【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊

足利義昭を奉じて上洛し、圧倒的な軍事力で次々と周辺勢力を取り込んでいった織田信長ですが、第一信長包囲網の最終期に浅井長政・朝倉義景を追って比叡山延暦寺を取り囲んだ際(志賀の陣)、各地で反織田信長の挙兵が続発します。

室町幕府15代将軍である足利義昭は、この反織田信長勢力の勢いを見て、これに便乗して自らに対する織田信長の影響力を相対的に低下させようと画策します。

足利義昭は、元亀2年(1571年)ころ有力大名等に反織田信長の決起を求める御内書の宣下をし、これに呼応する形となる抵抗勢力と織田信長とのいたちごっこが始まります。

第二次信長包囲網各個撃破作戦

織田信長は、志賀の陣で苦しめられた伊勢長島一向一揆、比叡山延暦寺、浅井長政・朝倉義景、三好三人衆の各個撃破を試みます。

第一次伊勢長島侵攻【1571年5月12日】

織田信長が最初に目指したのは京と本拠地岐阜の導線確保です。

そのため、織田信長は、まず南近江攻略から始めます。

元亀元年(1570年)12月、朝倉・浅井と和睦して兵を引いた織田信長は、京と岐阜の導線を回復させることと、分散する信長包囲網を各個弱体化させることに力を費やしていく必要性に迫られます。

このとき、織田信長が最初に着手したのが、本拠地岐阜と畿内との導線の障害となる北近江の浅井長政と比叡山延暦寺に対する対策でした。

まず、織田軍にとっては岐阜と畿内の導線回復・信長包囲網側にとっては浅井・朝倉と三好三人衆との連絡網遮断のため、織田信長は、元亀2年(1571年)1月2日、横山城に入れていた木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路・陸路を封鎖させ、越前・北近江と畿内との連絡路を遮断します(尋憲記)。

その上で、織田信長は、同年2月、小谷城と遮断されて孤立していた佐和山城主であった磯野員昌が降伏させて立ち退かせ、代わりに同城に丹羽長秀を入れて織田方の岐阜城から湖岸平野への通行路を確保します。

琵琶湖東側の安全を確保した上で、次の攻撃目標としたのが、伊勢長島一向一揆でした。

元亀2年(1571年)5月12日、織田信長は、5万人の兵を動員し、これを3隊(織田信長本隊・佐久間信盛隊・柴田勝家隊)に分けて伊勢長島に侵攻します。

織田軍は、周囲の村々に放火・殲滅しながら兵を進めるものの、ゲリラ戦法による弓・鉄砲攻撃により大打撃を受けます。

不利を悟った織田軍は撤退を開始しますが、撤退戦に際して殿を務めた氏家卜全が討ち死にするなど、1回目の伊勢長島侵攻は織田信長の大惨敗に終わります。

比叡山焼き討ち【1571年9月12日】

伊勢長島への侵攻を一旦中断した織田信長は、次の目標を比叡山に定めます。

元亀2年(1571年)9月12日、織田信長は、志賀の陣の際に朝倉義景・浅井長政を匿うなどして敵対した比叡山延暦寺に攻め込んで焼き討ちにし、上人・僧侶・学僧から女子供に至るまでことごとく首を刎ねて根絶やしにしたと言われています。その数、1500人とも4000人とも言われています。

もっとも、この点について近年の研究では、比叡山延暦寺の施設の多くは、織田信長の焼き討ちにより焼失したものではなく、織田信長による焼き討ちの前から廃絶していた可能性が高いとも言われていますので、本当のところはよくわかっていません。

足利義昭との関係決裂【1572年10月】

1572年10月、織田信長は、足利義昭に対して、17条からなる詰問状を送り付け、織田信長と足利義昭との対立は決定的なものとなります。

そして、このとき、織田信長が恐れていたことが起こります。

甲斐の虎・武田信玄が動き出したのです。

武田信玄の西上作戦【1572年10月】

武田信玄は、北条氏康の死をきっかけとして北条家と和睦をして(甲相同盟の復活)東側の安全を確保し、元亀3年(1572年)10月、織田信長の本拠地・岐阜を目指して進軍を開始します。いわゆる西上作戦です。

武田信玄は、軍を3隊に分けて、東美濃ルート(対織田)・奥三河ルート及び遠江ルート(対徳川)の3隊同時侵攻を行い、この3隊のいずれもが破竹の勢いで侵攻していきます。

東美濃にあった織田方の岩村城は早々に武田方に落ちます。

また、奥三河・遠江ルートでの攻撃を受ける徳川家康は、織田信長に援軍を要請するも、畿内での対抗勢力と交戦中の織田信長に大軍を手配する余力はなく、佐久間信盛・平手汎秀らに兵3000人付けて差し向けるのが精一杯でした。

