【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史

鎌倉は、初めての武士政権である鎌倉幕府の本拠地となった場所です。

あまりにも有名な場所であるため昔から発展していた場所のようなイメージを持ちがちですが、平安時代以前の鎌倉は、都であった京から430kmも離れたど田舎であり、お世辞にも発展しているとは言い難い場所でした。

もっとも、源頼朝が鎌倉に入った後、源頼朝によって三方を山・一方を海で囲まれた防衛拠点としての基礎が築かれ、その後北条泰時によって陸上・海上交通が整えられ、さらに北条時頼によって禅宗寺院を出城として配置することで武士の都として完成を迎えます。

本稿では、この武士の都・鎌倉の発展の経緯について、順に説明していきたいと思います。

鎌倉開発前史

鎌倉が源氏の都となるきっかけは、同地が元々清和源氏から派生した河内源氏の拠点となっていたところ、奥州に出向いて前九年の役に勝利した源頼義が鎌倉に戻った際に戦勝のお礼として鎌倉由比ヶ浜に石清水八幡宮を勧請して源氏の氏神として祀ったことです。

前九年の役後に清原氏が奥羽を実質支配することとなったのですが、今度は清原氏にて内紛が勃発したため、源頼義の嫡男であった源義家が関東諸将を率いてこれに参戦し勝利を納めます。

もっとも、後三年の役を鎮めた源義家に対し、朝廷がこれを源義家の私戦と評価して論功をせず、戦費の支払いまでも拒否します。

恩賞はおろかかかった費用すら捻出できずに困った源義家でしたが、そんな中で、自らに従った関東諸将に対しては私財から恩賞を出しその功に報います。

これにより関東における源氏の名声が一気に高まって関東諸将の中から河内源氏の家人となる武士が現れ、また河内源氏の一部(上野国新田氏・下野国足利氏・常陸国佐竹氏など)が北関東にも土着を始めたことなどから、河内源氏の嫡流が武士の第一人者である「武家の棟梁」とみなされるようになりました。

源頼朝期以降の鎌倉開発(基礎造営)

源頼朝の鎌倉入り(1180年10月6日)

その後、平家の隆盛に押されて一旦は没落していた河内源氏でしたが、復興の機会が訪れます。

治承4年(1180年)8月17日に後白河法皇の第二皇子である以仁王の令旨に呼応して平家追討のために伊豆国・韮山で挙兵した源頼朝が、同年8月23日平氏方の大庭景親と戦って敗れ安房国に落ち延びたものの(石橋山の戦い)、同年8月29日に安房国に上陸した上で関東武士を吸収しながら下総国を経て、同年10月6日に旧来の河内源氏本拠地であった鎌倉に入ったのです。

鶴岡八幡宮移転(1180年10月12日)

鎌倉に入った源頼朝は、同地を一旦の本拠地と定め、幼い頃に都で暮らしていたこともあり、平安京を参考にして鎌倉を切り拓いて武士の都にふさわしいよう改修を進めます。

そして、まずは、治承4年(1180年)10月12日、由比ヶ浜に鎮座していた5代前の源頼義が創建した由比郷鶴岡の由比若宮(現在の材木座の元八幡)を、現在地である小林郷北山(鎌倉の中央部の六浦道沿い)に移して「鶴岡八幡宮新宮若宮(鶴岡八幡宮)」として鎌倉の中心地とします。

源頼朝が鎌倉を本拠地に定める

その後、同年10月20日に富士川の戦いで平家方に勝利した源頼朝は、その勢いで京に逃げ帰る平家を追って京へ向かうことを考えます。

ところが、このとき源頼朝の下に集っていた千葉常胤三浦義澄上総広常らから、東国の平定なしに西国に進軍するのは適切ではないと諌められます。

東国武士団の主目的が、平家打倒ではなく自らの所領統治権の確保だったからです。

この主張に対し、この時点ではまだ力を持っていない源頼朝に東国の有力武将達を抑える力はなく、源頼朝は京を目指すことはできず東国に止まるという決断を強いられることとなってしまいました。

