後、永禄元年(1558年)の寺部城の戦いで徳川家康が初陣を果たし、鳥居元忠もこれに従って戦功を挙げています。

また、鳥居元忠は、桶狭間の前哨戦となった大高城兵糧入れにも従軍し、その後の丸根砦攻めにも参戦しています。

旗本先手役時代

旗本先手役拝命(1566年)

徳川家康は、永禄9年(1566年)に東三河平定により三河国を統一した後に軍制改革を行い、軍を徳川家康旗本衆、西三河衆(旗頭石川家成、後に石川数正)、東三河衆(旗頭酒井忠次)に分けて再編成します(三備の制)。

このとき、鳥居元忠は、徳川家康直轄の旗本衆のうちの旗本先手役の1人に抜擢され、数十人の与力が付けられます(数十人の武士がそれぞれ数人の兵を従えていますので、実際には200〜300人を率いる大将です。)。

その後、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いや、永禄11年(1568年)12月27日に始まった徳川・武田の共同作戦(徳川家康の遠江国侵攻)の際には、徳川軍の将として掛川城攻めに加わっています。

家督相続(1572年)

元亀3年(1572年)に父である鳥居忠吉が死去したところ、長兄である鳥居忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで既に戦死しており、次兄の本翁意伯は出家していたため、鳥居元忠が鳥居家の家督を相続します。

左股部を負傷

その後、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いや、天正3年(1575年)5月の長篠設楽原の戦いにも参戦しています。

また、鳥居元忠は、その後も長篠設楽原の戦いに勝利して武田領に反転攻勢をしかける徳川軍に従軍し転戦したのですが(同年6月下旬頃に光明城を攻略し、二俣城を囲んでいます。)、同年7月に始まった諏訪原攻めの際、斥候として敵陣に潜入した際に左股部に銃弾を受けて傷を負って歩行に障害を残したと言われています。

逸話

その後も、武田軍と戦う徳川軍の将として乾城・田中城・高天神城の戦いに従軍し、高天神城での戦いの際には、前線を務めた鳥居元忠隊に兵糧が届かず困窮したことがあったのですが、そのとき1人の兵が民家から飯をもらって鳥居元忠に差し出したのですが、兵が食べていないのに将が食べることはできないと言って手をつけず、飢える兵の士気を高めたと言われています。

その後、武田家が滅ぶと、その重臣であった馬場信春の娘を側室として引き取ったのですが、徳川家康には探したが見つからなかったと報告します。後にこのことを知った徳川家康は、抜かりのない彦右衛門(鳥居元忠)らしい話であるとしてこれを許したという逸話も残されています。

郡内領主時代

天正壬午の乱(1582年)

天正10年(1582年)6月に織田信長が本能寺の変で横死し、その後に武田遺領争奪戦(天正壬午の乱)が起こると、鳥居元忠もまた徳川方の将として参戦します。

しばらくすると、徳川・北条の戦局が膠着し、これを打開するために北条氏忠・氏勝率いる別働隊1万人の兵がこれを徳川家康の背後を襲おうとしたのですが、鳥居元忠は、甥の三宅康貞・水野勝成と共に2000人の兵を率いてこれを撃退する活躍をしています(黒駒合戦)。

甲斐国郡内を得る(1582年10月)

天正10年(1582年)10月末に北条家との和議によって天正壬午の乱が終わると、徳川家康は、平岩親吉を中心として甲斐国の支配体制を進めていくこととなり、鳥居元忠には北条家との国境防衛のために甲斐国都留郡(郡内地方・現在の山梨県都留市)1万8000石(後の文禄検地)が与えられます。

郡内地方に入った鳥居元忠は、初め岩殿城に入ったあと、谷村城に移ります。

鳥居元忠には朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、徳川家康直属の奉行人であっても鳥居元忠の了承なしに領内の統治に関与できないとされていたりするなど、鳥居元忠に一定の排他的自律性に基づく支配が認められていたと考えられています。

その後、徳川家康と豊臣秀吉との関係が悪化し、天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが勃発したのですが、攻略して間がなく反乱の恐れがあった甲斐国からの徴兵は行われず、鳥居元忠は平岩親吉らと共に甲斐国に残されて旧武田領の安定に尽力したため、合戦には参戦していません。

第一次上田合戦(1585年8月)

その後、鳥居元忠は、天正13年(1585年)8月に沼田領の帰趨を巡って徳川家康と真田昌幸とが争って起こった第一次上田合戦において、大久保忠世・平岩親吉らと共に7000人の兵を率いて真田昌幸の籠る上田城を攻めるも、地の利を活かした真田昌幸の戦法により1300人もの戦死者を出して大敗しています。

その後、鳥居元忠は、天正14年(1586年)の徳川家康上洛の際にこれに付き従い、徳川家臣団の取り込みを図る豊臣秀吉からの官位の打診や、嫡子・鳥居忠政を羽柴雄利の養子として豊臣家に支えるように勧められたことを固辞し、徳川家康に対する忠義を貫きます。

下総国矢作藩主時代

小田原征伐(1590年)

