【犬山城(日本100名城43番)】日本最古の天守が残る城

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国の最北端に位置し、尾張国に勢力を高めた織田家が美濃国との境防衛のために築いた平山城です。

戦国期に何度も攻城戦を経験し、3度に亘る落城とその後の対策から、戦国屈指の仕掛けが講じられた名城です。

また、江戸時代までに建造された天守が現存する「現存天守12城」の1つであり、建築年については諸説あるものの現存する日本の城の中で最古の天守があることから国宝指定された5つの天守のうちの1つとしても有名です。

さらに、 平成16年(2004年)4月1日まで、個人が所有していたという稀有な城としても有名です。

犬山城築城

犬山城の立地

犬山城は、尾張国の最北端に位置する標高約85mの独立丘陵(通称は城山)上に、木曽川を挟んだ北側の美濃国との国境防衛を目的として配された城です。

丘陵全体を城郭化して、侵入路となる南側に曲輪を広げ、北から西にかけてについては木曽川を天然の堀として利用する、いわゆる後堅固な城となっています。

天文6年(1537年)以前には、同地に針綱神社(はりつなじんじゃ)が鎮座していたとされるのですが、ここに防衛拠点を築くこととなったきっかけや時期についての確実な史料は存在せず、真偽不明であるものの、応仁の乱の最中である文明元年(1469年)に、岩倉織田家当主の織田敏広の弟・織田広近が築いた砦がその始まりと言われています。

なお、針綱神社は、犬山城築城に際して白山平→名栗町と2度に亘って遷座したのですが、明治15年(1882年)に再び城内(桐の丸と松の丸の跡地)に戻されて現在に至っています。

犬山城築城(1537年)

その後、天文6年(1537年)、清洲三奉行の1人であった織田弾正忠家当主・織田信秀の弟である織田信康が、当時の居城であった木ノ下城を廃し、現在の場所に乾山砦(犬山城の前身)を造営して移ったのが犬山城の始まりです。

もっとも、当初の犬山城の規模はそれほど大きなものではなく、当然天守などの主要建築物も存在していませんでした。

その後、天文13年(1544年)に織田弾正忠家と美濃国の斎藤道三とが争った加納口の戦いにおいて織田信康が敗死したため、その子である織田信清(織田信長の従兄弟)が2代目の犬山城主となります。

織田信長により落城(1565年2月22日)

築城当初から織田弾正忠家の北方防衛の拠点として機能していた犬山城でしたが、永禄3年(1560年)6月から始まった織田信長による美濃国侵攻作戦の途中である永禄5年(1562年)に、犬山城主織田信清が、領地分配を巡って織田信長と諍いを起こし、斎藤龍興に寝返ります。

犬山城が斎藤龍興に渡るということは、織田信長が西美濃侵攻に侵攻すると、その際に手薄となる尾張を中美濃から狙われることを意味し、犬山城の喪失により、このときの織田信長による西美濃平定戦は一旦中座します。

困った織田信長は、美濃国侵攻作戦について、それまでの西美濃からの侵攻から、中美濃からの侵攻へと作戦変更し、永禄6年(1563年)、中美濃に近い小牧山に新城となる小牧山城を築いて本拠地を移転します。

その上で、織田信長は、犬山城の支城群を次々攻略した後、永禄7年(1564年)8月から犬山城の攻城戦を開始し、永禄8年(1565年)2月22日にこれを落城させています。

この後、犬山城には、池田信輝→織田信房(織田信長の五男)を経て、天正10年(1582年)に起こった本能寺の変の後、尾張国を領有することとなった織田信雄配下の中川定成が入ります。

池田恒興により落城(1584年)

天正12年(1584年)、織田信雄(とこれに味方する徳川家康)対羽柴秀吉という構図で戦いが始まると、羽柴軍が織田信雄軍を鎮圧するためにその居城であった清洲城を目指して進軍を開始したのですが、このときの羽柴軍先遣隊は、美濃国方面を通り、北側から清洲城に向かうルートで進軍していきます。