この武田信玄の侵攻に対して、徳川もまたなす術もなく蹂躙されていきました。

特に、徳川家康は、その前哨戦である一言坂の戦い二俣城の戦いに敗れた後、元亀4年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いので大惨敗を喫し、生涯最大の危機にまで瀕しています。

もっとも、ここで、織田・徳川連合軍に吉報が飛び込みます。

徳川領に進行中だった武田信玄が、元亀4年(1573年)4月、体調悪化により本拠地・甲斐へ引き返し、そしてその帰途で病死したのです。

そして、この武田信玄の死をきっかけとして第二次信長包囲網が急速に勢力を失います。

反織田信長勢力の活性化とその末路

室町幕府滅亡【1573年7月】

元亀4年(1573年)2月、足利義昭は、武田信玄が動き出したこと、また三方ヶ原の戦いで武田軍が徳川軍を破ったとの報を聞き、反織田信長勢力が織田信長勢力を上回ったと判断し、それまでの織田信長に協力するという路線を放棄して、反織田信長の立場を鮮明にした上で、石山と今堅田に砦を築いて京への侵入経路を防衛しつつ二条城に籠って挙兵します。

この足利義昭挙兵の報は、細川藤孝によって直ちに織田信長に伝えられ、多面作戦を強いられている織田信長は、一旦足利義昭に講和を申し出ます。

ところが、元亀4年(1573年)3月、優位に立っていると考える足利義昭はこれを拒否します。

そこで、織田信長は、石山虎・今堅田砦を相次いで攻略した上でルートを確保し、そのまま京都に軍を進め、足利義昭が籠る二条城(現在の二条城ではありません。)を取り囲みます。

もっとも、将軍殺しの汚名を嫌った織田信長は、二条城に攻め込まず、正親町天皇に働きかけて、勅命により、同年4月5日、足利義昭を二条城から退去させるとの内容で講和を結びます。

そして、足利義昭を京から追い出した織田信長は、足利義昭を京に戻さないようにするため、二条城を徹底的に破却します。

京を追われた足利義昭は、元亀4年(1573年)7月3日、足利義昭は、宇治の槇島城に籠って再度挙兵します(なお、足利義昭は、このとき武田信玄が死亡した事実を知らなかったと考えられています。)。

織田信長は、同年7月18日、槇島城に攻め込みこれこれを陥落させます。

足利義昭は嫡男足利義尋を人質に差し出し織田信長に投降し、河内国・若江城に追放され、これをもって室町幕府は滅亡しました。

そして、織田信長は、この10日後の1573年7月28日、室町幕府滅亡を世に知らしめるため元号を元亀から天正に改元させています。

三好三人衆壊滅【1573年8月2日】

織田信長は、槇島城攻めの際、別働隊として豊臣秀吉を派遣しており、天正元年(1573年)8月2日、織田信長は、淀古城に立て籠る三好三人衆の岩成友通を討ち取ります(第二次淀古城の戦い)。

そして、同月、三好長逸と三好政康が逃亡し(三好三人衆の1人である三好宗渭は、1569年に阿波国で病死しています。)、三好三人衆は、壊滅します。

朝倉家滅亡【1573年8月20日】・浅井家滅亡【1573年9月1日】

金ヶ崎の退き口から始まった織田信長と浅井長政・朝倉義景との因縁は、志賀の陣を経て、両者ともに本拠地に戻った後、陣取り合戦の形で戦いが具体化します。

元亀2年(1571年)2月、織田信長は、浅井長政の重臣である磯野員昌を調略して佐和山城を手に入れて南近江の安全を確保すると、同年3月には北近江に出陣し、浅井長政の居城小谷城に対する付け城を築いてこれを包囲します。

これにより、浅井長政の南進が困難となり、織田信長の本拠地岐阜と、京都の連絡網が安全化します。

そして、元亀2年(1572年)7月、織田信長は北近江に再び出陣して虎御前山砦を築き、小谷城の監視を強めます。

その後、朝倉義景の家臣前波吉継、富田長繁が織田軍に下り、また同年10月に浅井長政の家臣宮部継潤が織田信長に下るも、織田信長は、武田信玄の西上作戦への備えもあって、浅井・朝倉に対して積極的な対応を取れず、戦線は膠着します。

その後、武田信玄死去の報を聞いた織田信長は、いよいよ浅井・朝倉攻略に本腰をいれます。

天正元年(1573年)8月、琵琶湖西側にある田中城が織田信長に下ります。

また、同年8月8日、琵琶湖東側側にある山本城を守る阿閉貞征が織田信長に下ったため、浅井長政は、居城である小谷城より南を全て失う結果となりました。

小谷城を狙える準備が整った織田信長は、一旦横山城にて軍勢を整えた上で、小谷城を包囲します。

このとき、越前から朝倉義景軍2万人が、浅井長政の援軍として現れたのですが、織田信長は、小谷城に篭る浅井長政を一旦捨て置き、援軍に来た朝倉義景の殲滅を狙い、まず朝倉軍が小谷城付近に築いた砦を攻略します。

