【建武の新政】3年で瓦解した後醍醐天皇の建武政権

「建武の新政」(建武の中興ともいいます。)は、鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇が自身を神に擬えて行った天皇親政の政治体制です。

生粋のお坊ちゃんで人の話を聞かない後醍醐天皇は、自らを助けてくれた武士・公家はおろか、市井で生きる人の生活など考慮することなく自身の理想を追い求めた政治を追及します。

そのため、新たに始まった後醍醐天皇の政治は公家・武士・庶民の全てから反目されてわずか3年で崩壊し、南北朝の動乱と足利尊氏による武士の世界(室町幕府)時代に入っていきます。

本稿では、失敗に終わった天皇親政政治である建武の親政の概略について、簡単に説明していきたいと思います。

建武の親政に至る経緯

鎌倉幕府の滅亡

鎌倉時代末期の文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想として天皇親政を目指します。

ところが、ときは鎌倉時代の武家政権下であり即位した後醍醐天皇に政治的権力はありませんでした。

もっとも、後醍醐天皇が即位したころは元寇以来の混乱により鎌倉幕府に対する御家人の信頼が失われつつある時期であり、これを好機と見た後醍醐天皇が即位後から鎌倉幕府討幕計画を立て始めます。

後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画は正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の変と立て続けに発覚し、後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位します。

他方、後醍醐天皇は、自身の第三皇子である護良親王、河内の楠木正成、播磨の赤松則村(赤松円心)らを引き入れて鎌倉幕府軍に抵抗を続けます。

また、これらに加えて鎌倉幕府の有力御家人であった足利尊氏・新田義貞らが後醍醐天皇方に寝返ったことから、再び討幕の機運が高まったと判断した後醍醐天皇は、正慶2年(1333年)に隠岐を脱出し、伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げます。

この勢いに乗った足利尊氏が、赤松則村や千種忠顕らと共に京へ攻めんで鎌倉幕府の朝廷監視機関であった六波羅探題を滅ぼします。

六波羅探題滅亡の報は船上山にいた後醍醐天皇の下へ届けられ、鎌倉幕府の影響力が取り払われたとして、後醍醐天皇は赤松則村や楠木正成らに迎えられて京への帰還の途につきます。

そして、後醍醐天皇は、京への期間途中、新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡し、約150年続いた1つの武家政権が終わります。

倒幕の論功行賞

正慶2年(1333年)6月5日、京に戻った後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡に伴って自身の下に戻ってきた政治の実権を駆使し、天皇親政を行うため大改革をはじめます。

天皇親政の復活です。

後醍醐天皇は、まず鎌倉幕府が擁立した光厳天皇と正慶の元号を廃止して元弘に戻し(正慶2年→元弘3年)、その上で、光厳天皇が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言して後醍醐天皇が唯一の天皇であることを明示します。

そして、同日、倒幕に参加した武家の中でも最も名門であり従える武士が多かった足利尊氏を鎌倉幕府倒幕の勲功第一として、従四位下に叙して鎮守府将軍・左兵衛督に任じ、また武蔵国・下総国・日立国とそのた30箇所の所領を与えます。なお、その後、足利尊氏はそのときまで名乗っていた足利「高氏」について、天皇の諱尊治から偏諱を受け足利「尊氏」と改名しています。

護良親王の危機感

このとき、足利尊氏は、新政権(建武政権)に高師直やその弟師泰ら主だった重臣たちを参加させますが、足利尊氏自身は鎮守府将軍として軍事的権力を得ることに専念し、建武政権の政治とは距離を起きました。

また、足利尊氏は、自身は上洛した武士を吸収して京支配を主導しつつ、弟の足利直義を成良親王の補佐として新たに成立させた鎌倉将軍府に派遣するなどして武家としての動きを積極的に行います。

建武の新政

後醍醐天皇の理想は天皇親政です。

すなわち、摂政・関白・征夷大将軍などの権力機関を置かず、また上皇による院政をも排除して、天皇のみの意思によって政治を行うというものでした。

目指すは中央集権化による天皇の独裁です。まず、元弘4年/建武元年(1334年)、年号を「建武」と改めます。

そして、後醍醐天皇は、建武政権に権力を集中させるため、中央(京)と地方(京以外)の政治機構を一新させます。

建武政権の中央(京)の政治

建武政権での政治は、調査機関としての記録所・恩賞方が個々の政務のための先例や意見を答申し、その後後醍醐の決裁を経て「綸旨」の形で発せられるという形式で行われました。