天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条領である相模国に接する駿河国を治める徳川家康が豊臣東海道軍の最前線部隊となります。

このとき、鳥居元忠は、太田氏房が守る武蔵国の岩槻城攻めや、相模国の津久井城攻めなどを担当しています。

下総国矢作4万石を得る(1590年)

天正18年(1590年)、小田原征伐後に徳川家康が関東に移封されると、鳥居元忠もまた徳川家康に従って関東に入ります。

関東に入って江戸を拠点とした徳川家康は、家臣団の再編や所領整備などを行うために関東総奉行を置いて平岩親吉らにその任を命じ、江戸に繋がる街道の出入口に主要家臣を配置することとします。

このとき、徳川家康は、常陸国の佐竹義宣や東北地方諸大名の南下に対する備えるため、鳥居元忠に下総国矢作4万石(後の慶長検地)を与えて下総矢作藩を立藩させます。

岩ヶ崎に移る

矢作に入った鳥居元忠は、利根川を望む独立丘陵上にあり、常陸国・下総国を見渡すことが出来る岩ヶ崎(現在の千葉県香取市)の地に移ることとし、新城(岩ヶ崎城)の築城をはじめます。

なお、慶長4年(1599年)、矢作領内において「矢作縄」と呼ばれる総検地が行われ、矢作領84か村で約4万石が打ち出されました。これはそれ以前より2倍半の増盛となる苛酷なものであり、矢作縄によって決定された石高は、近世中期に至るまでこの地域の村高の基本となっています。

鳥居元忠の最後

会津征伐を決断(1600年5月3日)

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去した後、豊臣恩顧の大名を味方につけて勢力を高める徳川家康と、毛利輝元を味方に引き入れてこれに抵抗しようとする石田三成との対立が激しくなっていきます。

この対立は、慶長4年(1599年)3月3日に豊臣秀頼の傅役であった前田利家が死去により、回避不可能な程度にまで発展していきます。

豊臣秀吉の遺言により伏見城で執務をしていた徳川家康でしたが、豊臣秀頼の傅役として大坂城に入っていた前田利家が死去したことを奇貨として大坂城に入って豊臣秀頼を取り込んでしまったことにより絶対的な力を手に入れます。

そして、徳川家康は、加藤清正らの武断派大名が石田三成を襲撃した事件を仲裁したことをきっかけとして石田三成を佐和山城(現在の滋賀県彦根市)に追放し、大坂城で政務を取り仕切るようになります(また、伏見の大名屋敷を大坂城下に集めていきます。)。

このような状況下で、徳川家康の政治的影響力の強化を嫌った上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなどして軍事力の増強を図っていきます。

この動きに対して、徳川家康は、慶長5年(1600年)4月1日、上杉景勝に対して伊奈昭綱及び河村長門(増田長盛家臣)を問罪使として派遣したのですが、これに対して直江兼続が逆に徳川家康を非難する返書(いわゆる直江状)をしたためて徳川家康に返送します。

同年5月3日、徳川家康の下に届けられた直江状を目にした徳川家康は激高し、上杉景勝に叛意ありとして会津征伐を決断します。

そして、徳川家康は、徳川恩顧の大名(先鋒として福島正則、細川忠興、加藤嘉明ら)を率いて大坂城を発ち会津に向かって進んでいきます。

徳川家康との別れ(1600年6月16日)

会津へ向かう道中で伏見城(木幡山伏見城)に入った徳川家康は、慶長5年(1600年)6月16日、鳥居元忠・松下家忠・内藤家長・松平近正ら召し出し、石田三成らに対する備えとして彼らを伏見城に残していくことを告げます。

そして、同日夜、徳川家康は、同城内でこれから死ぬことになるであろう鳥居元忠と酒を酌み交わし、その席で、徳川家康が鳥居元忠に対して手勢不足で迷惑をかけると述べたところ、鳥居元忠が徳川家康が天下を取るためには1人でも多くの家臣が必要であるため伏見城に多くの兵を残す必要はない、伏見城の守りは鳥居元忠と松下近正の2人で十分であると回答したと言われます。この酒の席は深夜にまで及び、2人は今生の別れを惜しみました。

そして、鳥居元忠は、徳川家康が伏見城を発った翌日から、同城で籠城の準備を始めていきます。

なお、真偽は不明ですが、徳川家康からの参戦要請を受けた島津義弘や小早川秀秋が、徳川方に味方するために伏見城への入城を試みたのですが、これらの参戦を聞かされていなかった鳥居元忠が入城を拒否したため、関ヶ原の戦いで島津義弘や小早川秀秋が行きがかり上やむなく石田三成方に与することとなったというエピソードが残されています。

伏見城籠城(1600年7月15日)

徳川家康は、慶長5年(1600年)6月18日に伏見城を出発して東海道を東進し、同年7月2日に江戸に入ります。

他方、徳川家康の動きを確認した石田三成らも行動を開始し、毛利輝元・宇喜多秀家らに大坂城に上るように要請します。

伏見城包囲(1600年7月18日)