源頼朝にとっては忸怩たる決断であったかもしれませんが、軍事的才能に乏しい源頼朝にとっては、結果的にはこれが最良の選択であったかもしれません。

いずれにせよ、東国を磐石なものとしてから平家打倒を目指すこととした源頼朝は、東国を平定するための拠点として、かつて父である源義朝も本拠地とした天然の要害である鎌倉(北・東・西を小さな丘陵に囲まれ、かつ南を海で守られた天然の要害)を本拠地とする選択し、京に向かうことなく東に戻っていきました。

大倉御所建設(1180年~)

鎌倉に戻った源頼朝は、本格的な鎌倉開発を進めていき、まずは鶴岡八幡宮近くの六浦道沿東側の大倉郷に源頼朝の政治と生活の本拠である大倉御所を構えます。なお、源頼朝は、当初は源氏家父祖伝来の地であり父・源義朝の旧邸もあった亀ヶ谷(現在寿福寺がある辺り)に御所を構えようとしたのですが、同地に岡崎義実が堂宇を建てて源義朝の菩提を弔っていたこと、土地が狭かったために規模的に不足であると判断されたことなどから同地を諦め、大倉郷を選択したという経緯となっています。

そして、この大倉幕府(鎌倉幕府)内で関東武士団をまとめ上げていく作業に取り掛かり、必要に応じて同地内に侍所(1180年設置)・公文所(1184年設置)・問注所(1184年設置)などの機関を順次設置していきます。

これらの大規模都市開発により、周囲に源頼朝が鎌倉(東国)の主であることを印象付けられます。

なお、この当時は武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家からは「関東」、武士からは「鎌倉殿」、一般からは「武家」と称されていました。

また、「吾妻鏡」において征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、幕府とは将軍の陣所・居館を指す概念であり、鎌倉殿の御所があったためにそれが後に幕府と呼ばれるようになったのです。

有力御家人の邸宅配置

源頼朝が大倉御所に入って政務を始めると、大倉御所が政庁となりますので、有力御家人達もまた源頼朝を補佐して権力を行使するため、東国各地の支配地を出て鎌倉に邸宅を構えて移り住むようになります。

この結果、鎌倉の地が東国の有力御家人が集う東国武士団の権力中枢となります。

なお、鎌倉という狭い場所に有力御家人が密集した結果、その後に血で血を洗う権力闘争が始まるのですが、本稿のテーマではないので紹介だけにとどめておきます。

若宮大路の敷設(1182年)

また、源頼朝は、寿永元年(1182年)、妻の北条政子が後の源頼家を懐妊した際、御家人に命じて、安産を祈って「産道」と「参道」をかけてそれまで曲がりくねっていた鶴岡八幡宮の参道を整備し、京の朱雀大路を模した由比ヶ浜に向かう真っ直ぐな若宮大路を敷設します。

若宮大路の中央には一段高くなった道路である段葛が設置され(現存しているのは、三の鳥居から二の鳥居までの500mのみです。)、また道路幅は鶴岡八幡宮に近づくほど道幅が狭くなる構造となっており、遠近法によって実際の距離より長く見せる仕掛けがなされています。

将軍御所を宇都宮厨子に移転(1226年)

貞応3年(1224年)に実質的な鎌倉幕府のトップとして君臨してきた人物である北条義時が亡くなったことにより鎌倉幕府の実質的トップが不在となったところ、次の執権となった北条泰時は、源氏一門から権力を簒奪し、御家人合議制を是とする執権政治への政治形態変更を思考します。

そして、北条泰時は、嘉禄元年(1225年)7月11日に北条政子が亡くなったことをきっかけとして、同年12月20日、次期鎌倉殿である三寅を鶴岡八幡宮の南側にあった北条得宗家の近隣に移し、新たに同地を鎌倉幕府の政庁に定めます。

なお、北条泰時は、嘉禄元年(1225年)12月29日に8歳の三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、鎌倉殿就任の準備を整えます。

そして、藤原頼経の元服により征夷大将軍任命がほぼ決まりましたので、北条泰時は、予め藤原頼経の権限を制限させておくために、このタイミングで宇都宮辻子幕府内に評定衆を置いて人事・政策の決定、法整備、訴訟の採決を独占させることを決定させておきました。

将軍御所を若宮大路に移転(1236年)