そして、京での裁判機関として検非違使庁を、所領関係の裁判機関として雑訴決断所を置き訴訟業務を行わせます。

また、天皇の警備隊として武者所も設置されました。

①記録所

元弘3年(1333年)9月ころ、建武政権における中央官庁の最高機関として設置(再興)されました。記録所は、平安時代に藤原摂関家から権力を取り戻そうとした後三条天皇が延久元年(1069年)に記録荘園券契所を設置したことに由来します。

記録所は、荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当しました。

構成員は楠木正成、名和長年、伊賀兼光などです。

②恩賞方

元弘3年(1333年)7月19日ころ、鎌倉幕府の討幕運動に参加した者に対する論功行賞機関として設置されました。

そして、同年8月5日、叙位除目(元弘の乱の論功行賞)がなされ、足利高氏への「尊」の偏諱を授与、北畠顕家・新田義貞・楠木正成・千種忠顕らへの官職付与などが行われました。

③雑訴決断所

元弘3年(1333年)9月10日ころ、所領関係の訴訟を管轄する機関として設置されました。

鎌倉幕府の引付衆に相当します。

構成員は公家のほか足利家家臣の上杉氏や足利尊氏の執事高師直、旧幕府の官僚二階堂氏など公家・武家双方から多くの人材が登用されています。

④武者所

元弘3年(1333年)9月ころ、天皇の親衛隊として、京の警察活動、武士の管理などを行う機関として設置されます。

長には新田義貞が任じられています。

建武政権の地方(京以外)の政治

また、建武政権は、地方ごとに国司を置いて中央からの支配を及ぼすと共に、関東へは鎌倉将軍府を置いて、奥州には陸奥将軍府を置いて支配を拡大しようと試みます。

①国司・守護

後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)6月15日、旧領回復令を発布し、また続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などを発布するなどして従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とした上で、新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしました。

その結果、建武政権の下に土地所有権の認可を申請する者が殺到して処理能力を超えて裁ききれなくなったため、同年7月にこれを事実上撤回して諸国平均安堵令を発し、知行の安堵を諸国の国司に任せます。

また、後醍醐天皇は、それまで中下級貴族が権益として就いていた国司制度を地方支配の柱と位置づけ、自身の側近や有力者を国司に任じて権能の強化を図りました。

ところが、後醍醐天皇は、鎌倉幕府以来の武士が担っていた守護についても軍事指揮権を扱う役職として残しました。そのため、同一の土地に、国司と守護という2人の統治者が並び立つこととなり地方で大混乱が生じます。

これらの一連の土地政策の実態により、建武政権の政権担当能力に当初から強い疑問が持たれました。

②陸奥将軍府設置

建武政権は、奥州への支配拡大を狙い、元弘3年(1333年)10月20日、北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて、父の北畠親房や結城宗広と共に陸奥に赴き、東北地方(陸奥・出羽の2国)および北関東(の3ヶ国)の管理をはじめます。

陸奥国府多賀に置かれました。

③鎌倉将軍府設置

また、建武政権は、関東支配のため、元弘3年(1333年)12月24日、足利尊氏の弟である足利直義直が、成良親王を奉じて鎌倉に派遣して南関東の管理をはじめます。

建武の新政に対する不満の高まり

後醍醐天皇により進められた建武の新政ですが、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、発足当初から数々の問題が露呈します。

これは、現場を知らない後醍醐天皇が、自分の意見のみが正しいと盲信して行ったものであったためと言われます。

この点については、建武政権内からも諫言が相次いでいたようで、延元3年/建武5年(1338年)には北畠顕家が出陣前に新政の失敗を諌める諫奏を行ったり、後に三条公忠が「後醍醐院の措置は物狂の沙汰が多く、先例にならない」と非難するなどされていました。

