足利義昭を奉じて上洛した後そのまま畿内を制圧した織田信長は、その後の勢力拡大を見据えて次の本拠地候補として石山本願寺がある大坂の地に目をつけます。
そして、織田信長は、石山本願寺の代表である本願寺顕如に対して、石山本願寺明け渡しを要求します。
もっとも、織田信長の要求は、本願寺顕如にとっては信仰の本拠地の引渡しですので、これに応じられるはずもありません。
怒った織田信長が、武力により目的達成を図ったため、ここから10年もの長きに亘る戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との決戦が始まります。
石山合戦です(当時の資料には石山という言葉は出てきませんので、正確に書くなら大坂本願寺というべきなのでしょうが、本稿ではわかりやすく石山と表記します。)。
【目次(タップ可)】
織田信長との確執
石山本願寺が築かれるまで
本願寺は、鎌倉時代の僧である親鸞が開いた浄土真宗が始まりです。
それまでの仏教は、修行を納めたもののみが成仏できるとする、いわゆる支配階層の宗教だったのですが、親鸞は「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで、誰でも成仏できる(極楽浄土へ行ける)という画期的な説を説き、またたく間に戦乱で苦しむ庶民の心をとらえます。
その後、浄土真宗は、いくつかの派閥に分かれますが、その内の1つである本願寺派が、「講」という小集団を作って団結し、地方の土豪・小領主を取り込んで一大勢力となっていきます。なお、浄土真宗全体が本願寺派という訳ではありませんので、注意が必要です。
この「講」が爆発し、その地方の領主に抵抗して立ち上がることを一向一揆といいました。
浄土真宗本願寺派の総本山は、元々京都の山科にあり、大坂の石山本願寺は、本願寺第8世法主蓮如が隠居先として選んだ場所で大坂御坊(石山御坊)と呼ばれていました。
ところが、蓮如の時代に、本願寺派が巨大化していくのを恐れた、時の管領・細川晴元が日蓮宗徒の法華一揆らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちしました(山科本願寺の戦い、天文の錯乱)。
これにより山科本願寺は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなったため、10世法主証如は、蓮如の隠居先として存在し、京都に近くまた交通の便の良い大坂御坊に堀や土塁・石垣などを設置するなどして城郭寺内町に大規模改修し、ここを新たな本願寺の本拠と定めて大坂本願寺(後に石山本願寺とも呼ばれます)と改称しました。
大坂本願寺は、大阪平野の中にある上町台地の北端に位置しており、その北部・東西が川と湿地帯に囲まれている天然の要害となっており、難攻不落の城といえる防御力を有していました(このことは、後にここに築かれた大坂城を滅ぼすため、徳川家康が大変な苦労をしたことからもわかります。)。
そして、石山に移った石山本願寺は、大名勢力の圧力によって山科本願寺を失ったことを教訓として、軍備増強を行い、一大勢力となります。
その結果、管領・細川晴元は、山科に続いて大坂本願寺にも度々攻撃をしかけましたが、全て跳ね除けられています。
また、大坂本願寺は、海・川・陸の交通の要衝であり、京や堺にも近い場所であったため、ここを押さえた石山本願寺には多額の資金が流入します。
力と金を手に入れた大坂本願寺の力を目にした時の権力者達が、石山本願寺との武力衝突を恐れ、同盟を結ぶなどして石山本願寺と協力関係を求めたため、本願寺の勢力・権力は年々増大し、11世法主の顕如の頃には、大名並の軍事力を有するまでに成長します。
石山本願寺と織田信長の対立のきっかけ
そんな中、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛を成功させたことをきっかけとして、織田信長と石山本願寺との切っても切れない関係が始まります。
織田信長は、上洛後、またたく間に畿内のほとんどを制圧したのですが、その際の軍資金を得る目的で、将軍家の名を使って堺や尼崎に矢銭を要求し(簡単に言うと、力にモノを言わせたカツアゲです。)、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこないました。
