平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代に大和国北部(奈良盆地北部、現在の奈良市・大和郡山市)におかれた日本の都です。
唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城であり、和銅3年(710年)、それまでの都であった藤原京から遷都された後、短期間の中断期間を経て、延暦4年(785年)に長岡京に遷都されるまで都として政治の中枢を担いました。
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平城京遷都(710年)
平城京遷都の詔(708年)
平城京の前に都が置かれていた藤原京は、694年に恒久的な都とするために遷都され、同年以降、持統天皇・文武天皇・元明天皇の3代に亘って使用されました。
もっとも、藤原京は、唐の都であった長安を模して築いたはずだったのですが、当時は遣唐使が派遣されていなかったことから実際には新羅による誤った情報に基づいて築かれたため、宮が京の中心に配置されるなど中国式ではない誤った構造で築かれてしまっていました。
ところが、大宝4年(704年)に遣唐使として唐に派遣されていた粟田真人が日本に戻ってきて、唐の都であった長安の発展ぶりや優れた政治制度をときの朝廷に報告します。
このとき、聞かされた内容から、藤原京の構造が誤りであることがわかります。
話を聞いた文武天皇は、この都に唐の使節を案内すると日本の恥であると考え、唐の都である長安を正確に模した都の造営が必要であると考えます。
そこで、文武天皇は、慶雲4年(707年)、新たな律令国家にふさわしい都市計画を命じ、平城京への遷都についての審議が始まります。
遷都についての審議は、文武天皇が崩御された同年6月15日以降も続けられ、和銅元年(708年)2月、次代の元明天皇によって平城京遷都の詔が出されます。
その上で、同年3月に造営卿の任命、同年9月に造平城京司の任命、同年12月に宮域の地鎮祭が行われた上で、いよいよ平城京の建都が始まります。
平城京が都として選ばれた理由
では、なぜ平城京(奈良盆地北部)が次の都に選ばれたのでしょうか。
現在の地図を見ると不思議に思われるかもしれませんが、当時の奈良は水運・陸運の要衝地だったからです。
水運について見ると、紀元前約6000年から前約5000年ごろの縄文海進により海水が河内平野へ進入し、北側が現在の高槻市付近・東側が生駒山地・西側を上町台地とする河内湖(もともと海水の河内湾だったのですが、淀川と大和川の水により淡水化しています。)を形成し、直接大阪湾と繋がっていました。
そして、この河内湖が、大和川(当時の大和川の流路は、現在とは異なり、柏原付近で北へ転じるという現在の長瀬川の流路を流れていました。)を通じて奈良と繋がっていたため、奈良が、船により直接大阪湾に乗り入れることが出来る一大港湾都市として位置づけられていたのです。
そのため、奈良はシルクロードの終着点として唐・新羅・インドの人が見られる国際色豊かな都市として発展していました。
また、藤原京から平城京へとつながる大動脈の下ツ道(しもつみち)が整備されるなど、陸運の要衝地でもあったこともその理由として挙げられます。
また、中国古来の陰陽五行思想によると、この地が東に川(青竜)・西に道(白虎)・南に池(朱雀)・北に山(玄武)が存するという地相にも恵まれた最良の土地だと考えられたからでもありました。
平城京の整備
新たな都の場所として平城京が選ばれると、整地の上での町割りと、建造物の建築が急ピッチで始められます。
当然ですが、新たな都市建設には大量の木材・石材・瓦などの膨大な資材が必要となります。
これらの資材の調達・運搬と、その後の都市建設のために全国各地から大勢の労働者が強制的に集められました。
もっとも、建設機械のない時代に行われた手作業での都市建設は重労働を極め、そのあまりのつらさから逃亡する人も続出したとされています(続日本記・和銅4年9月4日条)。
木材については、廃都とされた藤原京の資材が再利用されたほか、現在の滋賀県大津市瀬田周辺に存する田上山(たなかみやま)のヒノキが大量に使用されたため、同山がはげ山となったと言われています。
また、石材は、現在の兵庫県加西市周辺で産出された凝灰岩の竜山石が運ばれたほか、飛鳥・藤原京で使用されていた花崗岩の飛鳥石の礎石などが再利用されました。
