【和田合戦】北条義時の挑発で挙兵し敗れた和田義盛の反乱

和田合戦(わだがっせん)は、建暦3年(1213年)5月2日に和田義盛が北条義時打倒を掲げて起こした反乱です。

直接の引き金は直前に起こった泉親衡の乱だったのですが、それまでの北条家の横暴に耐え兼ねた和田義盛が爆発したというのが本当のところです。

合戦では、当初は和田軍が有利に進んでいたのですが、北条義時・大江広元の策略や、主家にあたる三浦義村の裏切り行為などによって敗れ、最終的には和田義盛の討死と、和田一族の事実上の滅亡という結果に終わっています。

また、この合戦の勝利により、北条義時の執権体制がより強固なものとなり、独裁への道を進んでいくこととなります。

和田合戦に至る経緯

源頼朝に重用される

和田義盛は、鎌倉に接した三浦半島一帯を拠点とする相模国の有力豪族であった三浦一族に属し、旗揚げ当初から源頼朝につき従った最古参の御家人でした。

そのため、源頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府成立後には御家人の賞罰を司る侍所の初代別当に任命されるなど幕府内政治の最有力者となっていました。

また、一連の源平合戦の勲功などもあって建久6年(1195年)に左衛門尉(さえもんのじょう)に任官するなど、順調に出世レースを走っていました。なお、和田義盛任官当時はまだ北条時政は無官の時期であり、鎌倉幕府初期は和田義盛の方が北条時政よりも序列が上位であったと考えられます。

北条家一門の台頭

もっとも、源頼朝の死により、この力関係に変化が生じます。

源頼朝の死後、その嫡男であった源頼家が第2代鎌倉殿に就任したのですが、その直後から御家人間の勢力争いが続き、有力御家人であった梶原景時比企能員畠山重忠らが滅ぼされていき、それと反比例して北条家が力をつけていきます。なお、比企能員の変では源頼家から北条時政討伐の密命を受けながらもこれを北条時政に伝えており、このあたりでは北条時政と和田義盛には明確な序列がついていたものと考えられます。

また、建仁3年(1203年)には源頼家を第2代鎌倉殿から廃して源実朝を第3代鎌倉殿に据えると、その後見役となった北条時政が執権として鎌倉幕府の実権を握ります。

その後、正治2年(1200年)に北条時政が遠江守に任じられたのを皮切りに、元久元年(1204年)に北条義時が相模守、承元4年(1210年)に北条時房が武蔵守に任じられるなど、北条一門が急成長を遂げていきます。

これらの北条一門が任官した国司職は従五位下であったために諸大夫という中流貴族にあたったのですが、和田義盛が任官していた左衛門尉は六位相当の官職であったため和田義盛の序列は北条一門の下に位置付けられます。

上総介への任官推挙申出拒否(1209年)

北条時政だけでなく北条一門衆の下に位置付けれられたことにプライドを傷つけられた和田義盛は、承元3年(1209年)、源実朝に対して国司相当である上総介への任官推挙を求めます。

源実朝は、和田義盛の希望に応じる方向で朝廷への働きかけをしようとしたのですが、ここで北条家からの横やりが入ります。

具体的には、北条政子が、源頼朝時代以降、御家人が国司に任官されなくなったと主張して和田義盛の希望を握りつぶしたのです(北条一門が国司任官しているため明らかに事実と異なる主張なのですが、北条家は源氏一門扱いであり一般御家人とは異なるとの主張を前提としていました。)。

こうして、鎌倉幕府内で北条一門による専横が進む一方で、和田義盛を含めてこれに反発する御家人も出てきます。

泉親衡の乱(1213年3月)

この北条家の独裁的政治に対しては反発意見も多く、信濃国小県郡小泉荘(現長野県上田市)を本拠としたと言われる泉親衡もその1人でした。

泉親衡は、源満仲の五弟であった源満快の曾孫である信濃守源為公の後裔と伝えられ、源氏一門の血筋から一御家人である北条義時の下風に立つことを好まなかったと言われています。

もっとも、この北条義時討伐計画(泉親衡の乱)は事前に北条義時に漏れてしまい失敗に終わります。

そして、このとき明らかになった北条義時討伐計画に賛同した武士は130人余り・その余の者を含めると賛同者は200人にも上るというものだったのですが、その中には、和田義直(和田義盛の子)、和田義重(和田義盛の子)、甥の和田胤長(和田義盛の甥)、臼井十郎(上総広常の甥)、八田三郎(八田知家の子)といった有力御家人まで含まれていることが明らかとなり、すぐさま関与者が捕縛されます。