この動きに呼応して、天正12年(1584年)3月13日、織田信長の乳兄弟であり織田家譜代家臣でもあった大垣城主・池田恒興が、羽柴方に寝返って犬山城を占拠するという事態に陥り、犬山城は、以降行われた小牧長久手の戦いの際の羽柴軍の橋頭堡として機能し、城代として加藤泰景→武田清利が入ります。

小牧長久手の戦いの後、犬山城は、天正15年(1587年)一旦は織田信雄に返還されたのですが、天正18年(1590年)に織田信雄が改易されると豊臣秀次の所領とされ、土方雄良→長尾吉房(羽柴秀次の実父)→三輪五郎右衛門が城代を務めることとなりました。

なお、文禄4年(1596年)に豊臣秀次が切腹を命じられた後は、1万2000石を与えられ石川貞清が犬山城に入っています。

石川貞清は、慶長4年(1599年)、徳川家康より美濃金山城の天守櫓などの古材を譲り受けて犬山城の改築を行い、城郭構造が現在のものに改修されています(このことが、以下の金山越伝説の根拠となっていました。)。

関ケ原前哨戦で開城(1600年)

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、豊臣系大名であった石川貞清は西軍に与し、稲葉貞通・典通親子、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らとともに犬山城に籠城します。

もっとも、犬山城が東軍の中村一忠らの攻撃を受けると、

石川貞清に加勢していた西軍諸将が東軍の井伊直政と通じて寝返ります。

内部から離反者が出たことにより籠城戦を維持できないと判断した石川貞清は、犬山城を開城して東軍に引渡します。

なお、石川貞清は、犬山城開城後には西軍の宇喜多隊の右翼に布陣して戦い東軍に大敗しています。

犬山城天守改修(1617年ころ)

関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)、徳川家康の4男である松平忠吉が尾張国主となるとその付家老であった小笠原吉次が城主となって犬山城に入り、慶長12年(1607年)には平岩親吉が城主となって犬山城に入ります。

慶長20年(1615年)閏6月13日に一国一城令が出された後も、犬山城は、尾張藩名古屋城の支城として存続を許され、元和3年(1617年)に尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、以後江戸時代を通じて成瀬家9代の居城となります。

その後、元和3年(1617年)頃までに成瀬家によって天守の大改修が行われます。

なお、荻生徂徠(寛文6年/1666年2月16日~享保13年/1728年1月19日)が、木曽川沿いの丘上にある犬山城の佇まいを見て、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」に倣って犬山城に「白帝城」という別名を付しています。

犬山城の縄張り

犬山城は、尾張国の最北端に位置する標高約85mの独立丘陵(通称は城山)全体に内廓を配して城郭化した平山城です。

山頂部に本丸を配し、そこから侵入路となる南側に向かって曲輪を広げ、南側に二の丸(杉の丸、桐の丸、樅の丸、松の丸)、三の丸を配置する連郭式(れんかくしき)縄張り構造となっています。なお、曲輪名は絵図ごとに異なっているため、時代によって名称が変遷しており一定ではありません。

また、東麓には東谷、西麓には西谷を配置し、その外側を北から西にかけて流れる木曽川を天然の堀として利用して防衛する構造となっているため、梯郭式縄張り構造ともいえます。

また、内廓(本丸・二の丸・三の丸)のさらに南側に城下町が配され、町人屋敷を取囲むように侍屋敷が連なり、また要所に寺院を配して寺町を形成して防御を固め、さらにこの城下町全体を堀・土塁・塀で囲った惣構え構造を構築していました。

総構え

(1)木戸(総構え出入口)

成瀬家3代目の成瀬正親の命により、犬山城総構(城下町)の安全を図るため、城下の出入口となる9つの木戸が設けられました。

木戸は、日の出によって開けられ、日の入によって閉められるため、夜間に出入りすることはできませんでした。

(2)城下町

犬山城の城下町は、戦国期から内廓の南側に長方形の町が広がっていました。

その後、犬山城に入った犬山成瀬家2代目の成瀬正虎から4代目成瀬正幸の間の治世に本格的な整備が始まり、南北の道5本・東西の道4本の道沿いに町屋地区が広がり発展しました。