平城京遷都(710年3月10日)
平城京の建築が始まり内裏・大極殿・その他の官舎の一部が整備された程度の段階であったと考えられる和銅3年(710年)3月10日、平城京遷都が行われます。
そして、その後も貴族の邸宅や寺院などの造営が進められ、徐々に発展をしていきました。
なお、平城の読みについて、「へいじょう」と読まれることが一般的なのですが、「へいぜい」と読むべきであるとする説も有力であり、その意見が分かれています。
他都への一時的な遷都
平城京遷都後、聖武天皇治世に短期間だけ恭仁京・紫香楽宮・難波京という他の都に遷都されたことがあるのですが、天平17年(745年)に再び平城京に遷都されると、その後延暦3年 (784年)に長岡京に遷都されるまで政治の中心地であり続けました。
平城京の町割
基本構造
(1)平城京の範囲
前記のとおり、平城京は、唐の都であった長安を模して築かれた南北に長い長方形の都市であり、天子南面の考え方を基に中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置いて南部を拓き、さらに東側(左京)傾斜地に二条大路から五条大路にかけて東側に張り出す形で3坊分の外京が、右京の北辺に北側に張り出す形で二町分の北辺坊がそれぞれ設けられました。
なお、このときの町割りは、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準として行われ、下ツ道が朱雀大路、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(少しずれています)に該当しています。
以上の結果、新たに築かれることとなった平城京の総範囲は、東西約4.3km(外京を含めると約6.3km)、南北約4.7km(北辺坊を除く)に及ぶ広大なものとなりました。
(2)条坊制
平城宮南端中央部から南に向かって大通り(朱雀大路)が設けられ、その東側を左京・西側を右京として二分した町が形成されました。
その上で、平城京内部を、東西方向に北から一条大路から九条大路(後に十条大路の存在も確認)に及ぶ「条路」と、南北方向に中央に朱雀大路を設けた上で、中心部から外側に向かって左右(東西)方向に一坊から四坊に及ぶ「坊路」と呼ばれる道路で碁盤の目のように整然と区画します。
これにより、平城京の都市計画は「条坊制」と言われ、全域が72坊に区画設定されました。
この「条」及び「坊」の間隔は約532m(1500大尺)とされ、これらの大通りで囲まれた街区は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を幅6~9m(20小尺~25大尺)の3つの道(条間路・坊間路・小路で東西・南北に一辺約120m四方の各4区画(1街区=16区画=1坪)に区切られました。
この当時の土地は公有制であったため、土地は天皇から貸し与えられる物とされていたため、これらの区画が位階に応じて配分され、貴族が占める12町を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの規模で宅地化されていきました。なお、平城宮に近い位置には大規模宅地(貴族の邸宅)が立ち並び、平城宮から離れるに従って16分の1町や32分の1町(庶民の自宅)という細分化された宅地が形成されました。
平城宮【平城京の政庁】
前記のとおり、平城宮は、天子南面の考え方を基に中央北域に宮城である平城宮を配し、その南側に平城京という都市を拓きました。
そして、宮殿(内裏)とされた平城宮は、大きく分けると中央区(朱雀門の北側)・東区(壬生門の北側)・西区(若犬養門の北側)の3区画に分けられました。
奈良時代の前半は、この3区画のうちの中央区に大極殿(第一次大極殿)と朝堂院が置かれ、政治の中心となっていました。
もっとも、奈良時代の後半になると大極殿(第二次大極殿)と朝堂院が東区に移り、それに伴って政治の中心もまた東区に移っています。
(1)中央区【奈良時代前半の中心地区】
① 朱雀門(1998年復元)
朱雀門は、平城宮(内裏)の南端に位置する平城宮の正門です。南を護る聖獣とされる朱雀の名をとって命名されました。
朱雀大路を北上した後、二条大路との交差場所に存在していました。