そして、織田信長は、石山本願寺にも、「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、顕如はしぶしぶこれを支払っています。
そればかりか、織田信長は、石山本願寺の立地の有用性を欲し、石山本願寺に対して、更なる要求を突き付けます。織田信長は、本願寺に対し、代替地と交換に石山本願寺からの退去を求めたのです。
石山本願寺が、京にほど近く、商都大阪という経済の中心地・交通の要衝地でもあるにもかかわらず、上の図を見たらわかるとおり北・東・西の三方を湿地帯に囲まれた台地の上に建っており事実上南以外からは攻め込まれることがないという要害でもあるという、軍事的・経済的・政治的な面からまさに理想的な立地だったからです。
もっとも、石山本願寺は、本願寺門徒の信仰の本拠地ですので、本願寺側がこのような要求を飲めるはずがありません。
他方、本願寺側も織田信長の巨大な軍事力を理解していますので、むげに拒絶すると攻め込まれる可能性もあり、織田信長の要求に対して究極の選択を迫られます。
そんな悩みに苛まれていた最中、本願寺顕如は、一旦は阿波国に追い払われた三好三人衆が畿内に戻って野田城・福島城を建築し、織田信長に宣戦布告したとの報を聞きます。
悩みぬいた本願寺顕如は、近衛前久の進言もあって、石山本願寺という信仰の地を守るため、三好三人衆と協力して織田信長と対立する道を選びます。
石山合戦の始まりです。
本願寺の第一次挙兵
顕如による檄文(1570年9月5日~)
第一次信長包囲網の最中の元亀元年(1570年)6月、畿内に君臨していた織田信長が、浅井長政・朝倉義景討伐(姉川の戦い)のため、兵を率いて近江に向かった隙を見て、同年7月21日、これを好機と見た三好三人衆が、阿波国から摂津国に再上陸して野田と福島に砦を築いて、これらを拠点に反織田の兵を挙げます。
もっとも、姉川の戦いを終えて岐阜城に戻った織田信長は、いそぎ軍備を整え、同年8月20日に岐阜城を出立して同年8月26日に摂津国天王寺に到着して本陣を置き、その後立て続けに三好三人衆に奪われた周辺諸城を奪還していきます。
そして、織田軍は、その勢いのまま野田城・福島城を取り囲んだのですが、このときの包囲が大坂本願寺を取り囲むような位置関係となります。
このときの織田軍の布陣に危険を感じた本願寺側では、「織田信長が本願寺を破却すると言ってきた」として、顕如の名で元亀元年(1570年)9月5日付で紀州惣門徒宛に大坂本願寺に集まるようにとの檄文が発行され、また同年9月6日には全国の門徒宛にも同様の檄文が送られます(本願寺史)。
この檄文により全国各地で一向宗門徒が蜂起し、同年9月14日には三好三人衆攻略のために陣を敷いていた織田軍を突如攻撃し始めました。
本願寺門徒の攻撃を受けた織田軍はもはや野田城・福島城攻めどころではなくなり、落城寸前となっていた野田城・福島城は息を吹き返します。
さらに、このとき、浅井・朝倉連合軍と延暦寺僧兵までもが同調して、琵琶湖西岸を南下し、南近江に侵攻してきます。
結局、周辺の本願寺門徒の攻撃と、浅井・朝倉連合軍の南近江攻撃により、野田城・福島城攻めを維持できなくなった織田軍は、同年9月23日、柴田勝家を殿に残して野田城・福島城の包囲を解き、南近江救援に向かいます。
こうして、野田城・福島城の戦いに続く、石山本願寺の第一次挙兵は、1ヵ月も経たずに織田信長の敗北に終わります。
伊勢長島一向一揆
(1)大坂本願寺と共に蜂起(1570年9月)
顕如から送られてきた檄文に応じ、元亀元年(1570年)9月、「長島」にて当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成らが本願寺門徒を率いて蜂起します。
また、これに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北「伊勢」の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し本願寺門徒に加担しました。
伊勢と長島で結集した反織田勢力は数万に及び、これらを統率するために石山本願寺から派遣された坊官の下間頼旦の指揮の下で長島城を攻略して支配下に置いて対織田戦の拠点とします。
