【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊

足利義昭を奉じて上洛し、圧倒的な軍事力で次々と周辺勢力を取り込んでいった織田信長ですが、第一信長包囲網の最終期に浅井長政・朝倉義景を追って比叡山延暦寺を取り囲んだ際(志賀の陣)、各地で反織田信長の挙兵が続発します。

室町幕府15代将軍である足利義昭は、この反織田信長勢力の勢いを見て、これに便乗して自らに対する織田信長の影響力を相対的に低下させようと画策します。

足利義昭は、元亀2年(1571年)ころ有力大名等に反織田信長の決起を求める御内書の宣下をし、これに呼応する形となる抵抗勢力と織田信長とのいたちごっこが始まります。 “【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊” の続きを読む

【第一次信長包囲網】織田信長の畿内制圧と包囲網形成の経緯

織田信長は、足利義昭を奉じて上洛して畿内の実権を握った後、抵抗勢力との果てしない戦いを繰り広げることとなります。

本稿では、信長の上洛と、その後の第一次信長包囲網に至るまでの経緯について簡単に紹介したいと思います。 “【第一次信長包囲網】織田信長の畿内制圧と包囲網形成の経緯” の続きを読む

【方広寺鐘銘事件】豊臣家滅亡のきっかけは徳川家康の言いがかりか?豊臣秀頼の落ち度か?

方広寺銘鐘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、方広寺の鐘に記された銘文に徳川家康が激怒し、その後の大坂の陣・豊臣家滅亡の切っ掛けとなったとされる事件です。

この鐘は現存しているため、見たことがある方も多いのではないでしょうか。少なくとも、誰もが学校の教科書で一度は目にしていると思われます。

本稿では、歴史を変えた方広寺銘鐘事件(読み方:ほうこうじしょうめいじけん)について、そのあらすじを簡単に説明したいと思います。

なお、方広寺という寺号は、江戸時代中期以降に自然発生的にそのように称されるようになって定着したものであり、江戸時代初期までにその寺号はないことから、「方広寺鐘銘事件」は「京都大仏鐘銘事件」といわれることもあります

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