朱雀門は、遠方からも見ることが出来るように2階建ての二重門構造とされていたと考えられており(伴大納言絵巻に二重門として描かれています。)、またその左右には高さ約6mの大垣が巡らされ、この大垣は約120haもの広さを誇った平城宮を取り囲んでいました。
往時には、朱雀門前で外国使節の送迎や、京内の人が集まっての歌垣、天皇が出向いての新年のお祝いなどがなされたと考えられています。
なお、伴大納言絵巻の絵・礎石や出土した瓦の大きさに基づく推定により、平成10年(1998年)、東西約25m・南北約10m・高さ約20m・朱色に塗られた入母屋二層構造で復元されています。
② 朝堂院(中央区)
朝堂院は、朱雀門を通って平城宮に入った後、北に向かい、広大な前庭を経た先(北側)あった朝堂と呼ばれる4つの建物が立ち並んだ建物群です。
③ 大極門(南門、2022年復元)
大極門は、第一次大極殿の南側に位置する「閤門」と呼ばれる重層の門です。大極殿の南側に位置する正門ですので、南門とも言われます。
平城宮中央区は、南側にある朝堂区域と、北側にある大極院区域とは、この大極門(南門)とその東西にそびえる2階建ての楼閣(東楼・西楼)とによって区分されていました。
なお、東楼及び西楼は、第一次大極殿設置当初は存在しておらず、730年ころに大極門両脇の築地回廊の一部を解体して増築されたと言われています。
大極門は、柱の位置などは確認できなかったのですが、基壇外装・階段の遺構・雨落溝などから当時の大きさを推認した上で、入母屋造りの二重門として間口約22.1m・奥行約8.8m・高さ約20mの大きさで再建されています。
なお、大極門は、令和4年(2022年)に復元され、本稿寄稿時点では東楼の復元作業が進められています。
④ 第一次大極殿(2010年復元)
第一次大極殿は、平城京遷都直後から一旦恭仁京に遷都されるまでの大極殿です。
大極門とその両側の楼閣を含めた築地回廊が、そのまま東西約180m・南北約320mに亘って取り囲みその内部が「大極殿院」と呼ばれました。
大極殿院の中央部は、儀式の際に貴族たちが整列する広い前庭が配され、第一次大極殿は、この前庭の北側に、1段高く、さらに塼と呼ばれる焼成した煉瓦によって積み上げられた擁壁により囲まれる形で配置されました。
そして、第一次大極殿は、二重の基壇の上に建てられた中国風の建築物であり、元正天皇及び聖武天皇の即位式や、外国使節の謁見、諸臣の朝賀など様々な儀礼空間として使用されました。
第一次大極殿は、天平12年(740年)、一時的に恭仁京に遷都されるに際して取り壊されました。
なお、平城遷都1300年記念事業の一環として平成22年(2010年)に第一次大極殿が実物大で復元され、現在に至っています。
⑤ 西宮(第一次大極殿跡)
奈良時代の後半に大極殿が東区に移されると、中央区の第一次大極殿院の跡地は朝儀の場としては使われなくなり、その機能は東区に集約されていきました。
その結果、一次大極殿地区は、天平勝宝年間(749年〜757年)以降に居住区画に改造されていったと考えられており、この第一次大極跡地が木簡や史料にみられる称徳天皇や平城上皇の居所となった「西宮」ではないかと考えられています。
(2)東区【奈良時代後半の中心地区】
① 壬生門
壬生門は、朱雀門の東側に設けられた門です。
門の上に二階建ての東楼を有していたものと考えられています。
② 的門(小子部門)
③ 建部門
④ 県犬養門
⑤ 海犬養門
⑥ 猪使門
⑦ 丹比門
⑧ 兵部省・式部省・神祇官・大膳職・造酒司
平城宮内部では、立法(大極殿・朝堂院)・行政(二官八省)などの国家統治を担当する様々な役所がありました。
二官とは政治全般を統括する太政官と宮中の祭りごとや神社を統括する神祇官をいい、八省とは太政官の下に置かれた式部省・大蔵省などをいいます。
また、省の下には、職・寮・司などの各部局が置かれ、多くの人々が働いていました。
役人の位は30段階に分かれた上、その位に応じて服装の色や材質が細かく定められていたため、服装を見るだけで身分がわかるようになっていました。
なお、平城宮内では、これまでに神祇官・式部省・兵部省・馬寮・造酒司などの遺構が発見されています。
⑨ 朝集殿院
朝集殿 (ちょうしゅうでん)は、大極殿や朝堂などとともに朝堂院を構成する殿舎の1つであり、朝廷の臣下や官人が出仕する際の控えとなった建物です。
平城宮時代の東朝集殿は、切妻造の屋根を柱で支えるだけの壁や建具のほとんどない開放的な建物でした。