成瀬家は、城下町の中央に町人町(鍛冶屋町・魚屋町・鵜飼町などの町名が残っています。)を置き、それを囲むように侍町を配置し、「犬山十二ヶ町」、それに続く城属五ヶ村を町続きとして取り込むことで町域を広げていきました。

特に、犬山城の正面通りとなっていた本町通り沿いは商業の中心地として発展し、相当羽振りが良かったと伝えられています。

三の丸

三の丸は、内廓の最南端に設けられた犬山城における最大の曲輪であり、その南側にある総構え構造の城下町とは外堀で遮断された構造となっています。

(1)外堀

犬山城外堀は、三の丸の周囲を取り囲む堀です。

かつて外堀があった場所に建てられていた犬山市福祉会館が解体された際の令和3年(2021年)7月、外堀遺構の発掘調査が行われ、犬山城外堀は、幅17.5m・深さ6.5m以上であったことが確認され、17世紀の絵図の記載がほぼ正確であったことが確認されました。

また、このときの発掘調査により、外堀のこの部分には水を溜めた痕跡がなく、空堀で石垣を造らない素掘りだったことも判明しています。

(2)大手門

大手門は、三の丸南側に設けられた門であり、外郭(惣構え)から内廓(本丸・二の丸・三の丸)に入る際に通る出入口に設けられました。城の正面の門であるため大手門と名付られました。

ここを突破されると敵兵が内廓に押し寄せてくるため、進入を防ぐための強力な防衛力が施されています。

入口が屈曲して配された大手門は、2門をもって構成され、一の門の手前には木製の橋が架けられ、一の門は西向きの高麗門、二の門は2階建ての南向きの櫓門となっており、堀・土塁・土塀・門で外枡形を形成し、直角に曲げられるルートを取らされる構成となっていました。

大手門の内側には、家老屋敷(現在の「城とまちミュージアム」近辺)が配置され、その向かいには藩校であった敬道館や武道場が設けられていました。

(3)清水門

清水門は、東谷曲輪と三の丸との間に設けられた門です。

(4)西御殿

三の丸には、現在の丸の内緑地公園の東、犬山城第一駐車場や犬山神社の北の辺りに当たる場所に城主の住居兼政庁である西御殿が設けられていました。

もっとも、享保18年(1733年)に三光寺御殿が建てられて城主の住居が移ったため、以降の西御殿は、主に政庁として使用されました。

(5)三光寺御殿

三光寺御殿は、享保18年(1733年)建築の城主の住居であり、西御殿の南側(現在の犬山城第一駐車場の辺り)に位置していました。

また、三光寺御殿は、尾張藩主の御成のためにも利用されました。

西谷(西谷曲輪)

(1)西谷御門

(2)西谷埋門

西谷埋門は、西谷曲輪の北東にある門であった、河原際に築かれた石垣の間を抜くような形で作られた門です。

西谷曲輪内に木材小屋が備えられていたことから、西谷埋門は木曽川を流してきた材木を取り入れるための門と考えられています。

(3)材木小屋

(4)馬場

東谷(東谷曲輪)・水手曲輪

(1)内田門

内田門は、明治9年(1876年)に瑞泉寺(現在の犬山市犬山瑞泉寺)に移築され、以降山門として再利用されました(なお、内田門は元々美濃金山城の大手門であったのを犬山城に移築したものであったとの伝承がありますが真偽は不明です。)。

