安達盛長(あだちもりなが)は、伊豆国に流された源頼朝の最初の家人となった人物です。
比企尼の命により、罪人として家臣を持つことを許されなかった源頼朝の事実上の世話回りをし、後に鎌倉幕府の上位御家人となっています。
本稿では、最終的には13人の合議制の1人になるにまでに出世をし、鎌倉時代に繁栄した安達氏の祖となった人物となった安達盛長の生涯について見ていきたいと思います。
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安達盛長の出自
出生(1135年)
安達盛長は、保延元年(1135年)、藤原北家魚名流・小野田兼広(または小野田兼盛)の子として生まれたとされています。
兄は藤原遠兼と言われ、その子が足立遠元とされていることから足立遠元は安達盛長の年上の甥にあたります。
安達盛長が安達姓を名乗ったのは奥州合戦後に陸奥国安達郡を領した後のことであり、吾妻鏡ではもっぱら通称である「藤九郎」とされ姓は明確にされていないこと、安達盛長以前の家系は系図によって異なっていることなどから、実は、それ以前の安達盛長の姓は明らかではありません。
もっとも、尊卑分脈において小野田姓であったとされているところ、小野田荘が三河国にあり後に安達盛長が三河守護に任命されていることを考えると当初は小野田姓を名乗っていた可能性が高いと考えます。
なお、本稿では混乱を避けるため、「安達盛長」の名で統一して説明します。
配流中の源頼朝に仕える
安達盛長は、伊豆に配流となった源頼朝に仕えることとなるのですが、この経緯については源頼朝と比企尼の関係について説明しないと意味が分かりませんので、一部安達盛長の説明から脱線して説明します。
源頼朝は、久安3年(1147年)4月8日に源氏棟梁であった源義朝の三男として尾張国愛知郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)で生まれます。
源氏の御曹司として生まれましたので、その教育については乳母に委ねられることとなり、源頼朝の乳母としては、現在判明しているだけで比企尼(比企能員の養母)・寒河尼(結城朝光の母)・山内尼(山内首藤経俊の母)の3人存在していました。
そのため、源頼朝は、これらの乳母による教育を受けながら、京で貴族として生活し成長をしていきます。
ところが、源頼朝は、平治元年(1159年)に勃発した平治の乱に敗れて伊豆国に流されることとなったのですが、その際に、乳母・比企尼も武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允と共に京から領地へ下り、源頼朝を見守っていくこととなります。
武蔵国に降った比企尼は、以降、源頼朝が挙兵する治承4年(1180年)まで、20年もの間,源頼朝に対する仕送りを続けてその生活を支えます(『吾妻鏡』寿永元年10月17日条)。
また、比企尼は、3人いる娘のうち、長女・丹後内侍(京の二条院に女房として仕えていました。)を安達盛長に再嫁させ、娘婿となった安達盛長を源頼朝の下につけて、罪人であるために家人を持つことを許されない源頼朝の世話係をさせることとしたのです。
この比企尼の配慮により、安達盛長が、若き源氏の棟梁・源頼朝に仕える最初の家臣となったのです。
源頼朝と北条政子の仲介(1176年3月)
源頼朝の世話をすることとなった安達盛長は、ボンボンであるために自分のことすらままならない源頼朝の世話に奔走します。
女癖の悪い源頼朝の代わりに、恋の仲介までさせられています(実際には、女癖が悪いという意味だけではなく、源頼朝が東国武士を取り込むために有力者の娘に手を出していたという側面もあります。)
源頼朝が伊豆の大豪族・伊東祐親の娘に手を出して伊東家を追われ北条時政の下に逃げ込んだ後には、安達盛長は、源頼朝による北条家の女性へのアプローチに手を貸しています。
なお、北条家での源頼朝の恋の対象者は、当初は北条政子ではなく、「北条政子の妹(阿波局か?)」でした。
当時の結婚は、夫が妻の下に通う婚姻の形態である「妻問い」婚が当たり前でしたので、源頼朝は、恋文をしたためて、北条政子の妹の下へ届けさせようとします。
