【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について

問注所(もんちゅうじょ)は、鎌倉を拠点として東国武士団を取りまとめて鎌倉幕府を開いた源頼朝が設置した訴訟事務所管機関です。

歴史の教科書に出てきますので名前を聞いたことはあるかと思うのですが詳しい説明がなされることはなかったのではないでしょうか。

元々東国武士団の集合体でしかなかった鎌倉幕府の前身を統治するために造られた小さな建物がその始まりだったたのですが、自らの土地の権利を維持するために命をかける集団である東国武士の集合体である鎌倉幕府ではこの土地紛争の解決がその要となったことから、それを裁く問注所は極めて重要な機関として発展していきます。

本稿では、ほぼ名前しか知られていないと思われる問注所について、その歴史的沿革から見ていきたいと思います。 “【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について” の続きを読む

【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて

鎌倉幕府が、その初期に源氏将軍が終わりを迎えた後、執権・北条義時による事実上の独裁政権となったことは有名です。

もっとも、ここでいう執権とは本来は、鎌倉幕府内の機関の1つであった政所の長官である別当の別称に過ぎず、最高権力者を意味する名称ではありません。

それにもかかわらず、北条義時=執権=独裁者のイメージがあるのはなぜなのでしょうか。

本稿では、執権政治についてその成立の過程から、得宗家に権力が流れて名目化していくまでについて簡単に説明していきたいと思います。 “【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて” の続きを読む

【六波羅探題の設置】朝廷が力を失うきっかけとなった鎌倉幕府の軍事基地設立

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、承久の乱の後、朝廷を監視するために置かれた鎌倉幕府の出先機関です。

朝廷を監視するための機関と言っても、実際には朝廷を威圧して意のままに動かすために設置された機関ですので実際の機能は鎌倉幕府の軍事基地です。

この六波羅探題の設置により、それまでの朝廷と鎌倉幕府という二元政治体制が終わりを迎えて真の武家政権が成立していますので、本稿ではそこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【六波羅探題の設置】朝廷が力を失うきっかけとなった鎌倉幕府の軍事基地設立” の続きを読む

【泉親衡の乱】北条義時打倒を目指した和田合戦の前哨戦

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、鎌倉時代初期に鎌倉の実権を握った北条義時の打倒を目指して信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿丸(三男・栄実)を鎌倉殿に擁立しようとして起こした反乱です。

もっとも、反乱自体は軍事的蜂起に至る前の建暦3年(1213年)2月15日に発覚し、首謀者が逃亡・捕縛されたため実行に至ることはありませんでした。

この泉親衡の乱が特筆すべきなのは、当時の鎌倉幕府の有力御家人であった和田義盛の一族が泉親衡に加担しており、その処分を巡って和田合戦の引き金となったことにあります。

本稿では、この和田合戦の前哨戦ともいえる泉親衡の乱について、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【泉親衡の乱】北条義時打倒を目指した和田合戦の前哨戦” の続きを読む

【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転

現在の日本の首都・東京の礎を築いたのは徳川家康です。

元々、三河国に生まれ人質時代を経て独立し織田信長に与して5カ国(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国)を治める大大名にまで上り詰めた徳川家康でしたが、豊臣秀吉の命令によりこれらが没収され、代わりに関八州を与えられて江戸に入ります。

その後、江戸周辺において数多の巨大工事を繰り返し、現在の大東京の基礎を築き上げていったのでした。

本稿では、そんな今日の大東京が出来上がるきっかけとなった徳川家康の関東移封について見ていきたいと思います。 “【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転” の続きを読む

【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子

源頼家は、初代鎌倉殿であった父・源頼朝から地位の承継(鎌倉殿・征夷大将軍)を受け、若くして源氏の棟梁となります。

ところが、源頼家が鎌倉殿の地位を承継した後、有力御家人による権力争いが絡んですったもんだの大騒動が繰り広げられます。

その中で、源頼家自身とその子供たち(四男一女)が、御家人の思惑を受けて次々と粛清されていきます。

そして、鎌倉幕府の成立後50年を持たずして、源頼家の直系子孫(源頼朝の直系子孫も同じ)は断絶してしまいます。

本稿では、この源頼家の直系子孫断絶に至る経緯について説明していきたいと思います。 “【源頼家の子供達の最期】北条家によって次々粛清された鎌倉殿の子” の続きを読む

【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで

江戸幕府を創設した徳川家康は、その人生において数々の苦難に見舞われています。

三河一揆・三方原の戦い・神君伊賀越えなど数えればキリがありません。

その他にも3歳で生母と離され、6歳で人質に出され、挙句の果てに政争の駒としてたらい回しにされるなど、人生のスタートから悲惨です。

本稿では、そんな徳川家康(竹千代・松平元信・松平元康時代)の人生のスタートであった、人質時代について、そこに至る経緯から人質を脱して独立するに至るまでを紹介したいと思います。 “【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで” の続きを読む

【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領

毛利元就によって巨大化したものの、関ヶ原の戦いの責によって長門国・周防国に押し込められて立藩したのが毛利宗家が藩主を務める長州藩です。

明治維新の立役者となった藩として有名ですが、この長州藩には、3つ?4つ?の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩、岩国領)があります。

本稿では、長州藩の支藩の概略について、立藩の経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領” の続きを読む

羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか

日本全国統一戦を進めていた織田信長が明智光秀の謀反によって横死した本能寺の変は、その後の中国大返しと山崎の戦いの勝利によって羽柴秀吉が天下人の階段を駆け上がっていくきっかけとなった歴史を変える一大事件でした。

もっとも、本能寺の変が起こった際、羽柴秀吉は毛利家の城であった備中高松城の水攻めを行っている最中であり、本能寺の変の詳細を知るべき状況下にはなかったはずです。

このような状況下において運命を手繰り寄せた羽柴秀吉は、どのようにして本能寺の変発生の事実を正確に獲得したのでしょうか。

本稿では、羽柴秀吉が本能寺の変発生を知るに至った経緯について説明していきたいと思います。 “羽柴秀吉は本能寺の変をいつ・どうやって知ったのか” の続きを読む

【源頼朝の征夷大将軍就任】権威があれば何でも良かった初代鎌倉殿の肩書

日本の歴史上、武家政権の長としての官職・肩書は征夷大将軍であるとの認識が一般的です。

室町幕府でも江戸幕府でもこの認識は変わりません。

もっとも、初期の鎌倉幕府では違います。鎌倉幕府の長の肩書は、「鎌倉殿」であり、征夷大将軍ではありません。

征夷大将軍とは、律令制の令外官として存在した「夷」を「征」服する「大将軍」をいうため、東北遠征軍の軍事指揮官に過ぎず武家政権や幕府の長などという意味はないからです。

後に征夷大将軍が武家政権の長の代名詞となったのは、鎌倉幕府の初代トップ(鎌倉殿)であった源頼朝が就任しその力を絶対化させたからです。

本稿では、源頼朝が、後に武家政権の長の代名詞となった征夷大将軍に就任するに至った経緯とその意味について説明していきたいと思います。 “【源頼朝の征夷大将軍就任】権威があれば何でも良かった初代鎌倉殿の肩書” の続きを読む