(2)水手門

二の丸

犬山城二の丸は、単独の曲輪ではなく、松の丸・桐の丸・杉の丸・樅の丸という4つの独立した曲輪の総合体として構成されています。

二の丸が4つに分かれているのは、どれか1つの曲輪が陥落しても残りの曲輪の防衛力により抵抗可能とするためと考えられます。

三の丸を突破して来た敵兵は大手道を上ることにより本丸を目指すこととなるのですが、この大手道を通る敵兵を、大手道に設置された門で足止めし、それを両サイドの二の丸曲輪からの攻撃により殲滅する役割を担っています。

戦国期以降の城では各曲輪を突破しながら本丸に向かって進んで行く構造が多く、本丸への道を作ってそれを攻撃するための曲輪を配置するという犬山城二の丸は全国的に見ても珍しい構造と言えます。

(1)大手道

大手道は、三の丸から本丸へと繋がる主要ルートです。

当然ですが、籠城戦の場合には、攻城兵が攻め上ってくるルートでもあり、ここを突破されると本丸が危機に晒されることになります。

そのため、大手道には、犬山城内での最大の防衛力が施されており、ここを通過するためには周囲の櫓から集中砲火を受けながら出入口を含めて計5つの門(計4回の枡形)を突破する必要がある攻城兵にとっては地獄の通路となっています。

① 中門

中門は、三の丸を突破した攻城兵が大手道を通って本丸に向かう際の第1の門です。

② 矢来門

矢来門は、大手道を通って本丸に向かう際の第2の門です。高麗門形式で築かれていました。

矢来門は、明治7年(1874年)に20円にて払い下げられ、専修院(現在の丹羽郡扶桑町柏森字乙西屋敷)に移築されて東門として利用されています。

③ 黒門

黒門は、大手道を通って本丸に向かう際の第3の門です。

構造は、鏡柱・控柱・冠木を大きな屋根で覆った薬医門となっていました。

黒門を前に突破を試みる際、左側の樅の丸・前方及び桐の丸から攻撃を受ける構造となっています。

黒門は、明治9年(1876年)に23円にて払い下げられ、徳林寺(現在の丹羽郡大口町余野)に移築して山門として再利用されています(移築時に袖塀が併設されています。)。

なお、移築後の黒門の跡地には、僅かに礎石が1つ残されているのみとなっています。

④ 岩坂門

岩坂門は、大手道を通って本丸に向かう際の第4の門であり、本丸正門(鉄)の1つ手前の門です。

岩坂門を前に突破を試みる際、左側の小銃櫓・右側の杉の丸から攻撃を受ける構造となっています。

かつて、本丸に続く大手道の坂を岩坂と呼んでおり、その岩坂の最後に設置された門であったために岩坂門と名付けられました。

(2)松の丸

松の丸は、本丸の北側にある三の丸と堀と土塁で遮断された東西45間(約82m)・南北27間(約49m)の曲輪であり、二の丸の最南端かつ最大の曲輪です。現在の三光稲荷神社・針綱神社鳥居周辺に位置していました。

二の丸防衛の第一防衛ラインとして機能する曲輪であり、三の丸に取りついたり、三の丸を突破して中門や矢来門に取りついたりした敵兵を攻撃するための曲輪となります。

① 松の丸表門

松の丸表門は、大手道との接道部にあった松の丸の入口となる薬医門構造の門です。

松の丸表門は、明治元年(1868年)、浄蓮寺(現在の一宮市千秋町穂積塚本郷)に移築され、現在も山門として利用されています。なお、二の丸のうち、確実に門があったことが明らかとなっているのは松の丸だけです。

② 巽櫓(たつみやぐら)

③ 坤櫓(ひつじさるやぐら)

④ 松の丸御殿

松の丸には、本丸から移築された御殿がありました(天守の近くに御殿を配置することは防火上よくないとして松の丸に移築されました。)。

⑤ 松の丸裏門

松の丸裏門は東北隅にあり、城郭全体の搦手にあたる内田門に通じる門でした。

松の丸には、御殿が設けられていたため、政庁として利用されたり、貴人来賓時の所在場所として使用されることがあり、異変が起きた場合にすぐに脱出できるように裏口が設けられており、その裏口と松の丸との出入口となっていたのが松の丸裏門でした。

