現在、大阪の観光名所の1つとなっている大阪城には様々な見どころがあります。
そのうちの1つとして、どうやって運んだのかすら想像できない程の巨石が点在していることが挙げられます。
本稿では、大阪城に使われている巨石を表面積別ランキングにし、その所在と共に紹介していきたいと思いますので、大阪城を観光される際の参考にしていただければ幸いです。 “大阪城内の巨石ランキングとその所在場所(観光用)” の続きを読む
現在、大阪の観光名所の1つとなっている大阪城には様々な見どころがあります。
そのうちの1つとして、どうやって運んだのかすら想像できない程の巨石が点在していることが挙げられます。
本稿では、大阪城に使われている巨石を表面積別ランキングにし、その所在と共に紹介していきたいと思いますので、大阪城を観光される際の参考にしていただければ幸いです。 “大阪城内の巨石ランキングとその所在場所(観光用)” の続きを読む
山中城(やまなかじょう)は、関東一円を支配した北条家3代目の北条氏康が、本拠地・小田原城の西側の守りとするため、小田原城の約18km西側に位置する伊豆国田方郡山中(現在の静岡県三島市山中新田)築いた城です。小田原城の支城として箱根旧街道(東海道)を押さえる西の要の城であり、箱根十城にも数えられています。
完全土造りの城で、障子堀や畝堀、角馬出しなどの北条家の築城技術の全てを注ぎ込み、圧巻の土木工事を経て造られた傑作です。
残念ながら完成をみる前に山中城の戦いが起きたために、最大限の運用をすることなく落城した悲運の城でもあります。
名胡桃城(なぐるみじょう)は、戦国時代後期に、武田勝頼が北条氏から沼田城を奪取することを目指し、真田昌幸に命じて沼田城攻略のための前線基地とするために築かせた城です。
北関東の要衝であった沼田城から僅か数kmという近接地に築かれているため、激しい争奪戦の舞台となった城で、後に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすこととなった小田原征伐のきっかけとなった城としても有名です。 “【名胡桃城(続日本100名城115番)】小田原征伐の原因となった真田の城” の続きを読む
稲生の戦い(いのうのたたかい)は、斎藤道三が敗死したことにより美濃国・斎藤家を敵にまわしてしまったことで四面楚歌状態となった織田弾正忠家において、当主・織田信長の指導力に疑問を持った宿老らにより担ぎ出された弟・織田信行(信勝)がクーデターを起こして勃発した合戦です。
稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれます。
織田信長が、織田弾正忠家の絶対的当主となった転機となった戦いでもあります。 “【稲生の戦い】織田信長が織田弾正忠家を完全掌握するに至った合戦” の続きを読む
萱津の戦い(かやづのたたかい)をご存知ですか。
マイナーすぎてほぼ知名度がないのですが、実は、織田信長の尾張国統一戦の中で重要な意味を持ち、織田信長のサクセスストーリーを語る上では外すことができない重要な合戦です。
父・織田信秀死亡後、織田弾正忠家の家督を継いだ織田信長ですが、「うつけ」と呼ばれ馬鹿にされていたこと、家督相続直後に謀反人を出してしまったこと、本拠地・那古野城と熱田との導線上にある松葉城・深田城までも清洲織田家に奪われたことから、その求心力は地に落ちます。
ここで、織田弾正忠家の期待を背負って清洲織田家を蹴散らし、一発逆転で織田弾正忠家中での評価を高めたのが萱津の戦いです。
織田弾正忠家のみならず、織田信長にとっても危うい危機を脱するに至った記念すべき戦いである萱津の戦いについて、そこに至る経緯から順に説明しています。 “【萱津の戦い】うつけと侮られた織田信長の評価を一変させた合戦” の続きを読む
低い身分に生まれながら天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。
織田信長に仕えて初めて城を得てから亡くなるまでの間、その時々の必要性に応じて何度もその居城を移しています。
豊臣秀吉の居城として大坂城が突出して有名ですが、実は豊臣秀吉が初めて城を得てから死ぬまでの約25年の間で主として大坂城に在城していたのはほんの僅かです。3~4年に過ぎません。
羽柴秀吉は、人生のほとんどを別の城で過ごしています。
本稿では、そんな豊臣秀吉の居城遍歴を追っていきたいと思います。 “【豊臣秀吉の居城遍歴】秀吉が大坂城にいたのは僅か3~4年” の続きを読む
戦国武将の中で最も成功した人物と言えば徳川家康。
余りにも有名な武将・徳川家康ですが、その生涯において何度も名を変えていることをご存知ですか。
「徳川家康」というのは、元服後4つ目の名です。
以下、徳川家康の改名・改姓の歴史を見ていきましょう。なお、徳川家康とは短縮名であって最終的な正式名は「徳川次郎三郎源朝臣家康」といい、「徳川」は名字、「次郎三郎」は通称、「源」は姓(かばね)、「朝臣」は家格を表す姓、「家康」は名前です。 “【徳川家康の改名・名字変更の歴史】” の続きを読む
三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(現・兵庫県三木市上の丸町)にあった東播磨を治める土の城です。釜山城や別所城とも呼ばれます。
小寺氏の御着城・三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された巨城で、凄惨な三木の干殺しの舞台となったことでも有名です。 “【三木城】干殺しの舞台となった別所長治の居城” の続きを読む
山県昌景(やまがたまさかげ)は、武田信玄に仕えた譜代家老衆の1人で後代に武田四天王の一人に数えられる猛将です。
戦国最強の武田軍の中でさらに最強部隊である赤備えを率い、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われ敵に恐れられた武将でもあります。
武田信玄に寵愛されて武田軍の領土拡大に大きく貢献するも、武田信玄の死後には跡を継いだ武田勝頼に疎まれ悲しい最期を遂げています。 “【山県昌景】武田四天王の1人である赤備え2代目大将” の続きを読む
一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月13日、武田信玄の西上作戦の一環として行われていた遠江国・二俣城包囲戦の最中に武田軍と徳川家康軍との間で突発的に起こった戦いです。
二俣城の戦い(及び三方ヶ原の戦い)の前哨戦であり、徳川家康の撤退戦でもあります。
本多忠勝の武勇が光る戦いでもあります。 “【一言坂の戦い】二俣城の戦い・三方ヶ原の戦いの前哨戦となる徳川家康の撤退戦” の続きを読む