このときの伊勢長島の反織田勢力は、長島城を拠点として織田方諸城の攻撃を開始し、同年11月21日には織田信興(織田信長の弟)が守る尾張国・小木江城を攻略してして織田信興を自害させます。また、勢いに乗る伊勢長島本願寺軍は、桑名城をも攻略して滝川一益を敗走させました(長島一向一揆)。
これに対して、畿内にいた織田信長は、志賀の陣に苦戦して軍を動かすことが出来なかったため、伊勢長島での反織田勢力に対処ができず、伊勢長島方面の織田方は徐々に窮地に陥っていきます。
(2)第一次伊勢長島侵攻(1571年5月12日)
その後、元亀元年(1570年)12月13日に朝廷と足利義昭の仲介によって長く苦しめられた志賀の陣が終了すると、織田信長は、一旦畿内に動員していた兵を本拠に戻して軍を整えます。
そして、元亀2年(1571年)5月12日、織田信長は、満を持して5万人の兵を動員し、反織田勢力の討伐のために伊勢長島に向かわせます。
織田信長は、動員した兵を3隊(本隊・佐久間信盛隊・柴田勝家隊)に分け、3方向から伊勢長島に侵攻させて周囲の村々に放火・殲滅しながら兵を進めていきます。
ところが、一向宗門徒は、各地に潜んで弓・鉄砲攻撃をもって織田軍を攻撃するというゲリラ戦法を繰り返し、これによって大軍で侵攻していた織田軍は大打撃を受けて撤退を強いられます。
このときの撤退戦では、殿を務めた氏家卜全が討ち死にするなどの大損害を被り、1回目の織田信長による伊勢長島侵攻は惨敗に終わります。
和議
以上のとおり、対織田信長のために蜂起した一向宗に苦しめられた織田信長は、この時点で全国各地の一向宗門徒を武力で屈服させることは困難であると判断し、織田信長と本願寺との間で和睦が成立します。
血で血で洗う争いをしていた織田信長と石山本願寺でしたが、このときの和睦により元亀3年(1572年)に織田信長が京に屋敷を建てた際に、本願寺顕如から万里江山の一軸と白天目の茶碗を贈呈されるなど、表面的な大人の関係は維持されていました。
怖い世界ですね。
本願寺の第二次挙兵
伊勢長島一向一揆蜂起(1573年)
前記のとおり、和議により表面上は維持されていた織田信長と本願寺との関係ですが、天正元年(1573年)に足利義昭が檄文を飛ばしたことにより浅井・朝倉・上杉・武田・毛利からなる織田信長包囲網が形成されると、本願寺もこれに参加して挙兵し、再び織田信長と再戦火を交えるようになります。
このとき、再び長島で一向宗が蜂起したため、織田信長が再度長島を攻めたのですが、このときもまたも攻略に失敗します。
越前一向一揆蜂起(1574年1月)
この二度目の一向宗門徒蜂起の際には、伊勢長島だけでなく、越前国でも同様の事態に陥ります。
具体的には、天正元年(1573年)8月に越前侵攻により朝倉義景を滅ぼし、越前侵攻で道案内をして功を挙げていた前波吉継を越前「守護代」に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させていたのですが、朝倉家の中において重臣でもなかった前波吉継が守護代となることには異論も多くかったため、特に富田長繁などがこれを敵視するようになっていました。そのため、富田長繁が、天正2年(1574年)1月に反前波吉継の土一揆を発生させて前波吉継を討ち取ったのですが、その後み一揆衆が富田長繁の下を離れて加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招いて自勢力の首領としたため、越前国の土一揆がそのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌したのです。
そして、七里頼周によって指揮された一揆勢は、富田長繁を討ち取った上で越前国中の城を攻略し、加賀国に続く「百姓の持ちたる国」となります。
こうして、織田信長は朝倉家を滅ぼして得た越前国を失うこととなったのですが、当時の織田信長は、対武田・長島一向一揆・石山本願寺などの敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することができませんでした。
伊勢長島一向一揆殲滅戦(1574年7月)
以上の経過を経て、一向一揆勢はは、石山・伊勢長島・越前の三面で織田信長と交戦していたのですが、織田信長は、これらの各個撃破に出ます。
