【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟

石川家成(いしかわいえなり)は、徳川家康の従兄弟の立場として幼少期からこれを支えた古参家臣です。

甥にあたる石川数正の陰に隠れてマイナー扱いをされていますが、実は、今川家から独立した頃の徳川家康の家臣団の中では、最高位に位置したといえる人物です。

三河国を平定した後に徳川家康が行った軍制改革では、西三河旗頭に任命されて徳川軍の3分の1を指揮する権限を持っていました。

また、徳川家康が遠江国を平定すると、その後の今川・武田との戦いの最前線となる掛川城を任されるほどの絶大な信頼を得ていました。

本稿では、石川数正の陰に隠れた名将・石川家成の生涯について振り返っていきたいと思います。 “【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟” の続きを読む

【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男

結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康が正室であった築山殿の侍女にお手付きをして生まれた武将です。

徳川家康の嫡男であった松平信康の生後16年も経ってから生まれた男子(次男)ですので大歓迎で迎えられてしかるべきだったのですが、その出生を正室の築山殿が承認しなかったために徳川家康に認知されることなく家臣の下で育てられます。

その後も、徳川家康から自身の子として扱われることなく、小牧長久手の戦い後には、宿敵ともいえる豊臣秀吉の下に養子(人質)として差し出されてしまいます。

ところが、養父となった豊臣秀吉からも、老いて生まれた実子・鶴松に対する禍根を残さないようにするためとの理由で、今度は結城家に養子に出されてしまいます。

この結果、母の身分の低さと他家に養子に出されたという経緯から徳川家康の後継者となることはできなかったのですが、自らの才覚で越前国をもらい受けるなどの活躍を果たしたのですが、34歳の若さで病没するという悲運に見舞われています。 “【結城秀康】江戸幕府第2代将軍になれなかった徳川家康の次男” の続きを読む

【お万の方(長勝院)】築山殿から疎まれた結城秀康の生母

お万の方(おまんのかた、長勝院)は、徳川家康のお手つきによって結城秀康を産んだ女性です。

徳川家康にお手つきをされたのが、正室の築山殿の女中時代であったために築山殿から疎まれ酷い扱いを受けた人物でもあります。

築山殿から疎まれたために、お万の方のみならず、その子である結城秀康もまた徳川家康の後継ぎから外されるという結果にまで至っています。

本稿では、そんな悲運の女性・お万の方の人生を振り返っていきたいと思います。 “【お万の方(長勝院)】築山殿から疎まれた結城秀康の生母” の続きを読む

【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将

鳥居元忠(とりいもとただ)は、人質時代から徳川家康に付き従った古参家臣です。

数々の武功を挙げて徳川家康の天下取りに尽力した武将なのですが、何より関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで西軍の足止めをするために玉砕したことで有名です。

本稿では、この武勲から三河武士の鑑とまで言われた鳥居元忠の生涯を振り返って行きたいと思います。 “【鳥居元忠】三河武士の鑑と言われた徳川十六神将” の続きを読む

【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将

夏目広次(なつめひろつぐ)は、古くから安祥松平家(後の徳川家)に仕える譜代衆です。

「寛政重修諸家譜」の記載から一般的には「夏目吉信」の名で知られているのですが、一時資料ではその名乗りは確認されていないため本稿では文書上記された「夏目広次」の名で統一して紹介します。

夏目広次は、三河一向一揆の際に徳川家康から離反して一揆方に与するも、後に許されて徳川家臣団に復帰します。

そのため、夏目広次は、以降はこの恩に報いるために徳川家康への忠義を貫き、三方ヶ原の戦いの際には徳川家康の身代わりとなって壮絶な討ち死にを果たしています。 “【夏目広次(夏目吉信)】徳川家康の身代わりとなって三方ヶ原で討死した武将” の続きを読む

【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣

平岩親吉(ひらいわちかよし)は、人質時代から徳川家康に付き従った最古参譜代家臣の1人であり、江戸幕府開幕の功労者である徳川十六神将の1人にも数えられる忠臣です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍して激しい戦いを繰り広げたのに加え、その清廉潔白な人柄から、徳川家康の嫡男・松平信康の傅役、九男・徳川義直の後見人にそれぞれ任じられています。 “【平岩親吉】人柄を見込まれて松平信康の傅役となった譜代家臣” の続きを読む

【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将

大久保忠世(おおくぼただよ)は、安祥城を本拠としていた時代から松平家に支えたいわゆる安祥譜代7家の1家に生まれた徳川家康を幼い頃から支えた古参家臣の1人です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍し、激しい戦いを繰り広げた武田家との最前線となる二俣城を任され、徳川家康が関東に移封された後には、関東への東海道からの出入口となる小田原を任されるほどの強い信頼を得ており、後世には徳川十六神将の1人に数えられる徳川家康臣下の猛将です。 “【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将” の続きを読む

【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀

本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の参謀であり、江戸幕府の開幕の功労者です。

若い頃には三河一向一揆に参加して徳川家康に敵対し、その後は徳川家を出奔して全国を放浪した後に帰参を許されるという変わった経歴を持っています。

本多正信は、この放浪経歴に裏付けられた経験と人脈を駆使し、武断派の多い徳川家臣団の中で、数少ない官僚型家臣として徳川家康を支え、徳川家康・徳川秀忠という2代に亘る将軍の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るいました。

また、何を考えているかわからない狸親父と言われる徳川家康から、友と言われるほどの信頼を勝ち得た数少ない人物でもあります。 “【本多正信】徳川家康に信頼され友と呼ばれた参謀” の続きを読む

【渡辺守綱】徳川十六神将に数えられるもう1人の半蔵(槍の半蔵)

渡辺守綱(わたなべもりつな)は、安祥松平家に仕える古参の家に生まれ、槍働きで徳川家康の天下統一を支えた猛将です。

人質時代から徳川家康に付き従い、三河一向一揆の際に一旦は袂を分かったものの再び徳川家康の下に帰参し、徳川家の主たる戦いのほとんどに参戦して武功を挙げ続け、服部半蔵と並び称されるにまでに至ります。

晩年は、その経験を買われて尾張藩付家老とされ、三河国寺部城主に入って徳川義直を支えました。

後世には、徳川十六神将の一人にも挙げられています。 “【渡辺守綱】徳川十六神将に数えられるもう1人の半蔵(槍の半蔵)” の続きを読む

【榊原康政】豊臣秀吉に10万石の懸賞金を懸けられた徳川四天王

榊原康政(さかきばらやすまさ)は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる、徳川家康の側近中の側近です。

戦いで抜群の戦功を挙げているのみならず、大樹寺修業時代に学んだ幅広い知識・教養を用いて内政・外政でも大活躍をしており、文武両道の武将と言えます。

陪臣の立場から自らの才覚で立身出世を遂げ、徳川家康の主要な戦いにほとんど従軍してなんどもその危機を救い、遂には10万石という大領を与えられて上野国館林藩の初代藩主ともなっています。 “【榊原康政】豊臣秀吉に10万石の懸賞金を懸けられた徳川四天王” の続きを読む