【三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人

三好長慶(みよしながよし)は、下克上を果たして日本の権力の中枢に上り詰めた一大権力者です。織田信長に先立つ天下人とも言われます。

かつては下克上に遭って失脚しただとか、晩年にボケたなどと言われることもありますが、これらの評価は誤りです。

以下、三好長慶の生涯を簡単に見ていきたいと思います。

悲劇を乗り越えて三好家を継ぐ

三好長慶は、大永2年(1522年)2月13日、管領職を務める細川晴元の重臣であった三好元長の嫡男として、阿波国(現在の徳島県三好市)で阿波国・芝生城主三好元長の嫡男として産まれます。幼名は千熊丸といいます。

三好家は、室町幕府のナンバー2で管領も務める細川家の臣下にあり、三好長慶の曽祖父・三好之長の頃には阿波から畿内に進出し、威勢を強めます。

三好長慶の父・三好元長(三好之長の孫)の代には、政敵である細川高国に追われて阿波国に逃げてきた細川晴元を助けて畿内に攻め込み、細川高国を亡ぼし、細川晴元を管領に就任させる程の力を手に入れます。

三好家は、三好元長の代には、本国阿波国のみならず丹波国や山城国にまで影響力を持つ畿内有数の家となっていたのです。

ところが、優秀過ぎる部下は怖いもので、三好元長の才に危険を感じた細川晴元は、三好元長を排除するため、享禄5年(1532年)、三好元長と対立していた三好政長・木沢長政と組み、一向一揆との戦いの際に謀略を巡らし、10万人とも言われる数で三好元長を攻めさせて追い込みます。

その結果、同年6月20日、三好元長は、現在の大阪府堺市内にある顕本寺で腹を切って果てます(三好元長の墓は、今も同寺にあります。)。また、このとき、三好元長のみならず、三好家の重臣の多くも命を落としています。

当然、三好家の嫡男である三好長慶にも危険が迫ります。

このとき、三好長慶は父と共に畿内にいたのですが、三好長慶は、命からがら三好家の本拠地たる阿波国へ逃げ帰り、そこで三好家の家督を継ぐことになります。このとき、三好長慶は僅か11歳でした。

父の仇である細川晴元に仕える(1534年10月)

阿波国に逃れた三好長慶は、藍住の地に身を寄せ再起を図ります。

その後、父三好元長の命を奪った一向一揆ですが、細川晴元の手に負えない程大きくなり、享禄・天文の乱という大乱に発展します。

ここで、細川晴元は何を考えたのか、12歳であった三好長慶を連れてきて、細川晴元と本願寺を仲介させます。

ところが、ここで三好長慶は驚くべき才を発揮します。

わずか12歳の少年が、細川晴元と本願寺の間をうまく立ち回って、和睦をとりまとめてしまったのです。

びっくりです。

しばらくした後、三好長慶は元服するのですが、天文3年(1534年)10月、三好長慶は、自らの身を守る意味もあって、復讐心を隠しながら父の仇である細川晴元に下り家臣となります。

その後、三好長慶は、余韻の残る一揆勢を軍を率いて殲滅しています。

交渉に戦にととんでもないチートぶりを発揮します。

富国強兵

実力本位の人材登用

三好家の家督を継ぎ精力的に名を挙げていく三好長慶ですが、父を討たれた際、父だけではなく三好家を支えてくれるはずの重臣達も合わせて失っています。

そのため、三好家は、三好長慶の代になったときから深刻な人材不足に陥っていました。

天文8年(1539年)8月、摂津国西半分を任された三好長慶は、摂津国(現在の兵庫県西宮市)越水城を居城とし、周囲の国衆を束ねる立場にいたのですが、三好長慶自身が若年であり、また国衆との間を調整してくれる有力な家臣もいなかったことから、領国経営に苦心します。

そこで、三好長慶は、越水城を得た後、本格的に三好家を支える高い能力を持った人材の登用を始めます。

登用基準は、家柄ではなく実力でした。当時の考えとしては、画期的な登用方法です。

このときに、以後三好長慶の重臣として大名や宮中との交渉に活躍した松永久秀の登用にも成功しています。土豪と呼ばれる地域の武士に過ぎなかった松永久秀を登用するなど異例と言える人事です。