まずは、伊勢長島からです。
織田信長は、先の戦いでゲリラ戦を受けて散々消耗したため、その反省を生かして直接戦闘を避け、天正2年(1574年)7月、8万人の兵を動員し、陸上・海上から一揆勢の篭る5つの城を包囲した上で、補給路を封鎖して兵糧攻めにしました。
5つの城の一揆勢のうち長島・屋長島・中江の3城に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、同年9月29日に降伏開城したのですが、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処しました。なお、このとき一揆勢は散々に抵抗したため、織田信長は、弟の織田信広を失うなど、少なからぬ損害を被っています。
そして、この時、織田信長は、残る屋長島・中江の2城については、柵で囲んで一揆勢を焼き殺しています。
こうして、織田信長は、散々手を焼かされた伊勢長島一向一揆の鎮圧に至りました。
越前一向一揆殲滅戦(1574年9月2日)
前記のとおり、越前国は一向一揆の支配する国となったのですが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照らが、重税を課しすなどして越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政をしなかったために、織田方の勢力を排除した後、坊官と民衆との関係が悪化していました。
そして、この坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きていました。
織田信長は、こうした越前一向衆内部の混乱に乗じて、天正3年(1575年)8月12日、越前国再攻略に向かいます。
なお、織田信長は、越前国攻撃を前にして、越前の在地領主宛に、上写真のような織田方に下る者には領地等を安堵するとの朱印状を発布しています(この朱印状自体は、宛先・野村三郎左衛門尉が後から修正されたものと言われていますが、同種の朱印状が多く出されているものの1つとされています。)。
その後、織田軍が越前国に到達したのですが、このときに内乱中であった一向宗はこれに対応できず、織田軍は連戦連勝となり、織田軍が瞬く間に越前国を制圧しています。なお、織田信長は、この後、さらに加賀の南部まで攻め込んでいます。
北陸をおおむね制圧した織田信長は、越前8郡75万石を柴田勝家に与えて「北ノ庄」城主にとし、越前府中10万石を前田利家・佐々成政・不破光治に与えて、府中三人衆として柴田勝家の補佐・監視役を担わせます。
また、大野3万石を金森長近に、2万石を原長頼に与え、柴田勝家を頂点とする織田家の北陸方面における支配体制が確立します。
和議
伊勢長島と越前を失った本願寺は、本願寺顕如が織田信長に対して自らの行為を侘び、さらに条書と誓紙を納める形で織田信長と再度和議を結びました。
しかし、このときの和議は、本願寺の第一次蜂起の際の和議とは異なり、織田信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利なものとなりました。
高屋城の戦い(1575年4月)
天正3年(1575年)4月、南河内国(現:大阪府羽曳野市)にあった高屋城の遊佐信教が、第二次信長包囲網で敗北した各勢力の敗走勢力を結集して蜂起し、阿波国の三好康長も呼び寄せて高屋城に立て籠ったのですが、このときに石山本願寺もあわせて挙兵します。
これに対し、同月4月12日、織田軍は、石山本願寺と高屋城とを両面攻撃し、4月17日には高屋城と石山本願寺を援助する新堀城を包囲しこれを落城させます。
新堀城落城を見た三好康長は、織田信長の側近であった松井友閑を仲介に降伏を申し出て、高屋城の戦いは終結します。
本願寺の第三次挙兵→石山本願寺陸上包囲戦
三津寺砦の戦い(1576年5月3日)
和議により一応の平穏を取り戻していた織田信長と石山本願寺ですが、天正4年(1576年)、毛利輝元に保護されていた足利義昭の呼びかけに応じて、石山本願寺がまたも蜂起します。
3回目の蜂起に堪忍の緒が切れた織田信長は、一向宗門徒の根絶を目指して動き出します。すなわち、このときの狙いは総本山石山本願寺そのものでした。