松の丸裏門は常満寺(現在の、愛知県犬山市大字犬山)に移築され、現在も山門として利用されています。

(3)桐の丸

桐の丸は、二の丸北側中央部にある、広さ東西15間(約27 m)・南北15間(約27 m)の曲輪です。

黒門に取りつき、また突破した敵兵を、北側の樅の丸・南側の松の丸と共に、東側から攻撃するための曲輪となります。

① 宗門櫓(しゅうもんやぐら)

② 道具櫓(どうぐやぐら)

(4)杉の丸

樅の丸は、二の丸北東・本丸南側にある、広さ東西17間(約30 m)・南北27間(約49 m)の曲輪です。

本丸のすぐ南側にあり、本丸前の最後の拠点と言えます。

① 器械櫓(きかいやぐら)

② 御成櫓(おなりやぐら)

(5)樅の丸(もみのまる)

① 水堀・空堀

樅の丸は、二の丸西側・本丸南側にある曲輪です。当初は白土丸と言われていました。

前面を堀で囲み、急峻な斜面に沿って周囲に堀を巡らせて防衛しています。

矢来門に取りついた敵兵を南側の松の丸と共に攻撃する、また西側から西谷曲輪を越えてこようとする敵兵を攻撃するために設けられた曲輪です。

樅の丸には南側から西側にかけて堀がめぐらされ、その脇の土塁には石垣が組まれていました。

① 屏風櫓

屛風櫓は、矢来門に取りついた敵兵を攻撃するための櫓であり、同地をもっとも効率よく狙える樅の丸の南西隅にあった櫓です。

本丸

(1)鉄門(正門)

鉄門は、本丸南側正面に設けられた門であり、本丸防衛の最後の砦です。

鉄門(くろがねもん)という名と絵図から、かつては門扉に鉄板が貼られた櫓門であったと推測できるのですが、現存していませんので正確なところは不明です。

現在は、櫓門形式で復元された模擬門が建てられています。

(2)七曲門(搦手門)

七曲門は、本丸裏手(北東側)と木曽川とを繋ぐ七曲道に設けられた搦手門です。絵図から櫓門であったと推定されます。

木曽川と本丸裏手との間の急峻な崖を何回も屈曲させて登る七曲道の先に設けられていました。

現在は石垣や礎石の跡が残されるも建物等は残されておらず、通行も禁止されています。

(3)大砲櫓(たいほうやぐら)

(4)小銃櫓(しょうじゅうやぐら)

小銃櫓の跡には模擬櫓が建てられています。「永勝庵」という名前の茶室です。

(5)弓矢櫓(ゆみややぐら)

(6)千貫櫓

千貫櫓(せんかんやぐら)は、天守北西隅の一段下がった場所にせり出すように築かれた単層の櫓です。

本丸北側の木曽川方面を警戒するために設けられた櫓と考えられます。

(7)番所

(8)大杉様

大杉様は、犬山城築城のころから存在したとされる杉の木であり、落雷時の身代わりや、台風時の風よけとして犬山城天守を守った御神木として崇められてきた老木です。

もっとも、昭和40年(1965年)頃に枯れてしまったため、現在は枯れ木のみが残されています。

天守

(1)天守台

犬山城天守台は、高さ5mの野面積石垣によって積まれています。

(2)天守完成時期(1590年ころ)

かつては、犬山城天守は、戦国期に織田信長の家臣であった森可成・森長可が入っていた森美濃金山城(現在の岐阜県可児市)から移築されたものであるというのが通説でした(犬山城主記、いわゆる「金山越(かねやまごし)、金山城天守移築説)。

もっとも、昭和36年(1961年)から5年間に亘る解体修理工事により、この通説が否定されました。

そこで、この解体修理工事後に解体修理と古文献等の調査が行われ、天文6年(1537年)に天守下層の2重2階の主屋が建てられ、その後の元和6年(1620年)に3階・4階部分が増設された後、唐破風の付加などが行われて現在の姿になったとされる説が通説となりました。