その後、嘉禎2年(1236年)、第4代鎌倉殿・藤原頼経が疱瘡をわずらったのですが、このときに宇都宮辻子幕府のある土地の呪いであるとまことしやかにささやかれたため、宇都宮辻子幕府が破却されて、執権・北条家の屋敷の南側に若宮大路幕府が建てられ、そこを鎌倉殿の御所とすることとなりました。

北条泰時期以降の鎌倉開発(物流の整備)

陸上交通路の開拓(~1240年頃)

源頼朝により開発されて東国武士団の権力中枢となった鎌倉ですが、その範囲が決して広いとは言えない上、東西北の三方を山・南側を海で囲まれるために拡張性がありません。

この点、鎌倉の人口が少なかった時代はまだよかったのですが、鎌倉が発展して人口が増加して来ると、それらを賄うだけの生活物資が必要となるのですが、外部から山越えをしてこれらを運ぶには手間とコストがかかりすぎ大きな問題となっていきました。

そこで、山と海に囲まれているという防衛上の利点を維持しつつ、人や物資の行き来を容易にするための導線を整える必要がありました。

この生活導線の整備に動いたのが北条泰時であり、北条泰時は、承久3年(1221年)に起こった承久の乱を鎮圧した後、朝廷の動きを監視するために六波羅探題として京に残ったのですが、そこで京の町を観察して都市計画の知識を獲得し、これを鎌倉の都市整備に反映していきます。

北条泰時は、山と山の間にある稜線を切り開いて出入口を造り、そこに道を繋いで陸路で鎌倉に入ることができるように改造します。

このとき切り開かれた出入口は、山を切って道を通すという意味で「切通(きりどおし)」と呼ばれました。

そして、新たに築かれた切通のうち、主要な7つを特に、「鎌倉七切通」または「鎌倉七口」などと呼んでいます。

なお、陸上交通のための物流革命をもたらした鎌倉切通ですが、他方で、これを設けることにより三方を山で囲まれているという武家の都にとって重要な軍事上のメリットが失われます。

そこで、鎌倉幕府としては、切通の幅を狭く造って防衛上の効果をできる限り失わせないように配慮すると共に、その周辺に有力御家人の邸宅を配してできる限り迅速に外部からの攻撃に対応できるように工夫されることとなりました。

① 名越切通

名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ数少ない陸路であった名越路(戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でもありました)に設けられた出入口です。

切り開かれた時期は不明ですが、道として地名が登場するのは、吾妻鏡・天福元年(1233年)8月18日条に「名越坂」の記述がありますので、少なくともこのとき以前に開かれていたものと考えられています。

「名越」の名称は、道が峻険であったために難越(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われています。

② 朝夷奈切通

朝夷奈切通は、鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ道路である六浦道(むつらどう、現在の金沢街道)に設けられた出入口です。六浦道の出入口であるために六浦口とも呼ばれます。

この朝夷奈切通は、鎌倉にとって極めて重要な出入口でした。

なぜなら、貞永元年(1232年)8月に人工島である和賀江島が完成するまでは、鎌倉に貿易港が存在していなかったため、鎌倉に搬入される物資は六浦(鎌倉の外港として機能)で荷揚げされ、その後六浦道を通って鎌倉に運び込まれていたからです。

また、和賀江島が完成した後も六浦からは大量の物資が搬入されてきましたので、六浦道が鎌倉への物資搬入の生命線であり、鎌倉防衛の最重要ルート(鎌倉東側防衛の拠点)となっていました。

なお、「朝夷奈切通」という名称については、和田義盛の三男である朝夷奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説から名付けられたとも言われています。

もっとも、朝夷奈義秀は、建暦3年(1213年)5月の和田合戦で消息不明となっているのに対し、「吾妻鏡」では朝夷奈切通は仁治元年(1240年)に造営が決定され、その翌年に北条泰時が監督して工事したと記されているため、その真偽は不明です。

③ 巨福呂坂

巨福呂坂(小袋坂)は、鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下と山之内(現在のJR北鎌倉駅付近)を結ぶ道路に設けられた出入口です。

