北条朝時(ほうじょうともとき)は、鎌倉幕府第2代執権として絶大な権力を握った北条義時の次男です。
北条朝時の母親が北条義時の正室・姫の前であり、初代執権であった祖父・北条時政から名越屋敷を与えられるなど北条宗家を継ぐことをほぼ約束されていた人物でしたがで、女性問題で失脚し、庶子であった兄・北条泰時に後れを取ることとなった人物です。
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北条朝時の出自
出生(1193年)
北条朝時は、建久4年(1193年)、江間義時(後の北条義時)の次男として鎌倉で生まれます(なお、便宜上、本稿では「北条朝時」の表記で統一します。)。
異母兄として側室を母とする異母兄の11歳の金剛(後の北条泰時)がいたのですが、北条朝時の母が北条義時の正室であった姫の前(比企朝宗の娘)であったため、北条義時の嫡子とされていたと考えられます。
その後、建仁3年(1203年)、比企能員の変が起こって北条朝時の母・姫の前の実家であった比企氏が滅ぼされ、姫の前も北条義時に離縁されます(北条朝時11歳)。
もっとも、比企氏の血を引く北条朝時は滅ぼされた比企氏の所領の多くが相続し、血縁としては微妙な立場となるも、経済的には大きな力を持つこととなりました。
北条家の嫡流となる(1204年11月)
江間義時(後の北条義時)の嫡子として扱われた北条朝時でしたが、父が分家として江間家を継いでいたため、あくまでも北条家ではなく江間家の嫡子扱いでした。
ところが、北条朝時が、宗家である北条家の嫡子となりかける事件が起こります。
元久元年(1204年)11月5日 、北条時政の嫡子として北条家を継ぐこととなっていたと考えられる北条政範が、源実朝の正室を迎えに行くために向かった京の地で急死してしまったのです。
このとき、北条家には北条時房がいたのですが、北条時政は、江間家に出していた江間義時の嫡子であった北条朝時を北条家に戻し、北条家を継がせる意向を示します。
そのため、北条時政は、時期は不明ですが、北条朝時に北条家を継がせるべく鎌倉にあった北条時政の邸宅であった名越館を与え、周囲にその意思を示します(名越館を与えられたことから、後に北条朝時の子孫は「名越流」と呼ばれています。)。
牧氏の変(1205年閏7月)
以上のとおり、北条朝時は、北条時政から北条家の家督と執権職を引き継ぐはずだったのですが、元久2年(1205年)閏7月、鎌倉幕府内で専横を極めつつあった北条時政とその継室である牧の方が、第3代鎌倉殿・源実朝を暗殺して平賀朝雅を第4代鎌倉殿に就任させるクーデターを画策したものの、北条時政の先妻の子である北条義時・北条政子らに阻止されて失脚するという大事件を起こし失脚します(牧氏の変)。
この結果、北条朝時が北条時政から北条宗家の家督を受け継ぐことはできなくなり、北条家は江間家から戻った北条義時が引き継ぐこととなりました。
なお、北条時政から直接家督を継ぐことはできませんでしたが、この時点では北条朝時は北条義時の嫡男ですので、次期北条家当主という北条朝時の立場に変更はありませんでした。
元服(1206年10月)
その後、建永元年(1206年)10月、13歳となった北条朝時が元服することとなったのですが、筆頭御家人である北条家の次期当主予定であったことから破格の待遇を受けており、元服の際には第3代鎌倉殿である源実朝が直々に烏帽子親を務め、さらに源実朝が偏諱を与えて北条「朝」時と名乗ることとなります。
以上のとおり順風満帆な人生を送っていた北条朝時でしたが、その人生を一変させる事件を起こします。
北条朝時失脚
艶書事件(1212年5月7日)
20歳になった北条朝時は、源実朝の御台所(西八条禅尼)に仕える官女であった佐渡守親康の娘に艶書(ラブレター)を送り口説き続けていたのですが、佐渡守親康の娘が一向になびかないことに業を煮やし、建暦2年(1212年)5月7日、深夜に佐渡守親康の娘の寝所に忍び込み、これを連れ出して手篭めにしてしまうという事件を起こしたのです。
北条家の嫡男の不祥事であったため、並の相手に対して行った行為であったとしたら周りが揉み消してくれるはずなのですが、このときは相手が悪すぎました。
鎌倉殿の御台所が京から直々に連れてきた女官であり、さらには京の貴族の娘でもあったからです。
廃嫡
この話を聞いた源実朝は激怒したため、庇いきれなくなった北条義時は、北条朝時を勘当して駿河国富士郡への蟄居を命じます。
この結果、北条朝時は、北条義時の嫡男としての身分も失い、時期北条家当主の座は兄の北条泰時に移ることとなりました。
北条朝時復職
和田合戦(1213年5月)
駿河国にて蟄居していた北条朝時でしたが、建暦3年(1213年)に和田義盛に謀反の動きがあるとのことで鎌倉に呼び戻されます。
建保元年(1213年)5月2日、挙兵した和田義盛軍が三軍に分かれて御所南門と北条義時邸・西門・北門をそれぞれ急襲したのですが(和田合戦)、このとき北条朝時は、兄の北条泰時と共に御所南門の防衛にあたっています。