もっとも、東朝集殿は、天平宝字4年(760年)頃の平城京改修に伴い、唐招提寺に移築され、唐招提寺において屋根を入母屋造とした上で建具などが入れられる改造がなされています。
その後、建治元年(1275年)にも再度の改造がなされたものの、建物自体は現存しており、貴重な奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として国宝指定がなされています。
⑩ 東区朝堂院
⑪ 第二次大極殿
前記のとおり、天平12年(740年)に平城京から恭仁京に遷都されたのですが、その際、第一次大極殿は取り壊されています。
その後、紫香楽宮・難波宮を経て、天平17年(745年)に再び平城京に都が戻ってきたのですが、当然、この時点では平城宮に大極殿はありません。
そこで、再び大極殿を建築することとなったのですが、このときは中央区ではなく、東区(壬生門の北)に再建されています(再建場所を元の場所にしなかった理由は不明です。)。なお、便宜上、再建前の大極殿を第一次大極殿、再建後の大極殿を第ニ次大極殿と呼んでいます。
そして、大極殿が東区に移された結果、奈良時代後半は平城宮の政庁が東区に移ります。
その結果、東区(壬生門北)は、南側から北に向かって、壬生門(北側両脇に式部省と兵部省 )・2堂の朝集殿・12堂の朝堂よりなる太政官院(朝堂院)・大極殿・内裏が一直線に並ぶ配置となりました。
なお、第二次大極殿跡には近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残されていました。
⑫ 内裏
内裏は、天皇の私的領域であり、平城京遷都の当初から東区に設けられました。
板張りの床の上にじゅうたんを敷いて生活をしており、屏風・衝立・几帳(横木に布を掛けたもの)で部屋を仕切り、各部屋には御床・家具(机・棚厨子・箱厨子)などが置かれていたと考えられています。
内裏の東側には天皇の身の回り全般を取り仕切る「宮内省」が、北側には食事を司る「内膳司」が置かれていたと考えられています。
この場所は平城京存続中動くことはなく、中心的機能が東区に移った後期においてもその場所に変更はありませんでした。
⑬ 東院エリア
東院は,皇太子の居所となっていたエリアです。
この東院エリアからは、昭和42年(1967年)、平城宮東側張り出し部分に奈良時代の東西70m・南北100mに亘る庭園跡が発見されました。
この点、「続日本紀」に「東院なの玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす」という記載があり、その記載のとおりの釉薬をかけた瓦がまとまって出土したため、発見された庭園は、平城宮東院庭園と呼ばれ国の特別名勝の指定を受けました。
(3)西区
① 若犬養門
若犬養門は、朱雀門の西側に設けられた門です。
門の上に二階建ての西楼を有していたものと考えられています。
② 玉手門
③ 佐伯門
④ 伊福部門
⑤ 馬寮(左馬寮・右馬寮)
平城京
(1)羅城門
羅城門は、平城京の出入口とされた瓦葺2階建て構造の門です。
朱雀大路の南端とかつては平城京の南端と言われていた九条大路との交差場所に位置していました。
羅城門の両端(九条大路の南辺)には、平城京を取り囲む羅城(城壁)が設けられ、そこに設けられた門であるために羅城門と呼ばれました。
(2)東西道路(条路)
① 九条大路
② 八条大路
③ 七条大路
④ 六条大路
⑤ 五条大路
⑥ 四条大路
⑦ 三条大路
⑧ 二条大路
二条大路は、平城宮の南辺を東西に延びる平城京第2の道路であり、その幅は朱雀大路の半分である約37m(105大尺)でした。
⑨ 一条大路(北一条・南一条)
(3)南北道路(坊路)
① 朱雀大路(下ツ道)
朱雀大路は、羅城門から平城宮の正門である朱雀門までを繋いだ南北に延びるメインストリートとして設置された大通りです。
平城京内での最大の道路であり、長さ約3.8km・幅約74m(210大尺)もの規模を誇り、前都であった藤原京の3倍の規模で設けられました。
朱雀大路は、平城京の都市規模からすると不必要に巨大な道路であったことから、実用目的ではなく朝廷の権威を示すためのものと言え、外国の使節などに見せるためのものであったと考えられており、その両側には柳の木が植えられていたと言われています。