北条泰時の命により仁治年間に開かれたと考えられているのですが、異説もあり正確なところは不明です。

④ 亀ヶ谷坂

亀ヶ谷坂は、鎌倉と武蔵国とを結ぶ道路に設けられた出入口であり、現在の神奈川県鎌倉市山ノ内から扇ガ谷を結ぶ坂道をいいます。

現在も急な坂道なのですが、当時は更なる急坂であり、あまりの角度から亀も引き返したりひっくり返ったりするという意味で亀返坂とも呼ばれます。

北条泰時の命により仁治年間に開かれたと考えられているのですが、異説もあり正確なところは不明です。

⑤ 化粧坂(仮粧坂)

化粧坂(仮粧坂とも)は、武蔵国の国府(現在の府中市・国分寺市)から上野国へ向かう鎌倉街道上道の出入口であり、現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷から源氏山公園を結ぶ坂道です。なお、鎌倉時代初期には武蔵国の東の方へ向かう鎌倉街道中道・下道も通っていた可能性もあります。

「化粧」の名称は、平家の大将の首を化粧し首実検したから、この辺に遊女がいたから、険しい坂が変じた、坂の上で商取引が盛んであったことにちなんだ(気和飛坂)、木が多いので木生え坂と呼んだなど様々な説がありますが、真相は不明です。

⑥ 大仏切通

大仏切通は、鎌倉市北部と武蔵国とを結ぶ道路に設けられた出入口であり、現在の神奈川県鎌倉市長谷と常盤・深沢地域を結ぶ切通しです。

仁治年間(1240年代)に整備されたと考えられているのですが、記録がないために正確な工事時期は不明であり(大仏切通の史料上の初出は江戸時代初期)、発掘調査ではかわらけ(素焼きの小皿)の小片が出土した以外には見るべきものが見られていないことから鎌倉期に存在したことの証明がなされていません。

⑦ 極楽寺坂切通

極楽寺坂切通は、鎌倉七口の中で最も西南に位置した、坂ノ下から極楽寺・七里ガ浜・片瀬方面へ抜ける道となっており、鎌倉と京都をも結ぶ道でもあった道路に設けられた出入口でした。

「極楽寺坂」の名称は、極楽寺の開山忍性によって切り開かれた極楽寺の門前まで続く坂道(極楽寺坂)によるものとされ、それが正しければ、同切通しは、忍性が入寺した文永4年(1267年)から死没した乾元2年(1303年)までの間に開かれたこととなります。

もっとも、吾妻鏡には極楽寺坂切通の名は見られず、京と鎌倉を結ぶ連絡路としては海岸沿いの稲村路が使われていたと考えられています。

⑧ 他の切通し

鎌倉には、以上の鎌倉七切通の他にもいくつかの切通しが存在しています。

海上交通路の開拓(1232年8月)

鎌倉への物資搬入は前記のような切通し整備による陸上交通網だけでは不十分でした(人馬と船では積載量が大きく違うからです)。

この点、鎌倉の南側は海に面していたのですが、由比ヶ浜近辺は遠浅の海となっていたため、大きな船が接岸して物資を搬入するような海路として利用することができませんでした。

そこで、勧進聖の往阿弥が、貞永元年(1232年)、鎌倉幕府に対して相模湾東岸の飯島岬の先に人工島を建築して同島に港湾施設を築いて荷揚地とする提案をし、建設の許可を願い出ます。

執権北条泰時は、この申し出の有用性を高く評価し、すぐさまこれを許可した上で、自身の家臣である尾藤景綱・平盛綱・諏訪盛重らに協力を命じます。

そして、同年7月15日から人工島建設工事が進められ、同年8月9日、伊豆石を積み上げただけの簡単なものであったものの和賀江島として完成します。

和賀江島の完成により、鎌倉にも大きな船が接岸できる港が出来上がり、海路物流による物流変革が起こります

北条時頼期以降の鎌倉開発(禅寺の整備)

鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教(鎌倉仏教)が興ったことにより、仏教がそれまでの皇族・貴族の特権的文化でなくなります。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループ(念仏・信心系)と、自力本願を是とするグループ(禅宗系)という2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

武士勢力がエリート層(支配層)となった鎌倉時代、自らの力で権力を勝ち取っていった鎌倉武士にとっては、一般庶民向けの他力本願(念仏・信心系)ではなく、自らの修行によって悟りを開く様式である禅であるが好まれたため、臨済宗が鎌倉幕府からの庇護を受け、各地に臨済宗(禅宗)寺院が建立・保護されていきました。