ところが、この恋文を届ける使者を務めた安達盛長が、誤ってこの恋文を北条政子の妹ではなく北条政子に届けてしまいます(曽我物語)。
その結果、恋文を受け取った北条政子は、地方土豪の娘が源氏の御曹司に見染められたと思ってのぼせ上がり、後の源頼朝と北条政子の結婚につながったとも言われています。真偽は不明ですが。
源頼朝の下で活躍する
源頼朝の挙兵に従う(1180年8月)
安達盛長は、源頼朝の最初の従者であったことから、挙兵直後から源頼朝に付き従っています。
そのため、治承4年(1180年)8月17日の山木兼隆館襲撃、同年8月23日の石橋山の戦いにも参戦しています。
また、石橋山の戦いの戦いに敗れた後は、源頼朝と共に安房国に逃れた後、源頼朝の命を受けて下総国の豪族であった千葉常胤の下に向かい味方になるよう協力を要請しています。
そして、その後、同年10月20日の富士川の戦いを経て、鎌倉に入っています。
上野国奉行人就任(1184年)
源頼朝が鎌倉に入ると、安達盛長もこれに同行し、源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造に尽力しています。
そして、鎌倉に入った源頼朝から、鎌倉・甘縄に屋敷地を与えられます。なお、このとき与えられた安達盛長の屋敷は、現在の甘縄神明神社付近とされており神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っているのですが、近年の研究では扇ガ谷の無量寺谷付近とも考えられているため、正確なところはわかりません。
さらに、元暦元年(1184年)ころには上野国の奉行人に任命され、国内公領の収税事務を担います。
また、安達盛長は、娘(亀御前)を源頼朝の異母弟である源範頼に嫁がせており、鎌倉幕府内で重要なポジションを担っていたことがわかります。
安達姓に改姓する
その後も、安達盛長は源頼朝に付き従い、文治5年(1189年)には、奥州合戦に従軍して武功を挙げ陸奥国安達郡を領して本貫とします。
そして、安達郡を領したことをきっかけとして改姓し、以降、安達盛長を名乗るようになります。
このころになると、安達盛長も老年期に達していたのですが、公式に家来を持つことを禁止されていた流人の時代から数少ない実質的な従者として身辺に侍っていた安達盛長に対する源頼朝の信頼は厚く、源頼朝が私用で何度も安達盛長の屋敷を訪れいる事が記録されています。
また、建久2年(1191年)3月に発生した大火により幕府の建物が焼失した際、源頼朝は5ヶ月もの長きに亘って安達盛長の屋敷に滞在をするなど、その関係性の深さがうかがえます。
建久10年(1199年)1月13日に源頼朝が死亡すると、安達盛長も出家して蓮西と名乗るようになります。
13人の合議制(1199年4月12日)
源頼朝の死亡により第2代鎌倉殿に就任した源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、建久10年(1199年) 4月12日、有力御家人によるクーデターが起き、源頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、将軍権力を抑制するために13人の合議体制を確立します。
突出した軍事的武功も政治的才能もなかった安達盛長ですが、当初から源頼朝に付き従ったという忠誠心と野心の低さから、13人の合議制の1人に任命され、宿老として幕政に参画するようになります。また、同年、初代三河守護にも就任しています。
その後、正治元年(1199年)7月ころ、第2代鎌倉殿・源頼家の命令を受けた中野能成・和田朝盛・比企宗員・小笠原長経らが、安達景盛の留守中にその愛妾を奪わって誅殺しようとする事件が起こったのですが、このときは、北条政子が、安達景盛の愛妾を救いまた源頼家を諫め(吾妻鏡)、他方、安達盛長が安達景盛に起請文を書かせることにより、なんとか事態の収拾につなげています。
また、正治元年(1199年)秋に起こった梶原景時の変では強硬派66人の1うちの1人となって梶原景時排斥に尽力しています。
安達盛長の最期
老齢であった安達盛長は、13人の合議制に列せられて間もなくの正治2年(1200年)4月26日、病により死亡します。享年は66歳でした。