泉親衡の乱が勃発した際、自領である上総国伊北荘にいた和田義盛は、一族からこの乱に加担した者がいると聞きつけて急ぎ鎌倉に出仕し、建暦3年(1213年)3月8日に一族の赦免を嘆願したところ、和田義直(和田義盛の子)と和田義重(和田義盛の子)は放免とされました。

もっとも、和田胤長(和田義盛の甥)は事件の首謀者であるとして許されなかったため、和田義盛は、同年3月9日、再び一族98人を引き連れて御所南庭に列座し、和田胤長の赦免を嘆願しました。

ところが、北条義時は、これに対しても、和田胤長を放免できないと述べ、和田一族の面前で和田胤長を縄で縛りあげた姿を引き立て、預かり人の二階堂行村に下げ渡しました。

和田一族の嘆願を拒絶した北条義時の決断は、一族の長として和田氏を率いる和田義盛や、その郎党たちにとって大きな屈辱を与えます。

その後、和田胤長は、同年3月17日に陸奥国岩瀬郡へ配流処分と決まります。

こうして罪人となった和田胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、同年3月25日、和田義盛が罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるという慣例に基づいて第3代鎌倉殿であった源実朝に払い下げを願い出て許されたため、和田義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置きます。

ところが、同年4月2日、北条義時が、金窪行親・安東忠家に対して、泉親衡の乱平定の論功行賞として旧胤長屋敷を与えると決め、和田義盛の代官であった久野谷彌次郎を屋敷から追い出してしまいます。

重ね重ねの北条義時の挑発に我慢できなくなった和田義盛は、和田一族・縁戚であった横山党・波多野氏・本家筋にあたる三浦義村などと協議の上、北条義時討伐のための挙兵を決断します。なお、このとき三浦義村は、事が起こった場合には和田義盛に加担するという起請文を書き、大蔵御所北門を封鎖して源実朝・北条義時を確保する旨の役割を請け負いました。

和田義盛が挙兵を決意

もっとも、和田義盛の挙兵に対しては、一族内に反対の声があり、建暦3年(1213年) 4月、和田朝盛(和田義盛の孫)が主君に弓を向けられないとして剃髪出家して京都へ出奔する事件にまで発展します。

このとき、密事が漏れることを恐れた和田義盛が、和田義直に命じて和田朝盛を連れ戻させたのですが、これらの一連の騒ぎにより和田義盛挙兵の流言飛語が飛び交い、鎌倉は騒然となります。

そこで、同年4月27日、事態を憂慮した源実朝が、使者を派遣して和田義盛に真意を問い質しています。

和田合戦

合戦直前の状況

建保元年(1213年)5月2日、和田義盛の隣人であった八田知重が、大江広元に対して和田義盛の館に軍兵が集まっていると報告がなされます。

このとき酒宴の最中であった大江広元は、急ぎ大倉御所へ参じます。

続いて、三浦義村は、弟である三浦胤義と相談の上、和田義盛を裏切って北条義時方に与することを決断し、自宅にいた北条義時に対して和田義盛挙兵の報告を入れます(なお、このとき土壇場で一族の和田義盛を裏切った三浦義村は、後に「三浦の犬は友をも食らう」と、揶揄されています。)。

三浦義村から和田義盛挙兵の報を聞いた北条義時は、打っていた囲碁を終了し、烏帽子・装束を改めて大倉御所へ参上し、尼御台と御台(源実朝夫人)を鶴岡八幡宮へ避難させた上で大倉御所の警護を采配します。

大蔵御所襲撃(1213年5月2日)

建保元年(1213年)5月2日申の刻(16時)、和田義盛を総大将として和田一族が挙兵します。

和田一族率いる150騎は、南側から大倉御所に向かって進軍した後で3隊に分かれ、まず御所南門と北条義時邸・西門・北門を急襲しました。

その後、御所南門の道路を挟んだ南側にあった大江広元邸も襲撃し、御所南門と政所周辺で幕府軍と激しい戦闘になりました。

このとき、詰めている武士が少なかった北条義時邸と大江広元邸はすぐに陥落したのですが、北門を攻撃するはずだった三浦義村が北条義時方に寝返って北条朝時らとともにその守りについたこともあって大倉御所は頑強に抵抗します。

その後、和田義盛の三男・朝比奈義秀(あさひなよしひで)が、大倉御所南門を打ち破り、ついに和田軍が大倉御所南庭に乱入します。

御所南庭に乱入した和田義盛軍の朝比奈義秀は、防戦にあたった従兄弟の高井重茂をはじめとして、御家人の五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗らを次々に斬り伏せて大倉御所に火を放ちます。