もっとも、この説も、平成31年(2019年)から行われた建築材の年輪年代法による調査の結果、1階の柱が天正13年(1585年)に、4階北側の床の梁が天正16年(1588年)に伐採された檜が用いられていることが判明し、またこの4年間に伐採された木材が5点確認されため否定されるに至りました。

そのため、現在では、犬山城の統治権が織田信雄から羽柴秀吉に移った天正18年(1590年)頃に、石川光吉によって現在の4階建構造の天守として建築されたものと考えられるのが一般的です。

(3)天守構造

犬山城天守は、2つの付櫓(西北隅付櫓・東南隅付櫓)が付された複合式天守構造となっています。

天守は、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せる高さ約19mの望楼型天守となっており、外観3重・内部は4階・地下に踊場を含む2階が付いています(総延面積は698.775㎡)。

1階:納戸の間、東西9間・南北8間(282.752㎡)

2階:武具の間、東西9間・南北8間(246.006㎡)

3階:破風の間、東西3間・南北4間(81.936㎡)

4階:高欄の間、東西3間・南北4間(49.835㎡)

犬山城廃城

犬山城廃城(1871年7月14日)

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県が断行され、この日に犬山城も廃城となります。

城郭建築物の喪失

この結果、全国各地の城郭と同様に、天守を除いた犬山城内の多くの建築物が、破却されたり、払い下げられて移築されたりして失われます(犬山城廃城後に県に移管された犬山城天守は、明治28年/1895年に藩主であった成瀬正肥に対して以降の修復を条件として無償譲渡されたことから成瀬家の個人所有とされることとなりました。)。

また、犬山城内の門も撤去され、堀も埋められました(なお、外堀の埋め立ての土の検証の結果、埋め立てが廃城時・明治時代後半・大正〜昭和初期・戦後の4回に亘って行われていたことが判明しています。)。

なお、前記の移築門の他にも、明治元年(1868年)に運善寺(現在の一宮市浅井町大日比野に所在)の山門として、また個人宅の門として移築された城門があるのですが、記録がないためそれがどこにあった門であったのかはわかっていません。

また、明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震により、天守東南隅付櫓が被害を受けています。

天守の国宝指定(1952年3月29日)

その後、犬山城天守は、昭和10年(1935年)に当時の当時の国宝保存法に基づいて旧国宝(現法制下では重要文化財に相当)に指定され、その後昭和27年(1952年)3月29日に文化財保護法に基づいて改めて国宝(現法制下の国宝)に指定されます。

その後、昭和34年(1959年)9月27日に伊勢湾台風が直撃したことにより犬山城も大きな被害を受けたため、昭和36年(1961年)から昭和40年(1965年)までにかけて大規模な解体修理が行われました。

天守の所有権移管(2004年4月1日)

犬山城は、これを所有する成瀬家が前記修理・保全を行ってきたのですが、その保持に多額の資金を要するために個人での維持が難しくなったため、成瀬家での保有を断念します。

そこで、成瀬家の中から城主に選ばれた成瀬淳子(犬山成瀬家第13代当主・成瀬正浩の妹)氏が、平成16年(2004年)4月1日、財団法人犬山城白帝文庫を設立して同法人理事長に就任し、犬山城の所有権を同法人に移管します。

その結果、同日以降は、公益財団法人犬山城白帝文庫が犬山城を所有し、犬山市が文化財保護法に基づく管理団体として保全がなされることとなりました。

その後、平成26年(2014年)には天守の部分修理が行われます。

また、平成29年(2017年)7月12日、同日の落雷を原因と推定される天守鯱の損壊が判明したため、改めて瓦製にて鯱が作り直され、平成30年(2018年)2月26日に新たに天守に設置されました(なお、損傷した鯱については、令和2年/2020年3月下旬に胴体部分が天守北東約30m地点で発見されています。)。

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