そこで、織田信長は、同年4月14日、石山本願寺の周囲に6つの砦を築いて石山本願寺を北・東・南の三方から陸上包囲を試みました。
なお、このとき明智光秀・細川藤孝軍が東南の守口・森河内に、荒木村重軍は海上から攻め寄せて北方の野田に、塙直政軍は南方から進んで天王寺に配置されます。
ところが、本願寺の北にある楼岸砦(現在の大阪市中央区)と南側にある木津砦(現在の大阪市浪速区)に阻まれて、織田方としては石山本願寺の補給路を遮断できませんでした。
そこで、織田信長は、本願寺を支援する城砦群から潰していくことにより補給路を断ち切ろうと考えます。
そして、まずは石山本願寺の近くの海沿いにある三津寺砦を目標とし、その奪取を大和、山城、和泉の3カ国から召集した1万人の兵を擁する塙直政に命じます。
塙直政は、天正4年(1576年)5月3日早朝、織田信長の命を受けて、明智光秀、佐久間信栄らに天王寺砦の留守を任せ、三好康長を先鋒として三津寺砦に対する攻撃を開始します。
これに対し、本願寺側も近接する楼岸砦から援軍を出し、大規模な戦闘に発展します。
このときの本願寺側の援軍として雑賀衆を中心とする数千の鉄砲隊があったため、鉄砲の一斉射撃により三好康長隊が崩れ逃走します。
本願寺側は、織田軍先鋒隊の三好康長隊が崩れたのを好機と見てこれを追撃し、そのまま塙直政の本陣に襲いかかります。
塙直政隊は、襲い来る本願寺軍を押し返そうと奮闘しましたが、力尽きて隊が崩壊し、総大将の塙直政も本願寺勢に取り囲まれて討ち取られます(雑賀衆の鈴木重秀の軍に討ち取られたといわれています。)。
また、このとき、塙直政と一緒に、塙直政の伯父の塙安弘、弟の小七郎など一族の武将の多くが討ち死にしています。
天王寺合戦(1576年5月7日)
塙直政を討ち取って勢いに乗る本願寺勢は、そのまま勝ち明智光秀らが守る天王寺砦にまで押し寄せて力攻めを行います。
この天王寺砦が石山本願寺を囲むために急遽築かれた急造の砦にすぎなかったため、防御力も防衛物資も不十分なものでした。
そのため、天王寺砦に籠る明智光秀らは、直ちに全滅の危機に直面します。
塙直政が討ち取られた翌日である天正4年(1576年)5月4日、京都にいた織田信長の下に塙直政討死と天王寺砦の危機の報が届けられます。
織田信長は、石山合戦の趨勢を左右する戦いであると判断し、直ちに諸国に触れを出して兵を募った上、自身は翌同年5月5日早朝、軍勢の集結を待たず100騎余りの共廻りのみを引き連れて京を出立します。
織田信長は、同日中に若江城に入り、後続の兵を待ったが翌日になっても集まったのは3000人程度でした。
ここで織田信長は、集まった3000人の兵を3つに分け、先鋒隊を佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆、次鋒隊を滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就、大将を織田信長として、同年5月7日、続けて天王寺砦を攻める本願寺勢に突撃していきます。
本願寺勢は、突撃してくる織田軍に一斉射撃を行ったため織田軍にも甚大な損害が出ます(織田信長自身も、足に銃弾を受けています。)。
もっとも、織田軍の再三の突撃により本願寺勢の陣形を崩すことができ、織田信長らはなんとか天王寺砦を攻める本願寺勢を本願寺内に押し戻すことに成功します。
石山本願寺海上封鎖戦
第一次木津川口合戦(1576年7月15日)
天王寺砦を奪還できず、陸路を完全に封鎖された本願寺は、物資・兵糧に困窮し、西の超大国毛利輝元に海路による西側からの援助を要請します。
毛利輝元は、石山本願寺の要請に応じて、天正4年(1576年)7月15日、兵糧・弾薬等を運搬する村上水軍を中心とする毛利水軍の船600艘を大坂に派遣します。
織田信長も、すぐにこれに対応し、配下の九鬼水軍など300余艘で木津川河口の封鎖を試みたため、木津川口河口にて、毛利水軍と織田水軍との海戦となります。
このときは、毛利水軍が、船数の違いと、村上水軍の小早舟の機動力と焙烙火矢・焙烙玉を駆使した戦法で織田水軍船をことごとく焼き払って大勝を納め(第一次木津川口海戦)、悠々と石山本願寺に兵糧・弾薬を届けています。
紀州征伐(1577年3月1日)