また、ここで登用した有能な家臣達が三好長慶の政治を高めます。

有能な部下を使いこなす三好長慶の政治手腕は、他国にも有名となっています。

越前朝倉家中興の祖で名高い朝倉宗滴も、その話記の中で、国を治める手本となる人物として、今川義元、武田信玄、織田信長に加えて三好長慶を挙げ、その政治手腕を高く評価しています。

積極的な情報収集

また、三好長慶は、情報の重要性を理解しており、全国展開している宗教勢力に接近して、その宗教勢力がもつネットワーク(多くは、戦国に散らばる末寺から集まる情報)を利用していました。

貿易による経済力・軍事力強化

また、宗教勢力の信者の中には商人も多数存在し、その信者のツテを伝って東南アジアなどとの貿易なども行い、経済力を高めるとともに、鉄砲などの先進的な武器も入手していたようです。

1539年(天文8年)に越水城に入った後、港湾都市として栄えていた兵庫を使って貿易で利を得ます。なお、1550年頃には、三好長慶が戦に鉄砲を使っていたとの記録が残されています。

また、三好長慶は、1560年頃からではありますが、領土内でのキリスト教の布教を許可しています。

宣教師のもたらす先進技術を得るためです。

弟による瀬戸内海の広域支配

また、三好長慶には3人の弟がいたのですが、三好長慶はこの3人を使って瀬戸内海に強力なネットワークをつくりあげます。

その手段は、すぐ下の弟実休に三好の本拠地である阿波国を任せ、その下の弟冬康を淡路の海賊を率いる安宅氏の養子にし、一番下の弟一存を讃岐国を治める十河氏の養子にするというものでした。

これにより、三好長慶が摂津、(十河)一存が讃岐、(安宅)冬康が淡路、三好実休が阿波を抑えることになり、瀬戸内海の広域支配を可能としました。

三好長慶天下人へ

飛躍

実力本位の人材登用、ネットワークを駆使した情報収集、貿易などによる経済力・軍事力強化、瀬戸内海広域支配による後顧の憂いの排除により、三好長慶は更なる力を手に入れます。

そして、主君細川晴元の下で、武功を上げ続けます。

まず、1541年9月、主君細川晴元に反逆した父の仇でもある木沢長政を太平寺の戦いで討ち取り、細川晴元の筆頭被官の地位になります。

次に、細川晴元を排斥しようとした12代将軍足利義晴を、弟三好実休・安宅冬康・十河一存らの力を借りて舎利寺の戦いで破り、将軍足利義晴一派を京都から近江国の坂本に追放します。

そして、三好長慶は、主君細川晴元と対峙できる実力に到達します。

主君細川晴元からの離反

そして、ついに三好長慶は立ち上がります。

きっかけは、三好長慶の申し出を細川晴元が足蹴にしたことです。

勢いに乗る三好長慶は、父のもう一人の仇である三好政長の追討を決意し、主君細川晴元に三好政長の討伐を願い出ましたが、三好政元が細川晴元の重臣であったために細川晴元に拒否されます。

戦う力を手に入れた三好長慶は、もう我慢をしません。

三好長慶は、父の仇である三好政長を庇うのであれば細川晴元も同罪であると考え、ついに、三好政長もろとも主君細川晴元と対決することを決意します。

そして、1548年(天文17年)、三好長慶は、細川晴元の政敵である細川氏綱の協力を得、また細川晴元が摂津国人である池田信正を切腹させたことを恨んで細川晴元に敵対する摂津国の国衆を率いて挙兵します。なお、このとき初めて「長慶」という名を名乗ったといわれています。