そして、この建武政権への不満は、皮肉にも、調整型リーダーであった足利尊氏人気に向かい、建武政権崩壊のアクセルとなっていきます。

武士の不満

後醍醐天皇は、鎌倉幕府による御恩と奉公で成り立つ御家人制度を撤廃し、全ての武士を天皇の直接指揮下に置く扱いとしました。

これについて、後醍醐天皇は、それまで幕府の御家人だった者(天皇の臣下の臣下であるため天皇から見れば陪臣にあたる。)から、天皇の直臣にあたる地位に格上げとなるため、武士にとってはこの上ない栄誉を与えたのだという認識を持っていた。

この点については、知行を与えてくれる者に対して忠義を尽くすというそれまでの武士の常識と相容れないものでした。

また、それに加えて、武士の有していた土地を一旦無効として、これを認容してもらうために天皇の綸旨を必要としたことに不満が募りました。

さらに、足利尊氏が鎌倉時代からの上総国・三河国を安堵され、さらに武蔵国・伊豆国などの守護職を得た上で伊勢国柳御厨(現在の三重県鈴鹿市に所在)以下30ヶ所の所領を与えられ、またその弟である足利直義も相模国絃間郷(現在の神奈川県大和市に所在)以下15ヶ所を与えられるなどする一方で、六波羅攻略に功を立てた赤松則村(円心)は逆に播磨の守護職を没収されるなど、倒幕の功に対する恩賞が不公平でした。

また、鎌倉幕府討幕に直接汗を流さなかった公家にも多くの恩賞が与えられたことが、さらに武士の不満を増幅させました。

公家の不満

建武の新政以前の政治は、天皇の下に太政官がおり、その下に八省があったのですが、この太政官や八省では能力ではなく、家柄による世襲によって任命がなされていました。

そのため、建武の新政以前は、一部の貴族の家に朝廷権力の集中が生じていました。

この弊害を除いて天皇に朝廷権力を集中させるため、後醍醐天皇は、家柄を無視して能力主義でその任命をすることとしました。

そして、後醍醐天皇は、前関白左大臣二条道平や右大臣鷹司冬教などを八省の長官である卿に選任し、これらの者を通じて八省を統括することで天皇親政の強化を模索します。

もっとも、この後醍醐天皇の改革は、位階の伝統に反した家格軽視の政策であるとして、それまでの既得権益を持つ公家達から猛反発にあいます。

庶民の不満

後醍醐天皇は、建武2年(1335年)5月、天皇親政のため大内裏の造営を決め、同年6月15日、そのための造内裏行事所を開設してその造営をはじめます。

もっとも、後醍醐天皇に大内裏を築くための経済的な基盤はなく、その費用を工面するため、農民に対して二十分の一税を新たに課すなど大増税を行います。

また、後醍醐天皇は、政権樹立後、唐突に新貨幣鋳造、新紙幣発行などの経済政策を行ったため、倒幕戦争直後の疲弊した経済の混乱に拍車をかけ、経済的な大混乱が発生します。

貧困から、京の治安も急速に悪化します。

建武政権についての庶民の不満は鬱積し、建武2年(1335年)8月には、「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨」から始まる有名な『二条河原の落書』が掲げられるほどに至ります。

建武の新政の瓦解

護良親王の失脚

建武政権成立後、征夷大将軍に任じられた護良親王でしたが、多くの兵を擁する足利尊氏が鎮守府将軍に任じられたこともあって、その動静を常に警戒する動きを見せていました。

前記のとおり、護良親王は鎌倉幕府討幕のための朝廷軍の総大将として大活躍し、またその後足利尊氏をけん制するために征夷大将軍の位を得たのですが、他方で天皇親政を目指す後醍醐天皇からすると、自分の子とは言え征夷大将軍の位を与えることには消極的でした。

そのため、この征夷大将軍の地位を巡って、後醍醐天皇と護良親王との間に亀裂が入り始めます。

その後、征夷大将軍の地位を返上した護良親王でしたが、その有する軍事力をもって足利尊氏に対するけん制を続けます。

そして、以降、護良親王と足利尊氏との対立は激しさを増していきます。

そして、遂には、護良親王は、後醍醐天皇に足利尊氏の野望を直訴して追討の勅語を発することを願うも、足利尊氏の力を恐れた後醍醐天皇はこれを受け入れませんでした。

焦った護良親王は、自ら足利尊氏討伐の令旨を発令するも、これが足利尊氏の目に触れてしまいます。

自身の討伐を勧める令旨見た足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇に対して、護良親王が皇位を簒奪するために兵を集めていると讒言して護良親王を拘束させ、建武2年(1334年)11月、足利尊氏の弟が事実上の支配権を有する鎌倉将軍府へ送ってしまいます。なお、後醍醐天皇は、護良親王が足利尊氏討伐の令旨を出したことについて、足利尊氏に対して、「護良親王の令旨は朕(帝)には預かり知らぬことであり護良親王が独自の判断でやった事である」と弁明したと言われています。