天正5年(1577年)2月2日、紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が織田信長へ内応しました。
そこで、織田信長は、これらの手引きを基に、本願寺に味方する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に侵攻します(紀州征伐)。
織田軍は、まず貝塚の雑賀衆を攻撃した後、佐野で自軍を信達で山手・浜手の二手に分けて紀伊に攻め入ります。
そして、同年3月1日、雑賀衆の頭目の1人で有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てました。
しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったため事態を憂慮した雑賀衆が同年3月2日に石山合戦で配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、織田信長はこれを受け入れて兵を引いています。
荒木村重の離反(1578年1月)
陸路・海路の封鎖による石山本願寺包囲を試みていた織田信長でしたが、天正6年(1578年)1月、摂津国を治めていた荒木村重が離反したことによりほころびが生じます。
石山本願寺の北西部に位置し、また毛利攻めを行う豊臣秀吉の背後に位置する地を失うこととなった織田信長は、戦略の転換を強いられます。
そこで、織田信長は、荒木村重が治める有岡城を取り囲み、約10ヶ月かけ、天正6年(1578年)11月19日これを攻略します(有岡城の戦い)。
第二次木津川口海戦(1578年11月6日)
第一次木津川口の戦いで惨敗した織田信長は、九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に、大砲を装備し、かつ鉄で覆われた燃えない黒船を建造するよう命じます。
九鬼嘉隆は、試行錯誤の末、超大型の船に大砲を積み、これを薄い鉄板で表面を覆った鉄甲船を作り上げます。
九鬼嘉隆は、鉄甲船6隻を従えて本拠地伊勢大湊を出発し大坂へ向かったのですが、途中で横槍を入れてきた雑賀衆の小早船を撃沈し、再度石山本願寺への海路封鎖を試みます。
これに対し、天正6年(1578年) 11月6日、毛利水軍は600余艘を繰り出して再び木津川河口に現れ、再び毛利水軍と織田水軍との戦いとなります。
このときもまた、毛利水軍は、小早舟と焙烙火矢・焙烙玉を用いた戦法をとりますが、織田水軍の鉄甲舟には焙烙による火が着かず、また船の大きさの違いから鉄甲船に乗り込んで制圧することもできません。
そして、織田水軍は、九鬼嘉隆の鉄甲船を、指揮官が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法を繰り返して毛利水軍を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功しています(第二次木津川口海戦)。
また、同年11月24日茨木城が開城し、また天正7年(1579年)11月には有岡城が陥落して荒木村重の反乱も鎮圧されます。
これらによって、石山本願寺は、陸路・海路のいずれの補給路をも喪失します。
本願寺明け渡し(1580年8月2日)
天正8年(1580年)閏3月7日、包囲されて補給路を失った石山本願寺は、とうとう朝廷を介した織田信長との講和に応じ、本願寺顕如ら門徒の石山本願寺退去などを約しました。なお、信長公記によると退去期限は7月20日であったとされています。
同年4月9日に、本願寺顕如は、石山本願寺を嫡子で新門跡である本寛治教如に引き継いで、紀伊鷺森御坊に退去しました。
ところが、雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、織田信長に抵抗を続けるべきと本願寺教如に具申したところ、本願寺教如もこれに同調し、本願寺顕如が石山を去った後も本願寺教如が石山本願寺を占拠し続けました。
もっとも、その後の情勢悪化や近衛前久の説得により、本願寺教如もこれ以上の抵抗は不可能と判断し、同年8月2日、石山本願寺を織田信長に引き渡して雑賀に退去し、10年間に亘って続いた石山合戦がようやく終わりを告げました。なお、このとき石山本願寺が出火し、石山本願寺が完全に消失しています。