【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子

源頼家は、初代鎌倉殿であった父・源頼朝から地位の承継(鎌倉殿・征夷大将軍)を受け、若くして源氏の棟梁となります。

ところが、源頼家が鎌倉殿の地位を承継した後、有力御家人による権力争いが絡んですったもんだの大騒動が繰り広げられます。

その中で、源頼家自身とその子供たち(四男一女)が、御家人の思惑を受けて次々と粛清されていきます。

そして、鎌倉幕府の成立後50年を持たずして、源頼家の直系子孫(源頼朝の直系子孫も同じ)は断絶してしまいます。

本稿では、この源頼家の直系子孫断絶に至る経緯について説明していきたいと思います。

源頼家の正室は誰か

寿永元年(1182年)8月12日に誕生した源頼家は、鎌倉ですくすくと成長し、判明しているだけで以下の妻を貰い受けています。

① 若狭局 (比企能員の娘)

② 一品房昌寛の娘

③ 辻殿(足助重長と源為朝娘との娘)

④ 源媄子(木曾義仲の娘)

⑤ 安達景盛の娘

⑥ 美濃局 (河野通信と北条時政娘との娘)

⑦ 三浦義澄の娘

もっとも、これらの妻のうち、誰が源頼家の正室であったのかは一義的に明らかではありません。

一品房昌寛は源頼朝の右筆、安達景盛の娘、美濃局 、三浦義澄の娘は、その身分の低さ・実家の勢力・男児を出産の有無から検討対象とはなりませんが、身分が高くかつ男子を産んだ若狭局か辻殿のいずれを正室とするかが問題となるからです(北条家を礼賛する吾妻鏡は、若狭局を愛妾、辻殿を正室としていますが信用性に疑問があるので無視してください。)。

この点については、最初の妻であり有力御家人である比企能員のである若狭局が最有力とも考えられますが、あくまでも御家人の娘という立場がネックとなります。

他方、辻殿は、父が足助重長という御家人であるもの、母が源為朝(鎮西八郎)の娘であることから、源氏直系の血筋という高い権威性がありますが、後ろ盾が弱いという問題がありました。

そこで、源頼家の正室が誰かということが一義的に決まりませんでした。

この正室が誰かという問題は、源頼家が若く元気な間はそれほど問題とはなりません。

その正室が誰であれ、源氏の棟梁である源頼朝の嫡男であるという源頼家の権威性に疑いがないからです。

ところが、源頼家になんらかの問題が発生した場合にはこの問題が顕在化します。

通常、正室が最初に生んだ男子が嫡男となるため、源頼家の正室が誰かという問題が、源頼家の嫡男(次期鎌倉殿)が誰になるかという問題に直結するからです。

御家人の思惑に翻弄される源頼家と子供達

嫡男候補者一幡の誕生(1198年)

源頼家の正室が誰かという問題があやふやのまま時間が過ぎていき、成長した源頼家は、建久9年(1198年)、比企能員の娘である若狭局との間に、長男の一幡を儲けます。

一幡が生れたときには源頼朝も存命であり、一幡の母の実家であり、源頼朝の乳母の家である比企家の権力が絶大であったため、一幡に取り入ることは比企家に取り入ることとなります。

実際、一幡が生まれた当初は、一幡が源頼家の後継ぎとなることに疑問の余地はなく、一幡が嫡子としての扱いを受けていました。

御家人によるクーデター

初代鎌倉殿であった源頼朝が死亡し、源頼家が第2代鎌倉殿に就任すると、鎌倉殿と御家人との間の権力争いが勃発します。

そして、御家人間で協力してクーデターを起こし、建久10年(1199年)4月12日、源頼家の訴訟裁断権を奪った上で、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制を確立して将軍権力の抑制を行います。

嫡男候補者善哉の誕生(1200年)

鎌倉殿の権力を抑制して勝ち取った御家人は、その後、御家人間で権力奪い合いを始めます。

そして、さらにこれに拍車をかける出来事が起こります。

正治2年(1200年)、源頼家と源為朝の娘である辻殿との間に次男の善哉(後の公暁)が生まれ、乳母夫として三浦義村が付けられたのです。

次男とは言え、母親の家格が段違いに高い子が生まれたため、比企家とは異なる後ろ盾の鎌倉殿が誕生するきっかけができました。

こうなると御家人達の思惑が交錯し、それぞれが自分の利益を求めて動き出すようになります。

なお、その後、一品房昌寛の娘との間に三男・栄実と、四男・禅暁を儲けていますが、この2人は母親の身分が低いため嫡男たり得ないため本稿の検討対象からは外します。

その後、建仁2年(1202年)、媄子(木曾義仲娘)が竹御所を生んでいますが、女子であるため本稿の検討対象からは外します。

なお、余談ですが、竹の御所と呼ばれた邸が比企ヶ谷にあった比企氏邸跡であることや竹御所の墓が比企一族の菩提寺である妙本寺にあることなどから、媄子と若狭局とが同一人物であるとする説が有力なのですが、竹御所が比企家の血を継ぐ娘であるとすると、北条家が、後に竹御所が第4代鎌倉殿となる藤原頼経と結婚することを容認していたことに強い疑問が湧きますので、個人的には媄子と若狭局とは別の人物であったのではないかと考えています。

家督承継問題に起因する北条時政の暗躍

家督承継問題の顕在化(1203年8月)