なお、この朱雀大路を境として東側を左京・西側を右京と呼びました(天子南面の思想から、南を向いて右・左と見ています。
② 西一坊
③ 西二坊
④ 西三坊
⑤ 西四坊
⑥ 東一坊
⑦ 東二坊
⑧ 東三坊
⑨ 東四坊(中ツ道)
⑩ 東五坊
⑪ 東六坊
⑫ 東七坊
外京
下京は、平城京の東側に設けられた1辺約2km四方の張り出された部分です。
北辺坊
北辺坊は、右京にある西大寺の北側に張り出された部分です。
十条
かつては、平城京の南端は羅城門があった九条大路であると考えられていたのですが、平成18年(2006年)3月10日、下三橋遺跡における道路遺構・羅城(城壁)跡のが発見されたことを理由として、大和郡山市教育委員会が、平城京に十条大路が存在したと発表しました。
これにより、羅城から十条大路推定域をも加えた範囲が新たに平城京南方遺跡として指定されています。
主要な寺院建築物
平城京内には、藤原京から移転してきたものを含めて大小様々な寺院が建築されました。
なお、平城京内寺院の伽藍としては、藤原京時代の金堂と塔が一緒に配置されていたのが特徴的だったのとは異なり、金堂と塔を離して配置されるようになったのが特徴的です。
(1)平城京遷都に伴って移築されてきた寺
① 薬師寺
薬師寺は、藤原京からそのまま移築されたため、伽藍も藤原京時代のままの配置となっています。
そのため、金堂と塔が一体化した伽藍配置を残しています。
② 元興寺(718年移転)
元興寺は、蘇我氏の氏寺として創建された飛鳥寺を起源とする藤原京から移ってきた寺院なのですが、平城京内に移された際に新たに建築されたため、金堂と塔を離した伽藍配置となっています。
元興寺は、三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇りました。
また、その寺域は南北4町(約440m)・東西2町(約220m)に及ぶ広大なものを擁し、現在「奈良町(ならまち)」と称されている興福寺南側地区の大部分が元は元興寺の境内でした。
③ 興福寺(厩坂寺)
興福寺は、天智天皇8年(669年)に藤原氏の氏寺として山背国山階(現在の京都市山科区)で創建した山階寺が起源なのですが、その後、厩坂寺として藤原京に設置されていたものが平城京遷都に伴って平城京に移されました。
興福寺は、奈良時代の藤原氏の権力を象徴するかのように、平城宮を見下ろす高台に配置されています。
④ 大安寺(大官大寺、716年移転)
大安寺は、聖徳太子が建てた「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ)を起源とし、その後官寺となった後で移転や改称を繰り返して平城京に移って大安寺と称します。
その伽藍は、東西に2基の七重塔が立つ壮大なものであり、七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみであったことから「南大寺」の別名がありました。
(2)平城京で新たに創建された寺
① 東大寺(752年創建)
東大寺は、天平13年(741年)2月14日(類聚三代格)に聖武天皇によって発せられた国分寺・国分尼寺建立の詔に基づいて全国の総国分寺とするために創建された寺です。
創建された年は天平勝宝4年(752年)であり、東京極大路に接した京域の東外に設けられました。
② 法華寺(745年創建)
法華寺は、前記国分寺・国分尼寺建立の詔に基づいて全国の総国分尼寺とするために天平17年(745年)に創建された寺です。
正しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といいました。
設けられた場所は藤原不比等の邸宅跡であり、光明皇后ゆかりの門跡尼寺(皇族・貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院)として有名です。
③ 西大寺(765年創建)
西大寺は、右京の北方に31町もの寺域を有する大寺院であり、天平神護元年(765年)、称徳天皇によって創建されました。
④ 唐招提寺(759年創建)
唐招提寺は、唐僧であった鑑真が、天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧・宅跡を朝廷から譲り受けて寺としたものです。
当初は「唐律招提」と称していました。
貴族の邸宅
(1)藤原不比等邸