そして、この後、護良親王は、鎌倉将軍府で足利直義の監視下に置かれます。

中先代の乱と足利尊氏の台頭

建武2年(1335年)7月14日、鎌倉幕府残党北条時行(北条高時の遺児)・諏訪頼重らが信濃国で蜂起し、足利直義率いる鎌倉将軍府に攻め込んできます(中先代の乱)。

同年7月22日、不利を悟った足利直義は鎌倉を後にする決断をするのですが、その際に、鎌倉幕府のせいにするという理由をつけて、どさくさに紛れて幽閉中の護良親王を殺害します。護良親王享年28歳でした。

鎌倉将軍府を失った後醍醐天皇は、足利尊氏に対して鎌倉幕府残党軍の討伐を命じます。

これに対し、足利尊氏は、鎌倉幕府残党軍の討伐軍派遣の見返りとして、自身の征夷大将軍への任命を願い出ます。

ところが、足利尊氏を征夷大将軍に任じてしまうと、足利尊氏が幕府を開いて権力を獲得してしまう可能性があるため、天皇親政にこだわる後醍醐天皇は、この足利尊氏の申し出を拒否し、征東将軍に任じるにとどめます。

足利尊氏は、この後醍醐天皇による征夷大将軍への任命拒絶との回答を無視して、独断で軍を率いて鎌倉へ進軍し、途中で鎌倉から逃れてきた足利直義と合流して鎌倉に入り、同年8月18日、相模川の戦いで、北条時行らを撃破します。

そして、その勢いで、同年8月19日、足利尊氏は鎌倉に入ります。

鎌倉に入った足利尊氏は、同年9月27日ころから、中先代の乱を鎮めるのに功を挙げた武将に独断で恩賞を与え始めます。

恩賞を与えるのは天皇に限るとの政治方針をとっていた後醍醐天皇は、足利尊氏が勝手に武士に恩賞を与えているの行動を聞いて激怒し、直ちに足利尊氏に対して京に戻って弁明するよう命じます。

これに対し、足利尊氏は、京に戻ると後醍醐天皇に殺害されるとの足利直義の進言を聞いて帰京を拒否し、新田義貞を討つとの名目を付けた上で建武政権軍と戦うための兵を集めます。

足利尊氏軍と建武政権軍との戦い

建武政権が足利尊氏に勝っていた序盤戦(中先代の乱から豊島河原合戦いまで)

足利尊氏の謀反の動きを見た後醍醐天皇は、建武2年(1335年)11月19日、足利尊氏を朝敵と定めて討伐の綸旨を出し、尊良親王、新田義貞、楠木正成らを出陣させます。

鎌倉を目指して東進する建武政権軍と、京を目指して西進する足利尊氏・足利直義軍は、各地で衝突します。

同年11月25日の矢作川の戦いは建武政権軍が勝利、同年12月5日の手越河原の戦いは建武政権軍が勝利、同年12月11日の箱根・竹ノ下の戦いは足利軍が勝利し、当初は一進一退の攻防が続きます。

もっとも、時間を経るに従い、建武政権に不満を持つ武士達が足利方に参戦してくるようになり、戦局が足利尊氏方に傾いていきます。

建武3年(1336年)1月、膨れ上がって勢いに乗る足利尊氏軍は、京になだれ込んでいき、これを恐れた後醍醐天皇が同年1月10日比叡山に逃亡します。

このとき、関東から戻った新田義貞に畿内から馳せ参じた楠木正成と奥州からやってきた北畠顕家が合流し、京にいる足利尊氏に攻撃を仕掛けます(第一次京都合戦)。

この戦いは、建武政権軍の勝利に終わり、敗れた足利尊氏らは九州に落ち延びていきます。なお、このとき九州に落ちていく足利尊氏に付き従う武士が多かったのを見て、建武政権側の楠木正成は、全国の武士の心がすでに建武政権から離れていることを悟ったと言われています。