なお、朝比奈義秀は、斬りかかってきた北条朝時(義時の子)に傷を負わせて撃退し、政所前の橋では足利義氏(北条義時の甥)とも戦っています。

南側から大倉御所が燃えていくのを見た源実朝は、北条義時や大江広元らに付き添われて三浦義村に守られた北門から大倉御所を脱出し、北側の丘の上にある源頼朝の墓所である法華堂に逃げこみます。

そして、この頃には日も暮れてしまったため、この時点で和田側優位に始まった和田合戦の1日目が終わります。

由比ヶ浜へ退却

大倉御所を焼き払った和田軍は、一旦由比ヶ浜へ退き夜を越すこととします。

そして、夜が明けた建保元年(1213年)5月3日寅の刻(4時)、由比ヶ浜に集結していた和田軍の元に横山時兼らが率いる横山党の3000余騎が加わりさらに状況が和田義盛方に傾きます。

そこで、和田軍は、援軍をも率いて若宮大路を北上し、再び大倉御所を目指します。

和田軍は、この日も朝比奈義秀を先頭とし、土屋義清・古郡保忠を率いて進んでいったのですが、途中で迎撃してきた小物資政などの鎌倉幕府軍を打ち倒し北上していきます。

和田義盛追討の御教書発給

ところで、ここで戦局を一変させる出来事が起こります。

同日辰の刻(8時)ころ、相模・伊豆の御家人たち(曾我・中村・二宮・河村など)が軍勢を引き連れて現れたのです。

このとき、相模・伊豆の御家人たちは、混乱する戦局にどちらに加担していいのかわからず混乱していたのですが、これを見た大江広元が、急ぎ、和田義盛が謀反を起こしたので討伐するようにとの源実朝の名と花押のある御教書(みぎょうしょ)を作成させ、使者を送って浜辺に到着した軍勢に示させたのです。

戦局が一変する

御教書の発給により、北条義時が源実朝を保護していることがわかり、到着した御家人たちが次々と北条義時方につくこととなり、これによって戦局が一変します。

鎌倉市街地で激戦を繰り広げていた朝比奈義秀・横山党でしたが、次第に損害と疲弊が積みあがっていき、同日巳の刻(10時)ころから次々と新手を繰り出してくる幕府軍に次第に押されていくようになります。

劣勢になった和田軍も、朝比奈義秀を先頭として激戦を繰り広げたのですが、日が暮れる頃に遂に力尽きて由比ヶ浜へ退却を開始します。

和田義盛討死(1213年5月3日)

鎌倉幕府軍は、撤退していく和田軍を追って由比ヶ浜へなだれ込んでいきます。

こうして、建保元年(1213年)5月3日酉の刻(18時)ころ、由比ヶ浜で鎌倉幕府軍と和田義盛軍との決戦となり、和田義直・和田義重らが討ち取られます。

子供が討ち死にしたことに力を落とした和田義盛は、声を挙げて男泣きし、戦う気力をなくしたところで江戸義範の郎党に討ち取られます。

そして、棟梁を失った和田一族は壊滅し、援軍に来た横山党も潰走して和田合戦が終わります。

なお、このときの由比ヶ浜の合戦地とされる場所に和田一族を弔ったとされる「和田塚」が建てられ、明治時代に道路工事のために掘り起こしたところ大量の人骨が発見されています(もっとも、これらの人骨はどの時代のものか明らかではなく、必ずしも和田合戦時のものであるとの証明はなされていません。)。

和田合戦の戦後

和田一族が事実上滅亡

和田合戦により和田一族のほとんどが戦死・処刑され、首級は固瀬川(境川)に梟されました。

なお、このとき梟された首は234にも及び、これにより和田一族はほぼ滅亡します。

他方、和田朝盛(和田義盛の孫)は京に逃れて承久の乱の際に宮方として戦ったとされ、また朝比奈義秀(和田義盛の三男)は戦場を脱出して和田朝盛の子である佐久間家盛と共に阿波国に逃れたと言われていますがその後の詳細は不明です。

北条義時独裁へ

この戦いの後、北条義時が山内荘・美作守護を、大江広元が武蔵国横山荘を与えられ、その経済的基盤も盤石なものとなります。

また、和田義盛が死去したことにより、和田義盛が就いていた侍所別当の地位を北条義時が引継ぎます。

この結果、北条義時が、従前から就任していた政所別当と侍所別当を兼任することとなり、事実上の鎌倉幕府の最高権力者に上り詰め、北条家による執権支配体制を確立させていきます。

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