久米田の戦い(くめだのたたかい)は、十河一存が死亡したことを好機と見た畠山高政が岸和田城を包囲するために出陣し、これに対応するために派遣された三好実休軍との間で、永禄5年(1562年)3月5日に発生した合戦です。
戦いは、和泉国八木郷の久米田寺周辺にある貝吹山古墳(現大阪府岸和田市)に布陣した三好実休軍に対して、畠山高政軍が攻撃をしかけたことによって始まり、畠山高政軍の奇襲により三好実休が討ち取られて三好軍が敗北するという形で終わっています。
三好政権を支える三好実休が死亡したことにより、三好長慶政権が凋落するきっかけとなった原因の一つともいわれる合戦でもあります。
本稿では、そんな三好政権の転換点となった久米田の戦いについて、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。
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久米田の戦いに至る経緯
十河一存死去(1561年3月18日)
最初の天下人として畿内一帯で隆盛を誇っていた三好長慶でしたが、永禄4年(1561年)3月18日、「鬼十河」と恐れられた弟・十河一存が死去したことにより、その勢いに陰りが出始めます。
十河一存は、永禄3年(1560年)ころから岸和田城主を任されて三好政権の南側の守りを担っていたのですが、その死は、岸和田城と隣接する河内国を治める畠山高政(このときは、前年の三好長慶との戦いに敗れて紀伊国に逃亡していました。)や、紀州の根来衆を勢い付けたからです。
六角義賢の蜂起(1561年5月)
このころ、三好長慶と前管領・細川晴元(三好長慶により京を追われていました。)との諍いが続いていたのですが、永禄4年(1561年)5月6日、室町幕府第13代将軍・足利義輝の勧めにより、三好長慶と細川晴元との和睦交渉が始まります。
三好長慶は、前管領に敬意を表して、使者として三好長逸、松永久秀を逢坂山に派遣して出迎え、細川晴元の8年ぶりの入京に協力します。
ところが、三好長慶は、細川晴元との対面の後、細川晴元とその子・細川昭元を普門寺城に幽閉してしまいます。
この三好長慶の暴挙に対し、南近江を治める六角義賢(六角義賢の妹が細川晴元の妻であったため)が激怒し、六角義賢は、対三好長慶の挙兵を準備します。
畠山高政と六角義賢の同時挙兵
そして、対三好長慶の意を示す六角義賢と畠山高政が連携し、三好長慶と対抗することとなりました。
まず、永禄4年(1561年)7月13日、畠山高政を総大将とし、これに安見宗房・遊佐信教・根来衆を加えた1万人の兵で岸和田古城(近世岸和田城ではなく二の丸付近にあった旧岸和田城)を取り囲みます。
また、同年7月28日、六角義賢が、永原重隆に2万人の兵を与えて、将軍地蔵山城に布陣させます。
この結果、飯盛山城にいた三好長慶は、北側(六角義賢)と南側(畠山高政)からの挟撃されることとなりました。
三好長慶は、六角軍への対応として、芥川山城城主・三好義興ら摂津衆7000人を梅津城・郡城へ、信貴山城城主・松永久秀ら大和衆7000人を京西院小泉城へそれぞれ入城させ、将軍地蔵山城の備えとします。
他方、畠山軍への対応として、高屋城城主・三好実休ら河内衆と、三好長逸・三好康長・三好宗渭・篠原長房ら淡路、阿波衆7000人を岸和田城救援に向かわせます(もっとも、畠山軍が岸和田城を囲んでいたために岸和田城には入れず、三好実休らは、同城から数町離れた貝吹山古墳に布陣しています。)。
将軍地蔵山の戦い(1561年11月24日)
こうして南北に2つの対陣が出来たのですが、先に動いたのは北側の陣(六角軍対三好義興・松永久秀軍)でした。
永禄4年(1561年)11月24日、六角義賢自ら陣頭に立ち将軍地蔵山城を出陣し、一旦、白川口にある神楽岡を占領したのですが、松永軍が直ちにこれを迎撃したために、六角軍が将軍地蔵山城に退却するという小競り合いが起こります。
もっとも、この戦いは大戦とはならず、以降も対陣が続きます。
久米田の戦い
久米田の戦い開戦(1562年3月5日)
その後も南北で対陣が続いたのですが、翌永禄5年(1561年)3月に、南側の陣(畠山軍対三好実休軍)で大きな動きが起こります。
岸和田城を囲む畠山軍をけん制するため、三好実休が貝吹山古墳(4世紀中ごろに築造されたと考えられる全長130mもの久米田古墳群最大の古墳)に本陣を置き、前衛・篠原長房隊、右翼・三好康長隊、左翼・三好宗渭隊、中堅・三好盛政隊の陣形で布陣していましたのですが、ここに、永禄5年(1562年)3月5日午ノ刻(午後0時)、魚鱗の陣を敷いた畠山軍が、第一陣・安見宗房隊、第二陣・遊佐信教隊、第三陣 湯川直光隊の布陣で、次々と春木川を渡河し(細川両家記)、三好実休の本陣である貝吹山古墳に向かって進軍してきたのです。
久米田の戦いの始まりです。
進軍してくる畠山軍に対し、三好軍から矢が放たれ、その後、畠山軍第一陣の安見宗房隊と、三好方の篠原長房隊との戦いが始まります。