そして、天文18年(1549年)6月、三好長慶は、江口城の戦い(江口の戦い)で細川晴元らを破り、父の仇である三好政長を討ち取ります。

その上で、細川晴元と当時の室町幕府13代将軍・足利義輝を京から近江国に追い払います。

なお、この時、三好長慶は徹底的に細川晴元や足利義輝を追撃していれば滅ぼす事もできたでしょうが、三好長慶はこれをしませんでした。

三好政権樹立

この戦により、三好長慶は、細川晴元の支配から脱し、畿内8ヵ国に影響力を及ぼす大大名にのし上がります。

将軍と管領を追放した三好長慶は、細川晴元の後釜として細川氏綱を管理に据え、そのフィクサーとして事実上政権を牛耳ることとなりました。

トップたる将軍は不在、ナンバー2の管領は傀儡、フィクサーは三好長慶。事実上の三好政権の誕生です。

どこかで聞いたような怖い構図です。

近江に逃亡した将軍足利義輝や先代管領細川晴元は、頻繁に三好長慶の足を引っ張り、暗殺を試みるなどしています。

自分の邪魔をする将軍や先代管領など握りつぶしてしまう実力を有していたのですが、三好長慶はあえてそれをせず、三好長慶は、六角義賢の仲立ちで足利義輝や細川晴元と和睦をしています。

和睦の結果、正式に細川晴元が細川氏綱に家督を譲り、また足利義輝が京に帰還します。

このとき、三好長慶は、形式的には、足利将軍家の陪臣(将軍の家臣である管領の家臣)ではなく、将軍直属の家臣にランクアップします。もっとも、三好長慶が実権を持っているので、形式はどうでもよい気もしますが。

もっとも、これで一件落着とはならず、天文22年(1553年)、実権を取り戻そうと動きだした細川晴元とこれに呼応した足利義輝が、京都の霊山城に立て篭り、三好長慶に抵抗を試みますが、三好長慶にあっさり鎮圧され、近江国朽木に落ちていきます。

三好長慶は、こんなに何度も抵抗してくるにもかかわらず、勢力を奪いはするものの、ここでも細川晴元と足利義輝を殺さず、これを許します。

この異様な寛大さはどういう理由によるものなのでしょう。

三好長慶天下人へ

天文22年(1553年)、本拠地を摂津国・芥川山城に定めて、細川氏綱を傀儡として操り、山城・丹波・大和・和泉・淡路・讃岐・播磨を制し、近江・河内・伊賀・若狭まで影響力を及ぼします。なお、東大寺・興福寺などの宗教勢力により治められていた大和国平定には大変苦労をしたようです。

その後、三好長慶は、永禄3年(1560年)に三好家の家督と芥川山城を嫡男・三好義興に譲って、自身は和泉国・飯盛山城に入り、勢力・権力の絶世期を迎えます(この頃の勢力は、だいたい上図のような感じです。)。

当時は、五畿内を天下と言っていましたので、これを治める三好長慶が天下人となったのです。

この三好政権の特徴は、なんと言っても幕府権力や将軍権力をバックボーンにもたないことです。

三好長慶は、後の織田信長と同じように、将軍権威を必要とすることなく、幕府が裁断すべき争論をも自ら裁決しており、将軍も管領も「あってなきがごとし」という状態を作っています(おそらく、織田信長は、三好長慶を真似たのだと思います。)。

細川氏が最後まで将軍権威を必要としていたのと対照的です。

三好長慶は、将軍・管領を超える実力を手にし、永禄4年(1561年)には、天皇から将軍家や豊臣秀吉など武家の頂点に立つ者しか使用を許されない桐の紋の使用までも許されてもいます。

また、その武名は海外にまで轟いており、オランダの辞典シャトラン「歴史地図帳」に、日本の統治者として、内裏(天皇)、公方(足利将軍)に次ぐ実力者としてその名が記される程でした。

名実共に天下人です。

その後、三好長慶はそのとき、家督と本拠としていた芥川山城を嫡男・三好義興に譲り、自らは河内国の飯盛山城へと移ります。

三好長慶の凋落

弟・十河一存及び三好実休の死

ところが、三好長慶の春は長くは続きませんでした。

衰退のきっかけは、永禄4年(1561年)3月18日に弟・十河一存(そごうかずまさ)が急死したことでした。わずか30歳であった十河一存の死因は病気とも事故ともいわれますが、詳しいことはわかっていません。

鬼十河と呼ばれ、三好政権の軍事的中枢を担っていた十河一存の死は、三好家の軍事力を大きく低下させます。

そして、十河一存の死によって和泉国の支配が弱まると、その隙をついて南側から畠山高政(細川晴元の次男・細川晴之)の、北側から六角義賢の三好領への攻撃が始まります。

迎え撃つ三好軍は、永禄4年(1561年)11月24日に将軍地蔵山で小競り合いが繰り返され、また、永禄5年(1562年)3月5日の久米田の戦いでは、三好長慶の弟である三好実休が討ち取られる大敗を喫します。