それを見た朝倉軍は、織田軍と一戦交えることなく、浅井長政を見捨てて、越前への撤退を開始します。

そして、朝倉軍の退去を目にした小谷城からも、逃亡する兵が続出します。

織田信長は、撤退する朝倉義景を後方から追撃します。

退去中で士気の落ちている朝倉軍は、後方から織田軍の攻撃を受けて混乱し壊滅します。

織田軍は、そのままの勢いで越前に向かって侵攻していきます。

朝倉義景は、わずかな供回に連れられて何とか一乗谷まで帰還しますが、兵数の乏しい一乗谷では守りきれないと判断し、一族の朝倉景鏡が守る東側の大野城を目指したものの、天正元年(1573年)8月20日、途中で朝倉景鏡の裏切りにあって自害して果てます。

そして、朝倉景鏡が、朝倉義景の首を土産に織田信長に降伏したため、ここに11代(戦国5代)続いた越前朝倉氏は滅亡します。

越前を攻略した織田信長は、直ちに軍を南下させて近江に戻り、小谷城攻めを再開します。なお、朝倉家滅亡の報により兵の逃亡があとを絶たず、この時点では小谷城を守る兵は当初の半分以下の2000人程度となっていました。

そして、豊臣秀吉の奇襲によって城の中央部にある曲輪が奪われた小谷城は南北に分断されてその防御力を発揮できなくなり、織田信長軍の総攻撃を受け落城し、天正元年(1573年)9月1日、浅井長政が自害して北近江国・浅井氏も滅亡します(小谷城の戦い)。

なお、織田信長は、浅井・朝倉を滅ぼした後の天正元年(1573年)9月に二度目の伊勢長島攻めを敢行していますが、またも門徒側の待ち伏せにあい、失敗に終わっています。

三好本家滅亡【1573年11月10日】

京を追放され、槇島城の戦いでも敗れた足利義昭は、妹婿である三好義継(義昭の妹婿)を頼って若江城に落ち延びて来ます。

足利義昭を受け入れた三好義継は、次第に義兄に当たる足利義昭に同調し、織田信長に敵対するする動きを見せはじめます。なお、三好義継が織田信長に対して敵対する動きを見せたのは、織田信長が、三好義継と同盟関係にあった比叡山延暦寺焼き討ちをしたこともその理由の1つとも言われています。

このとき、足利義昭に同調して信長に反抗的な姿勢を見せる三好義継に対して、家老の多羅尾常陸介(多羅尾右近)・池田教正・野間長前(野間佐吉)ら若江三人衆らは織田信長の実力を恐れて織田信長に誼を通じ、三好義継にも織田信長への従属を勧めていた。

ところが、三好義継は、この忠告に耳をかさず、そればかりか、若江三人衆を遠ざけ、寵臣する金山駿河守武春を家老に取り立てるなどして反織田信長の姿勢を固めます。

また、これと併せて、三好義継の家臣筋である松永久秀も挙兵します。

織田信長は、三好義継の態度を見て、三好義継討伐を決定します。

三好方は、足利義昭を旗印として掲げて、諸大名と協力して織田信長と対峙しようと考えますが、天正元年(1573年)11月5日、肝心の足利義昭が近臣のみを連れて若江城から和泉国・に逃亡します。

天正元年(1573年)11月10日、織田方の佐久間信盛率いる大軍が若江城に攻めてきます(若江城の戦い)。

このとき、三好義継は籠城して迎え撃つこととしたのですが、主家が滅ぼされることを恐れた若江三人衆が離反して金山駿河守を殺害し、佐久間信盛軍勢を城門に引き入れました。

これにより三好方は総崩れとなり、三好義継は、同年11月16日に近臣の那須久右衛門家富に介錯させて自害します。もっとも、信長公記によれば、妻子を刺殺した後城の外へ繰り出して、多くの敵を倒した後、腹を十文字に割いて果てたとされており、真偽の程は不明です。

松永久秀の1度目の降伏【1573年12月】

松永久秀は、永禄13年(1572年)には、長年の敵であったはずの三好三人衆と手を組み、織田信長に反旗を翻します。

また、松永久秀は、三好義継が兵を挙げた際には、これに呼応して、行動を共にしていたのですが、三好義継死亡後には、織田信長が松永久秀が守る大和国・多聞城を取り囲んで、降伏勧告をし、これに応じた松永久秀は、再度織田信長の軍門に下ります。なお、松永久秀は、このとき治めていた大和国の大半と居城である多聞城を召し上げられています。

この松永久秀の降伏により、一旦織田信長を取り囲んだ勢力の討伐を終え、第二次信長包囲網は瓦解します。

この後、追放された足利義昭が、毛利を頼って逃亡し、第三次信長包囲網が構築されるのですが、長くなりますので、別稿に委ねます。

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