その後、3時間ほどたつと、畠山軍第一陣の安見隊が崩れ始め、篠原長房隊がこれを押し込んでいくようになります。
勢いに乗る篠原長房隊は、続いて、畠山軍第二陣の遊佐信教隊を攻撃するため、前進していきます。
この結果、三好軍において、篠原長房隊だけが突出する形となります。
この隙を見て、畠山軍第三陣であった湯川直光隊が、春木川の上流に回り込んで篠原隊の背後に回り込む動きを見せます。
これに対し、三好軍では、先行する篠原長房隊を守るため、馬廻衆100騎兵を本陣に残し、その他の兵を一斉に前進させ勝負を決めにかかります。
三好実休討死
ところが、この三好実休の作戦が裏目に出ます。
永禄5年(1562年)3月5日申ノ刻(午後4時頃)、手薄となった本陣が、根来衆の奇襲を受けたのです。
いかに精兵とはいえ、たったの100騎では三好実休を守り切れません。
根来衆・鉄砲隊の攻撃を受けたため、三好実休は、残る兵を引き連れ根来衆へ向かって馬を駆けさせるも叶わず、その途中で討ち取られます。享年37歳でした。
また、残った馬廻衆30騎余りも敵陣に斬り込み全滅します。
なお、三好実休の死因については、「実休当千鉄炮死去、数白余討死、即敗軍」(足利李世紀)とあるので鉄砲によって討ち取られたと考えられているのですが、流矢や自害とする説もありますので、必ずしも明らかではありません。
久米田の退き口
総大将が討ち取られた三好軍は総崩れとなり、篠原長房隊・三好康長隊・三好宗渭隊・三好盛政隊は、追撃戦をかわしながら堺に向かって逃走を始め、そのまま堺から船を出して阿波国に逃げ帰ります(このときの堺への脱出劇はとても困難であったようで、その困難さから「久米田の退き口」とも言われています。)。
久米田の戦いの敗戦を聞いた安宅冬康は、岸和田城を捨てて淡路国へ逃亡します。
また、高屋城の守備兵は、畠山高政に城を明け渡して飯盛山城へ逃亡しました。
久米田の戦いの後
畠山高政の復権
これにより、畠山高政は、旧領である和泉国や南河内を取り戻し、かつての勢いを取り戻していきます。
2年ぶりに高屋城に入城した畠山高政は、数日間兵馬に休息を与えた後、永禄5年(1562年)3月中頃、三好長慶の居城・飯盛山城の包囲を開始します。
他方、四国方面に逃げ帰った三好方の武将たちは、その責めを免れるべく、ことごとく出家して入道名を名乗ります(篠原長房は紫雲、篠原実長は自遁、赤沢信濃守は宗伝、海部左近将監は宗寿、一宮成助は卜閑、大西元武は覚養、安宅冬康は宗繋、矢野国村は戒厳、新開忠之は道善など)。
ところが、ここで畠山高政に予想外の事態が生じます。
六角義賢入京(1562年3月7日)
久米田の戦いに大敗した三好方では、北側の戦線を維持できなくなり、三好・松永軍の陣を勝竜寺城まで下げます(13代将軍・足利義輝については、岩成友通を警護につけて石清水八幡宮に移しています。)。なお、六角義賢は、敗走する三好軍を追撃しようと考えたのですが、蒲生賢秀がその困難性を説いたために追撃戦をあきらめています。
いずれにせよ、京への道が開けた六角義賢は、永禄5年(1562年)3月7日、軍を京に進めて上洛を果たし、同年3月8日には徳政令を敷いて山城国を掌握します。
六角・三好の和睦(1562年6月2日)
問題となったのはこの後です。
山城国を占拠した六角義賢は、京を得て満足したのか、ここで三好長慶に対する攻撃を中止したのですが、この六角義賢の突然の行動停止によって畠山高政が苦境に立たされます。
六角義賢が侵攻を停止すると、和泉国と南河内を得た畠山高政は、四国と畿内に大勢力を有する三好長慶に挟撃される形となってしまうからです。
焦った畠山高政は、永禄5年(1562年)4月25日、六角義賢に対して三好長慶を攻撃するよう督促しますが、六角義賢はこれを黙殺します。
こうなると、畠山高政にはなす術がありません。
三好方の反撃
当然ですが、畠山高政軍だけで、一大勢力である三好長慶軍と戦えるはずがありません。
一旦四国方面に引いていた三好方は、永禄5年(1562年)5月10日、阿波国から三好康長・加地盛時・三好盛政・篠原長秀・矢野虎村らが尼崎に着陣し、これに三好義興・三好長逸・三好長虎・三好政生・松永久秀・松山重治・池田長正ら畿内勢が合流して畠山高政討伐に向かっていきます。
そして、三好軍は、同年5月20日、河内国教興寺(八尾市)に陣取る畠山方の紀伊国人・湯川直光と根来衆を打ち破って畠山軍を壊滅させ(教国寺の戦い)、久米田の戦い後に畠山高政に奪われた領土を取り戻します。
また、この直後、松永久秀が軍を率いて大和国に侵攻し、同年5月23日までに、反三好方の鷹山城・十市城・筒井城・吐田城・宝来城などを次々と陥落させて、大和国をその支配下に置きます。
さらに、その後、軍を京に向けて六角義賢に圧力をかけたところ、六角義賢軍単独で三好長慶軍と戦う力はありませんので、同年6月2日、六角義賢は、三好長慶と和睦して山城国を三好長慶に返却し、本拠地・観音寺城に撤退し、三好長慶に対する六角義賢と畠山高政の戦いは終わりを迎えます。