そして、この問題が顕在化する事件が起こります。

建仁3年(1203年)7月、第2代鎌倉殿であった源頼家が病に倒れたのです。

そして、さらに源頼家の病状は悪化し、同年8月には危篤に陥ってしまいます。

そこで、有力御家人において、万一があった場合に時期鎌倉殿を誰にするのかの話し合いがなされます。

候補者は、一幡と善哉(後の公暁)であり、当然ですが、比企能員は当然一幡を推し、対抗勢力は善哉(後の公暁)を推す形で協議が続けられました。

北条時政の奇策

ところが、ここで北条時政が奇策を打ってきます。

前記のとおり、この時点での源頼家の嫡男たりうる男子は一幡と善哉(後の公暁)のみであったため、どちらが次期鎌倉殿となっても北条時政は完全に蚊帳の外です。

そのため、どちらが次期鎌倉殿になっても、そこから北条家の凋落が始まることは目に見えています。

危機を感じた北条時政は、源頼家の子ではなく、その弟・千幡(自身の娘である阿波局が乳母を務める源頼朝の次男・後の源実朝)を担ぎ出して影響力を維持しようと画策します。

そして、北条時政は、建仁3年(1203年) 8月27日、独断で源氏宗家の家督・日本国総地頭職・東国28ヶ国の総地頭を一幡が継ぐとしつつも、西国38ヶ国の総地頭を源頼朝の次男・千幡(源頼家の弟・後の源実朝)に分割することに決めてしまったのです(吾妻鏡)。

事実上、東国は源頼家の子である一幡が、西国を源頼家の弟である千幡が支配するという分割支配案です。

比企能員を含めた御家人からすると、寝耳に水のとんでもない決定です。

比企能員の変(1203年9月2日)

当然ですが、源頼家及びその子・一幡の後見人として、その権力を一手にできると考えていた比企能員が大反発をします。

権力の低下に繋がる案を許せるはずがない比企能員は、建仁3年(1203年)9月2日、娘の若狭局を通じて、健康を回復した源頼家に対して北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えます。

ところが、北条時政は、この比企能員の動きを事前に察知し、先手を打って大江広元の支持を取り付けた後、同年9月2日、薬師如来の供養と称して比企能員を自邸(名越亭)に誘い出し、武装して待ちかまえさせていた天野遠景・仁田忠常らの手によって殺害してしまいます(比企能員の変)。

北条家による粛清劇

一幡暗殺(1203年9月)

比企能員を討ち取った北条時政は、北条義時に命じてそのまま一幡の屋敷である小御所に攻め入らせ、籠っていた比企一族と共に一幡と若狭局を殺害してしまいます(なお、愚管抄には、一幡は同年11月に北条義時によって捕えられて殺されたと書かれていますので、一幡の死亡時期は必ずしも明らかではありません。)。

こうして、次期鎌倉殿の最有力候補であった一幡の命が断たれます。

その上で、北条時政は、鎌倉幕府の政治を維持するためにはわずか4歳の幼君の善哉(後の公暁)では不足であるとの理由をつけて、善哉については成長した後に僧侶にするとの決定を下した上、源頼家の弟であった源実朝を第3代鎌倉殿に据えることに決定します。

そして、北条時政は、朝廷に対して源頼家が死去したという虚偽の報告を行って千幡(後の源実朝)への家督継承の許可を求め、建仁3年(1203年) 9月7日、千幡を従五位下征夷大将軍に補任した上で、源頼家の将軍職を奪って伊豆国・修善寺に追放します。

源頼家暗殺(1204年7月18日)

こうして、実質的には北条時政の完全な操り人形の将軍が誕生し、鎌倉幕府は北条家の傀儡政権に成り下がってしまいます。

加えて、北条時政は、さらなる非情な決断を下します。

北条時政は、北条義時に伊豆国・修善寺に追放された源頼家の暗殺を命じ、元久元年(1204年)7月18日、これが実行に移されました(源頼家は、入浴中に首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。

公暁処刑(1219年)

源頼家の次男であり、僧籍に入っていた公暁は、承久元年(1219年)正月27日の鶴岡八幡宮での記念式典の際、源実朝を討ち取ったのですが、その責めを受けて三浦義村に討ち取られます。

栄実・禅暁の死

源頼家の三男・栄実(えいじつ)は、源頼家の死後、尾張中務丞によって養育されていたところ、北条家に恨みを持ち、建保元年(1213年)2月に起こった泉親衡の乱に加担したとか、建保2年(1214年)の和田義盛の乱の際に擁立された(愚管抄)、などと言われていますがその正確なところは不明であり、承久元年(1219年)10月6日に自害したとされています(尊卑文脈)。

また、源頼家の四男・禅暁は、異母兄の公暁による源実朝を暗殺事件に加担したとの嫌疑を受け、その後、承久2年(1220年)4月14日に京の東山近辺で誅殺されたといわれています(仁和寺御日次記)。

この禅暁の死により源頼家の直系男子は断絶します。

なお、源頼朝の男子としては、千鶴丸・源頼家・源実朝は既に死亡しており、この時点で唯一生存していた僧・貞暁(源頼朝が大倉御所に出仕する侍女・大進局に生ませた子)も、子を儲けることなく寛喜3年(1231年)に高野山にて46歳で死去していますので(自害したという説もあります。)、これにより源頼朝の男系男子の子孫は断絶しています。

竹御所の死(1234年7月27日)

唯一残った源頼家の長女・竹御所は、北条政子の死後に実質的な2代目尼将軍として鎌倉幕府内にて尊敬を集め、29歳となった寛喜2年(1230年)12月9日、13歳の第4代鎌倉殿となった九条頼経摂家将軍)に嫁ぎます。

この2人の夫婦仲は円満であったと伝えられ、その4年後に竹御所の懐妊したため後継者誕生の期待が生れたのですが、当時としては33歳という超高齢出産であったため、天福2年(1234年)7月27日、難産の末に男児を死産し、竹御所本人も力尽きて死去しています。

この竹御所の死亡により、源頼家及び源頼朝の直系子孫は全て死亡し、源氏棟梁家の血筋は断絶しています。

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