そして、この寺院保護制度は、鎌倉幕府による臨済宗寺院格付をして(上位より、五山・十刹・諸山・林下)その保護を図ると共に、それらの寺院を鎌倉幕府の統制下に置くために序列化されました(日本における五山制度の始まり)。

このとき鎌倉幕府によって五山とされたのは、順位は不明ですが、鎌倉の①浄智寺・②建長寺・③円覚寺・④寿福寺、京の⑤建仁寺(鎌倉幕府2代将軍源頼家開基)の5寺でした。

その後、正安元年(1299年)に鎌倉幕府執権北条貞時が、浄智寺を「五山」の1つとするように命じたため、浄智寺・建長寺・円覚寺・寿福寺の4寺に浄妙寺を加えた禅宗の5寺院が鎌倉五山と呼ばれるようになりました。

そして、この鎌倉五山は、寺院として信仰の対象となっただけでなく、その防衛構造などから出城として鎌倉防衛の一端を担うこととなりました。

以下、この鎌倉五山について簡単に説明します。

①  建長寺(鎌倉五山の1位)

建長寺は、建長5年(1253年)、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼を開基とし、南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)の開山(初代住職)により創建された禅宗寺院です。

建長寺は、幕府のある鎌倉の中心部から山一つ隔てた場所である山ノ内に位置し、元々は、「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場であり地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていたのですが(そのため、禅宗寺院であるにもかかわらず建長寺の本尊が釈迦如来ではなく地蔵菩薩となっています。)、鎌倉の北の出入口である亀ヶ谷坂の切通しを守る要衝地であったため、鎌倉防衛目的もあって建長寺が建てられることとなりました。

② 円覚寺(鎌倉五山の2位

円覚寺は、弘安5年(1282年)、文永、弘安の役の両軍戦没者の菩提を弔うため、鎌倉幕府8代執権・北条時宗を開基とし、中国僧の無学祖元(仏光国師)の開山(初代住職)により創建された禅宗寺院です。なお、北条時頼が創建した建長寺は官寺的性格が強いのに対し、当初の円覚寺は完全な北条氏の私寺でした。

円覚寺は、亀ヶ谷坂の北西に位置しており、鎌倉北西部を守る最前線拠点となりました。

③ 寿福寺(鎌倉五山の3位)

寿福寺は、正治2年(1200年)、前年に没した源頼朝を弔うためにその妻である北条政子を開基とし、栄西の開山により創建した臨済宗建長寺派の寺院です。

円覚寺は、化粧坂の南東に位置しており、弘安元年(1278年)頃までに禅刹として体裁が整えられ、鎌倉西部を守る前線拠点となりました。

④ 浄智寺(鎌倉五山の4位)

浄智寺は、弘安4年(1281年)、第5代執権・北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うため、北条師時(北条宗政の子・当時8歳のため実質は北条宗政の妻と兄・北条時宗)を開基とし、宋出身の高僧兀庵普寧及び大休正念の開山により創建された臨済宗円覚寺派寺院です。

浄智寺は、円覚寺の南・建長寺の西南の谷戸に位置しているため、北西から進軍して来る敵を、円覚寺→浄智寺→建長寺の順に迎え撃つ構造となっていたと考えられます。なお、発掘調査により谷戸の奧の天柱峠下あたりまで人の手が加えられていた痕跡が見つかっていることから往時は相当規模の大寺院であったと推測されています。

⑤ 浄妙寺(鎌倉五山の5位)

浄妙寺は、文治4年(1188年)、足利義兼を開基とし、退耕行勇の開山により創建された極楽寺という名称の真言宗寺院を基にする寺院です。

正嘉元年(1257年)から正応元年(1288年)のいずれかの時期に蘭渓道隆(建長寺開山)の弟子の月峰了然が住持となって臨済宗建長寺派となり、名称も足利貞氏の法名をとって「浄妙寺」に改められました。

円覚寺は、鎌倉市の東部の鎌倉と六浦を結ぶ六浦道沿いに建てられており、かつては23箇院の塔頭をも擁する広大な寺地を有しており、鎌倉陸上物流の最重要路であった六浦道を守る拠点となっていました。

⑥ 他の寺院

鎌倉には、以上の鎌倉五山の他にもいくつもの寺院が存在しています。

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