足利尊氏を追い払った後、同年1月30日、後醍醐天皇が比叡山から京に戻ってきます。

建武政権が足利尊氏に敗れた終盤戦(多々良浜の戦いから湊川の戦いまで)

他方、九州に落ちていった足利尊氏は、多々良浜の戦いなどで九州の建武政権方の武士を駆逐するなどして九州で戦力を整え、再度京へ向かって進軍していきます。

途中、鞆浦に立ち寄った足利尊氏は、同所で光厳上皇(持明院統)から新田義貞(大覚寺統の後醍醐天皇の臣下)討伐の院宣をもらい受けます。

これは、足利尊氏が、単にそれまでの後醍醐天皇(大覚寺統)から持明院統(光厳上皇)側に寝返るという意味を持つだけでなく、朝敵とされていた立場が覆されることにつながりました。

すなわち、足利尊氏は、大覚寺統から持明院統に寝返ったことにより、朝廷対足利の構図を朝廷間の対決(大覚寺統対持明院統)にすげ替えることに成功したのです。

これに対して、後醍醐天皇も黙っていません。

直ちに新田義貞を派遣して、足利尊氏討伐に向かわせます。

ところが、新田義貞は、播磨国の赤松則村に妨害され、それ以上西に進むことができなかったため、後醍醐天皇に救援を要求します。

このとき、後醍醐天皇が救援に派遣しようとしたのが楠木正成です。

もっとも、このとき楠木正成は、後醍醐天皇に対して、戦いで足利尊氏に勝利するのは困難であり、再度後醍醐天皇を比叡山に入らせた後に足利尊氏を京へ引き入れ、兵糧攻めにしてこれを撃退するべきであると進言します。

しかし、後醍醐天皇は、1年間に2度も天皇が京都から逃亡するなど権威に関わるなどと言った理由で楠木正成の進言を却下し、楠木正成に有無を言わせず新田義貞への援軍に加わるよう命令します。

死を覚悟した楠木正成は、同行しようとする嫡男の楠木正行に対して同行を許さず、楠木正成亡き後の楠木家を盛り立て、いつか必ず朝敵足利尊氏を滅ぼすようにと言い残して今生の別れとします。

有名な、桜井の別れです。

こうして楠木正行と別れた楠木正成は、新田義貞に合流し、建武3年(1336年)5月25日、湊川で新田義貞・楠木正成連合軍と足利尊氏軍とが激突します(湊川の戦い)。

楠木正成は奮戦しますが多勢に無勢で戦線を維持できず、楠木正成は戦死、新田義貞は京に落ち延びるという結果で湊川の戦いは終わります。

建武政権軍(官軍)敗退の知らせを聞いた京の貴族たちは大混乱となり、後醍醐天皇と共にまたも比叡山に籠ります。

京に入った足利尊氏は、光厳上皇を奉じて、比叡山にいる後醍醐天皇軍と戦いになり、一進一退の攻防を経た後足利尊氏の勝利に終わります。

その結果、同年8月15日に足利尊氏に擁立された持明院統の光明天皇が即位します。

その後、同年10月10日に後醍醐天皇が足利尊氏に投降して天皇の座から下ろされ、三種の神器を差し出して京にある花山院に幽閉されたことにより、建武の新政は終わります。

建武の新政瓦解後

南北朝時代へ

その後、後醍醐天皇は、建武3年(1336年)12月に幽閉されていた花山院を脱出して大和国・吉野へ逃れ、そこで先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言した上で、吉野朝廷(南朝)を成立させます。

他方、京には、足利尊氏が擁立した持明院統の光明天皇がいたため、この京の朝廷(北朝)とあわせて2つの朝廷が併存することとなってしまいました。

これにより、吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来し、元中9年/明徳3年(1392年)に足利義満が明徳の和約によって合一するまで約60年間に亘って南北朝の抗争が続くこととなります。

室町幕府の成立

その後、南北朝の勢力は足利尊氏が擁するた北朝有利となり、延元元年/建武3年(1336年)11月7日に足利尊氏が建武式目を制定し室町幕府が成立します(なお,征夷大将軍任命は建武5年(1338年)8月11日です。)。

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