和田義盛の三男・朝比奈義秀(あさひなよしひで)が、大倉御所南門を打ち破って和田軍が大倉御所南庭に乱入してきた際には、自ら朝比奈義秀に斬りかかるなどして防戦し、負傷して撤退しています。
結局、和田合戦は、翌日に和田義盛が討ち取られて幕府方の勝利に終わるのですが、このときの活躍もあり北条朝時は御家人として幕政に復帰します。
承久の乱(1221年)
また、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権であった北条義時討伐の兵を挙げたことにより承久の乱が始まると、鎌倉幕府軍は北陸道・東山道・東海道の三軍に分かれて、途中の在地勢力を制圧し(場合によっては取り込んで)、京に向かって進軍していくこととなりました。
このときの陣容は、北陸軍は北条朝時を総大将とする4万騎、東山道は武田信光を総大将とする甲斐源氏主体の5万騎、東海道軍は北条泰時・北条時房を総大将とする主力の10万騎であったといわれています。
こうして北陸方面軍の総大将となった北条朝時でしたが、3つのルートのうち北陸道軍が一番の問題ルートでした。
京までの道のりが他と比べて遠いだけでなく、北陸道が平氏残党である城一族や木曾義仲の残党が残る地域であったためです。
鎌倉を出陣した北条朝時率いる北陸道軍4万騎は、越後国府のある日本海近くまで北上し、承久3年(1221年) 5月29日、後鳥羽上皇の近臣である藤原信成の家人・酒匂家賢らが籠る越後国加地荘の願文山城を撃破し、初戦を飾ります。
その後、北陸道軍は、同年5月30日に越後国の国府に到着した後、同年6月9日には越中国と加賀国の国境に位置する砺波山に布陣した朝廷軍を撃破した後、同年6月中旬頃(承久記・慈光寺本だと6月17日、百練抄だと6月20日、武家年代記だと6月24日)に入京を果たしています。
そして、北条朝時は、承久の乱の後に上皇方に荷担した藤原範茂の処刑を行っています。
出世を重ねる
和田合戦と承久の乱で大功を挙げた北条朝時は、その後出世の階段を駆け上がっていきます。
北条朝時は、貞応2年(1223年)10月の時点で、かつて外祖父・比企朝宗が北陸道勧農使(守護の前身)として治めていた加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任し、元仁元年(1224年)1月23日には従五位下・周防権守に転任しています。
元仁元年(1224年)6月に父・北条義時が死去すると、遺領配分により大量の所領を与えられ、北条朝時の名越流は一族内でも高い家格を持つ有力な家となります。
なお、北条義時の死の際、北条泰時と北条時房が六波羅探題として在京していたため、鎌倉にいた北条朝時が蜂起するのではないかとの噂が立ったのですが、北条朝時ではなく北条政村の母(北条義時の後妻)であった伊賀の方が、その兄である伊賀光宗と共に、娘婿の一条実雅(藤原実雅)を鎌倉殿・北条政村を執権に据えて、伊賀一族で鎌倉幕府の権力を握ろうとしたクーデターを起こしたため(伊賀氏の変)、北条朝時の蜂起の話は噂限りで終わっています。
後日談として、嘉禄元年(1225年)5月の北条義時の喪明けについて、北条重時以下の弟が北条泰時に従って行っているのに対して、北条朝時は自らが北条の本流という自負から前日に単独で行っていることから(吾妻鏡・5月11日条、12日条)、北条朝時蜂起の噂も案外噂ではなかったのかもしれませんが。
その後も、嘉禄元年(1225年)9月17日には越後守に転任、貞永元年(1232年)8月21日には従五位上に昇叙、嘉禎2年(1236年)7月20日には遠江守に遷任しています(なお、その後も、暦仁元年(1239年)7月20日に正五位下に、仁治2年(1241年)4月23日に従四位下に昇叙しています。)。
なお、北条朝時は、嘉禎2年(1236年)9月10日には評定衆に加えられたのですが、1回出席しただけですぐに辞退して幕府中枢から離脱しています。
北条朝時の最期
出家(1242年5月)
仁治3年(1242年)5月17日、北条泰時が病を得て出家したことに伴い、北条朝時もまた翌日に出家して生西と号しました。
北条朝時がこの時期に出家した直接的な理由は不明ですが、詳細は不明ですが北条朝時を中心とする名越一族に不穏な動きがあり、北条泰時の死の前後に将軍御所となっていた若宮大宮幕府が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖されたとも言われており、その結果北条朝時が出家するに至った可能性が考えられています。
北条朝時死去(1245年4月6日)
その後、北条朝時は、寛元3年(1245年)4月6日、53歳で死去します。
北条朝時死去した後も、名越流は得宗家に常に反抗的であり、北条朝時の嫡男である北条光時をはじめとして、その後も一族が宮騒動、二月騒動などでたびたび謀反を企てています。