立て続けに優秀な2人の弟を失った三好長慶に、更なる不幸が襲います。

嫡男・三好義興の病死(1563年8月)

永禄6年(1563年)8月、三好長慶の嫡男・三好義興が22歳の若さで病死してしまったのです。

三好長慶は、わずかな期間に優秀な弟2人と将来を嘱望していた嫡男を失って大きなショックを受け、精神に変調をきたします。

また、同年12月、名目上の主君・細川氏綱が病死したために三好家の政権維持に必要な形式的な管領職までも失ってしまいます。

大事な跡取りと、お題目を失った三好家に暗雲が立ち込めます。

三好長慶は、直系の子を亡くしたことから、三好家の存続のため養子をとる必要に迫られたのですが、優秀な弟たちの子の中から、十河一存の息子である重存(義継)を選びます。

このとき三好家には、一存以外の弟にも子があり、三好長慶にとっての甥が三好義継以外にも残っていたのですが、天下人として体裁を重視し、母親の家柄を重視して人選をしたのです。

弟・安宅冬康を誅殺(1564年5月9日)

そんな中、三好長慶は、とある事件を起こします。

永禄7年(1564年)5月9日、1人残っていた弟である安宅冬康を飯盛山城に呼び出し誅殺してしまったのです。

三好長慶が、安宅冬康を誅殺した理由については、① 安宅冬康が謀反を企んでいた、②松永久秀の讒言であった、③後継者とした三好義継に権力を集中させお家分裂を防ぐためであった、④このとき三好長慶はボケて精神衰弱に陥っていた、など様々な説がありますが、その理由ははっきりしません。

ただ、この事件により、さらに三好家の軍事力が大幅に低下したことは間違いありません。

三好長慶死去(1564年7月4日)

これらの一連の不幸が影響したのかわかりませんが、三好長慶が弟安宅冬康を謀殺したわずか2か月後の永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶は、居城としていた飯盛山城で病により死去しています。

天下人の、早すぎ悲しすぎる最後です。享年43歳でした。

三好家嫡流の断絶

三好長慶の死後、予定通り十河一存の子である三好義継が三好家を継いでいるのですが、若い三好義継が海千山千の三好長慶と同レベルの政治ができるはずもなく、三好家の運営は重臣である三好三人衆と松永久秀に補佐されて執り行われるようになります。

元々、三好長慶のみならず、弟たちとのネットワークにより造り上げられた政権であったのですが、軸となるカリスマを失った三好家は、かつての力を維持することができなくなり弱体化していきます。

そして、すぐに三好家家臣らが分裂し、三好三人衆と松永久秀の対立、それらを利用した織田信長の台頭などによって最後の鉄槌が下されます。

1573年11月16日、若江城の戦いに敗れた三好義継が自害し、三好家嫡流が断絶し、三好家の栄華が終わります。

三好長慶が天下人になってからあまりに早い、坂道を下り落ちるような没落でした。

余談(三好長慶の知名度が低い理由)

三好長慶は、最初の天下人といえるだけの実績を残しているにもかかわらず、三英傑と比べると知名度が突出して低いように思います。

戦犯は、江戸時代後期(1829年)に、頼山陽が書いた創作日本史「日本外史」です。

読みやすい日本史として当時大ベストセラーとなった日本外史が、事実と異なるにも関わらず、織田信長を褒め称える一方で、三好長慶を酷評してしまったため、江戸期・明治期の日本人に三好長慶が無能な武将であるとの評価を植え付けてしまい、それが現在まで続いてしまったことが誤りの原因です。

頼山陽は、三好長慶は、晩年ボケて松永久秀に下克上されたなどと事実と異なるとんでもないことを書いています・・

数々の武功を挙げているため荒くれ者のイメージがあるかもしてませんが、自分の父を死に追いやった細川晴元の存命を許すなど性格は温厚で、戦よりも話合いを好み、晩年は連歌や禅を好む風流人でもあったようです。

近年は研究が進んで、かつての誤った評価も正されつつありますし、徳島県三好市では、毎年11月に三好長慶まつり開催されるほどの人気を博しています。

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