藤原仲麻呂邸は、平城宮の東側に位置する4坪の邸宅です。
(2)藤原仲麻呂邸
藤原仲麻呂邸は、田村第といわれる8坪にも及ぶ広大な邸宅です。
(3)長屋王邸
長屋王邸は、平城宮の東南向い(左京三条二坊)にあった正二位左大臣・長屋王の邸宅です。
昭和63年(1988年)、その跡地に奈良そごうを建築するために発掘調査をしたところ、そこから出土した5万点にも及ぶ木簡から同地が長屋王邸跡であることが判明しました。
その規模は4坪・約6万㎡もの広大なものであり、内部は長屋王の居住地区・事務所地区・使用人地区に区画されていました。
このうち、長屋王の住居は、約360㎡もの掘立柱建物であったとされ、天皇の住居である平城宮内裏正殿に準じる広さであったことがわかっています。
市
平城京内には、東西それぞれに4町規模の市が設けられま、東側の市を「東市」、西側の市を「西市」といいました。
両市には、平城京内に通した堀河によって物資が運ばれました。
なお、東市に通じる東堀河は北側で佐保川に接続した後で南進して東市に向かい、また西市に通じる西堀河は北側で秋篠川に接続した後で南進して西市に向かう構造となっていました。
長岡京への遷都
藤原氏の野望
671年に天智天皇が亡くなると、その翌年である672年、天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)とが後継者争いをし(壬申の乱)、その勝者である大海人皇子が天武天皇として即位するところから、平安時代への方向付けが始まります。
壬申の乱に勝利して天皇となった天武天皇は、以降の天皇家は、天武天皇の血筋から選ばれることとなります。いわゆる天武系の天皇です。
天武天皇の後、持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇まで、天武系天皇が続きます。
ところが、この後事件が起こります。
当時の権力者であった藤原百川が、天武系であった称徳天皇の次の天皇として、天智系である白壁王(後の光仁天皇)を推したのです。
その理由としては、天武系の天皇は、聖武天皇は仏教による鎮護国家思想を持ち、また称徳天皇は僧である道鏡を天皇としようとしたりするなど、仏教勢力を政治に介入させすぎていたからです。
勢力拡大を目指す藤原氏にとっては、仏教勢力が邪魔な存在となっていたため、天武系の天皇を排することにより仏教勢力の排除を試みたためと言われています。
そこで、仏教勢力との結びつきの弱い天智系の天皇を据えることにより、仏教勢力を抑え、藤原氏の勢力拡大を目指したと考えられています。
そして、藤原百川は、宝亀元年(770年)、天智系の白壁王60歳を皇位に就けて光仁天皇とすると、宝亀3年(772年)、その息子である山部親王(後の桓武天皇)を皇太子とします。
その上で、天応元年(781年)、光仁天皇が山部親王に譲位し、天智系の天皇で最も有名な桓武天皇が誕生します。なお、桓武天皇の政治は、当初、皇后に藤原式家の女性である藤原乙牟漏をあてがわれ、また即位の翌日に弟の早良親王を皇太子と定められるなど、藤原百川のやりたい放題で進められていきます。
平城京の限界
桓武天皇は、藤原式家の意向を受け、また天智系天皇の復活を誇示するため、延暦3年(784年)、奈良仏教勢力が居座る平城京を廃するという方針が進められていきます。なお、この政治的理由のほか、平城京が大きな川から離れているために大量輸送できる大きな船が使えず、10万人規模まで増えた人口の用に供する食料などを効率的に運ぶことが困難であったこと、大きな川がないために水が不足していたこと、生活排水や排泄物が道路の脇に作られた溝に捨てられていたために町中や水が減った川に汚物が溜まり衛生状態が限界に達していたことなどもその理由となりした。
長岡京遷都(784年)
その結果、桓武天皇の勅命により、平城京から40km北側に位置する山背国・長岡に遷都され、平城京と奈良を都とする時代が終わります。
その後も長岡の地を推薦した藤原式家の藤原種継とその一族を中心として長岡京の開発が進められていったのですが延暦4年(785年)9月23日、長岡京遷都の責任者である藤原種継が暗殺され、また長岡京で藤原式家の関係者が相次いで死亡し、また畿内で天然痘が流行・長岡京で二度の大洪水に見舞われ飢饉となるなど、不幸な事実が相次ぎます(長岡京では、これを早良親王の祟りとおそれ混乱に陥ります。)。