慶長5年(1600年)7月17日、毛利輝元が大坂に到着したため(大坂城入城は同年7月19日)、前田玄以・増田長盛・長束正家らは、同日、大坂城西の丸から徳川家康が残していた留守居役を追放し、徳川家康に対する13か条の弾劾状(内府ちがいの条々)を作成して諸大名宛に発布します。

その上で、同年7月18日、対徳川家康のために結集した石田三成らが大坂城で挙兵し、大坂城から軍を北上させ、鳥居元忠ら2300人(鳥居元忠の所領であった矢作からの徴発兵1800人と追放された大坂城から落ちてきた500人の合計)が籠る伏見城に到着します。

このときの対徳川家康連合軍は、宇喜多秀家を総大将とし、その他毛利秀元・小早川秀秋・鍋島勝茂・長宗我部盛親・小西行長・島津義弘・大谷吉継らが率いる4万人の兵という陣営であり、これらの大軍をもって伏見城を包囲します。

伏見城の戦い(1600年7月19日~)

伏見城を囲んだ石田三成は、鳥居元忠に対して降伏勧告の使者を送ったのですが、最初から玉砕を覚悟していた鳥居元忠は降伏勧告を拒絶し、使者を殺害してその遺体を石田三成に送り返します。

この結果、開城交渉は決裂し、慶長5年(1600年)7月19日から、伏見城を巡る本格的な戦闘が始まります。

当初は、善戦していた伏見城防御兵でしたが、同年7月22日に宇喜多秀家が率いる大軍が伏見城攻撃に参戦すると、一気に戦局が悪化します。

また、同年7月30日、長束正家が、鳥居元忠に味方する甲賀衆の妻子を人質にとって城内の甲賀衆に離反を促し、城内に放火させると共に攻城兵を城内に引き入れさせます。

こうなると、伏見城側に勝ち目はありません。

伏見城内になだれ込んでくる攻城兵により、守将であった内藤家長・松平近正・上林政重・松平家忠ら、郎党57人、兵700余人、歩卒数百人もの守備兵が討ち取られます。

鳥居元忠討死(1600年8月1日)

その後、鳥居元忠は、残った兵を集めて最終防衛ラインを構築し、3度に亘って攻城兵を追い返しますが、慶長5年(1600年)8月1日、ついに力尽きて雑賀孫市重朝の手によって討ち取られました(寛政重修諸家譜)。なお、自刃説もありますので正確な死因は不明です。

享年は62歳でした。

討ち取られた鳥居元忠の首級は大坂城に運ばれて京橋口に晒されました。

その後、鳥居元忠の首は、鳥居家に出入りしていた京の呉服商であった佐野四郎右衛門によって密かに持ち去られ、出家していた鳥居元忠の弟の縁で京の百万遍知恩院(現在の京都市左京区)に葬られて嘉岳宗慶龍見院と号したといわれています。

その後

血天井等

徳川家康のために最後まで戦い抜き玉砕した鳥居元忠の忠義は賞賛を受け、大久保忠教からもその忠節は「三河武士の鑑」と称されました。

なお、伏見城の「血染め畳」は、鳥居元忠の忠節を江戸城に登城した諸大名にも見せつけるために江戸城・伏見櫓の階上に掲げられ、明治維新によって江戸城が明け渡された後は壬生藩鳥居家に下げ渡されて鳥居元忠を祭神とする精忠神社の境内に築かれた「畳塚」に埋納されました。

また、伏見城に残された血染めの床板は、供養のために京都市内の養源院本堂・宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院のほか、宇治市内の興聖寺に運ばれた後で天井に張られ、現在も「血天井」として残されています。なお、養源院本堂の血天井は撮影禁止です。

さらに、鳥居元忠が着用していた甲冑である「糸素縣縅二枚胴具足」は、討ち取った鈴木重朝が召し取ったのですが、後に鈴木重朝が鳥居元忠の子である鳥居忠政に形見として送付しようと打診するも鳥居忠政に「祖先の勲功として子孫に伝えるべきものである」と丁重に断られたため、近年に至るまで鈴木重朝の子孫に代々伝えられていました(この甲冑は、平成16年/2004年に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈されています、もっとも兜は幕末期に新調されたものです。)。

鳥居元忠死亡後の鳥居家

関ケ原の戦いの後、鳥居元忠の武功を賞賛した徳川家康は、その第2子である鳥居忠政を陸奥磐城10万石に加増移封させます(これにより矢作藩は廃藩となり、鳥居元忠が築城に着手していた岩ヶ崎城や大崎城も廃城になりました。)。

また、その後も鳥居忠政は繰り返し加増を受け、元和8年(1622年)には出羽国山形藩主20万石となります(寛永3年/1626年にはさらに2万石の加増があって22万石となっています。)。なお、鳥居忠政は、鳥居元忠の供養のために岩城に淵室長源寺を建立しています。

その後、鳥居家に不行跡があって改易の憂き目にあったことが複数回あったのですが、鳥居元忠の勲功が大きいとしていずれも減封と移封処分に留められ、いずれも断絶を免れて廃藩置県を迎えています。

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