鳥取城の飢え殺し(とっとりじょうのかつえころし)と言われる凄惨な兵糧攻めをご存知ですか。
攻城戦の名人として名高い豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)の城攻めの中でも1、2を争う残酷な戦いです。
綺麗事ではいかない戦争の怖さが集約された戦いとも言えます。
本稿では、地獄絵図となった第2次鳥取城の戦いについて見て行きましょう。 “【第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)】カニバリズムに至った豊臣秀吉の兵糧攻め” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
鳥取城の飢え殺し(とっとりじょうのかつえころし)と言われる凄惨な兵糧攻めをご存知ですか。
攻城戦の名人として名高い豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)の城攻めの中でも1、2を争う残酷な戦いです。
綺麗事ではいかない戦争の怖さが集約された戦いとも言えます。
本稿では、地獄絵図となった第2次鳥取城の戦いについて見て行きましょう。 “【第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)】カニバリズムに至った豊臣秀吉の兵糧攻め” の続きを読む

室町幕府が滅亡することとなった戦いをご存知ですか。
室町幕府最後の将軍足利義昭は、元亀4年(1573年)に2回も織田信長と戦い、遂に敗れて室町幕府が滅亡します。
この室町幕府滅亡に至った最後の戦いが槇島城の戦いです。
槇島城の遺構がほとんど残っていないこと、市街地がから離れているため土地勘が薄い人が多いこと、近くにあった巨椋池が埋め立てられて当時とは地形が異なっていることなどから、室町幕府という一大勢力がなくなった戦いであるにもかかわらず知名度が低く、マイナーすぎる評価を受けています。
本稿では、そんな歴史の闇に埋もれてしまいそうな大戦、槇島城の戦いについて簡単に見ていきましょう。 “【槇島城の戦い】足利義昭が追放され室町幕府が滅亡した戦い” の続きを読む
信濃国内で諏訪盆地・伊那盆地北部を獲得した武田信玄は、次に佐久盆地獲得を目指します。
主たる攻略対象は、大井貞清が治める内山城と笠原清繁が治める志賀城です。
なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。
“【武田信玄の佐久盆地侵攻】若き武田信玄の信濃侵攻作戦第3段となる佐久郡攻略戦” の続きを読む
東に北条、南に今川という超大国がある甲斐国・武田家としては、領土を拡大するためには北西の信濃国に向かうほかはありません。
この点、信濃国は山地で平野部が遮られているために超大国が成立することはなく、伊那・諏訪・佐久・善光寺平・上田・松本という6つの盆地に国人衆が群雄割拠している状態でした。
そこで、武田信玄は、これらの小勢力を各個撃破していけば国力の増強が図れると考え、本拠地である甲斐国に近い場所から順に攻略作戦を展開していきます。
天文11年(1542年)9月に信濃国・諏訪郡を攻略した武田信玄は、続いて伊那獲得を目指すのですが、伊那盆地への侵攻は諏訪盆地から行うこととなりますので、まず攻略対象となるのは伊那郡北部(上伊那)となり、具体的には藤沢頼親が治める福与城と高遠頼継が治める高遠城に決まります。
なお、本稿がどの段階の話であるかについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。
“【武田信玄の伊那盆地侵攻】諏訪攻略後の北伊那攻略戦” の続きを読む

戦国最強で名高い武田信玄は、52年の生涯の中で自ら指揮をとって敗れた戦が2回あります。
この2回はいずれも北信濃の雄・村上義清に敗れているのですが、生涯で2回しか負けていない理由は、この2回の敗戦により武田信玄を反省し、その都度兵法を変えていったからです。
このうち、特に武田信玄に大きな影響を与えたのが2回目の敗北である砥石崩れです。
砥石崩れによる敗戦とその後の砥石城攻略が武田信玄を負けない武将に育てあげたのです。
以下、武田最強伝説を作ったともいえる砥石崩れとそれが武田信玄に及ぼした影響についてみていきましょう。 “【砥石崩れ】武田信玄の戦の概念を一変させた2度目の大敗北” の続きを読む

塩尻峠の戦いをご存知ですか。
塩尻峠の戦いは、上田原の戦いの大敗で信濃国衆の信頼を失って信濃侵攻作戦を中座させられた武田軍が、負けイメージを払拭して武田軍健在を印象付けて信濃侵攻作戦が再開できるようになった極めて重要な意味を有する一戦です。
以下、塩尻峠の戦いに至る経緯と、塩尻峠の戦いの経過について見ていきましょう。 “【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦” の続きを読む

クーデターを成功させて武田家当主となった武田信玄は、父・武田信虎の政治によって荒れた甲斐国の内政を整えた後、本格的に信濃国への侵攻を開始します。
その後、武田信玄は、破竹の勢いで信濃国南部を制圧したのですが、その面前に北信濃の猛将・村上義清が立ちはだかります。
そして、ここで、家督相続以来連戦連勝であった武田信玄に初めて土がつきます。天文17年(1548年)2月14日に起こった上田原の戦いです。
この戦いでは、板垣信方、甘利虎泰という当時の甲斐武田家の絶対的2大看板を一度に失うという大敗北喫します。
本稿では、この上田原の戦いについて、その発生経緯から順に解説します。 “【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北” の続きを読む

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年(1569年)1月4日、三好三人衆が、京の本圀寺に宿泊していた室町幕府第15代将軍・足利義昭を襲撃した大事件です。
発生した場所から六条合戦とも言われます。
三好長慶死後に勃発した三好家の内紛を利用して上洛した織田信長・足利義昭によって京を追われた三好三人衆が、織田信長が本拠地・岐阜に戻ったことにより警備が手薄となった隙を狙い、将軍暗殺と畿内復帰を試みるために起こった事件です。
殺害寸前まで追い込まれた足利義昭を幕府奉公衆などが必死に守ったことで失敗に終わった事件なのですが、それまで幕府足軽衆の1人として埋もれていた明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなった戦いとしても有名です。 “【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件” の続きを読む

永禄11年(1568年)9月28日に足利義昭を奉じて入京した織田信長は、足利義昭を京市内に送り出した後、自らは軍を南下させて畿内の抵抗勢力の排除を始めます。
このとき畿内を実質支配していたのは三好家だったのですが、三好家中で三好三人衆と松永久秀とが主導権争いをして争っていたため、織田信長は、その争いに乗じて三好家が治める諸城への侵攻を開始します。
ここで最初のターゲットとなったのが、織田信長が入っていた東福寺に最も近い勝竜寺城だったのです。 “【勝竜寺城の戦い】足利義昭を奉じて上洛した織田信長の畿内掃討第一戦” の続きを読む

尾張国と美濃国とを手に入れて勢いに乗る織田信長は、天下統一に向けて動き出します。
足利義昭という絶好の神輿を手にして迎えた上洛作戦の初戦は、南近江を治める六角氏です。
本稿では、この天下統一戦の始まりとなる、南近江攻略戦(観音寺城の戦い・箕作城の戦い)について見ていきます。 “【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦” の続きを読む