そこで、桓武天皇は、和気清麻呂の助言を受け、建設中の長岡京を捨てて、再度北東の地に遷都することとし、さらなる遷都がなされたのが平安京です。
長岡京遷都後の平城京
長岡京に遷都した後、平城京跡は南都(なんと)とも呼ばれ、一応の機能は残されていました。
そこで、後に起こった政争ではその利用価値が重視され、大同4年(809年)に西宮地区に居を定めていた平城上皇によって、弘仁元年(810年)9月6日に平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出されるなど政争の場としても利用されました。
もっとも、この政争では嵯峨天皇が迅速に兵を動かして同年9月12日、これを鎮めて平城上皇を剃髪させ(薬子の変)、平城京への再遷都は実現しませんでした。
そして、遷都先となった平安京が栄えていったのに対し、薬子の変以後平城京跡地は衰退を続け、9世紀末に宇多上皇が南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされています(農村となったため、その後に遺構が破壊されることが少なく、比較的良好な状態で現在まで残されることとなりました。)。
現代の平城京跡利用
近鉄電車開設(1914年)
大正3年(1914年)、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身にあたる大阪電気軌道(大軌)が大和西大寺・近鉄奈良間に鉄道を敷設することとなったのですが、当時は一帯に田畑が広がり平城宮のあった場所が特定されていませんでした(実際には、平城京の範囲は概ね明らかとなっていたのですが、世間の注目が薄くこれを避けるという選択かわなされなかったとも)。
そこで、線路を敷く際に、平城京跡を避けるなどの判断がなされることなく、堂々と平城京跡地を横断していく形で線路が敷設されました。
これが、現在の近鉄奈良線の大和西大寺と新大宮の区間です。
もっとも、線路敷設直後から宮跡の研究が進み、大正11年(1922年)には国の史跡にも指定されたことから、平城京跡地内に堂々と電車が走っていくことが問題となりはじめます。
そのため、現在、奈良県・奈良市・近鉄の三者で話し合いが進められ、現在平城京を横断している近鉄奈良線の大和西大寺から近鉄奈良の区間の線路を南側に迂回させる計画が協議されています。
RRセンター設置(1952年5月1日)
なお、第二次世界大戦に敗れた日本は、戦後、米軍を中心とする進駐軍によって統治されることとなったため、日本中に進駐軍兵士が駐屯することとなりました。
ここで、当時の日本政府は、「米進駐軍の強姦・性暴力を防ぐため」との名目で、民間組織・RAA(Recreation Amusement Association)を設置し、5万5000人とも7万人とも言われる数の女性を集めて全国各地に進駐軍兵士用の「慰安所」作りました。
この慰安所は関西にも設置され、当初は大阪市内に設けられたのですが、昭和27年(1952年)5月1日、奈良市横領町の旧セキスイ工場(現在の平城宮跡正面)あたりに奈良R・Rセンター(Rest and Recuperation Center)が設けられ、慰安所もそこに移転されてきました。
奈良R・Rセンターは、日米安保条約に基づく両国の行政協定によって設けられた米軍直営の施設であり、表向きは性的慰安施設ではなかったのですが、設置直後から周囲に米兵目当てのカフェ・キャバレー・ストリップ劇場・バーなどの歓楽施設が集まり、また全国から1000人単位で若い女性が集まったことから、朝鮮戦争から5日間の帰休が許される兵士の休息・元気回復を目的とした実質上の売春街と化していきました。
また、R・Rセンターの付近では、三条通出屋敷から尼ケ辻にかけて西部劇まがい店が軒をならべてそこにパンパンと呼ばれる私娼が群がり、これに暴力団が支配するボン引きが群がって130軒ものパンパン宿が林立して西大寺付近からJR 奈良駅付近にいたる範囲の治安が著しく乱れます。
この結果、近隣住民からの反対運動が相次ぎ、昭和28年(1953年)、奈良R・Rセンターは神戸に移転されることとなりました。
そして、奈良R・Rセンターにはセキスイの工場が立ったのですが、そのセキスイ工場もまた、平成26年(2018年)頃に朱雀大路を整備するために移転し、現在は史跡公園として再整備されています。