牧の方(まきのかた)をご存じですか。
鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の継室であり、北条時政を取り込んで、息子を2代目執権(北条家当主)にしようとしたり、娘婿を第4代鎌倉殿にしようとしたりするなど、権力への執着を見せた女性です。
最終的には、北条時政の先妻派閥(北条政子・北条義時・阿波局ら)に敗れて出家させられたのですが、そこに至るまでの経緯が波乱万丈です。
本稿では、権力に魅せられた女性である牧の方の人生について見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
牧の方の出自
出生
牧の方は、平氏に仕えていた駿河国・大岡牧(現在の静岡県沼津市)の荘官であった牧宗親の娘(または妹)として生まれます。
生年や名は不明であり、牧一族の娘であったため牧の方と言われています。
北条時政の継室となる(1182年ころ)
牧の方は、寿永元年(1182年)ころまでに、北条時政のを継室として迎えられます。なお、愚管抄には「ワカキ妻」と書かれていることから、保延4年(1138年)生まれの北条時政とは相当の年齢差があったものと思われます。
牧の方を継室に迎えるまでに、北条時政は、北条宗時・北条政子・北条義時・阿波局・北条時房などを儲けていましたので、牧の方の年齢は北条時政より北条時政の子たちに近かったのではないかと思われます。
もっとも、年が離れていたとはいえ、北条時政と牧の方との仲は睦まじかったと言われており、2人の間には、文治5年(1189年)の長男・北条政範や少なくとも3人の娘が生まれています。
北条家の実権簒奪に失敗
北条時政・義時の不和(1182年11月)
(1182年)7月、北条家において、北条時政と北条義時の関係に亀裂を生じさせる事件が起こります。
この頃、初代鎌倉殿・源頼朝が、良橋太郎入道の娘である亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになったのですが、北条政子が、この事実を牧の方から知らされ激怒します。
怒った北条政子は、同年11月、牧の方の父である牧宗親に命じて、亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊して亀の前を追い出した上、伏見広綱を遠江国へ流罪にしたのですが、この話を聞いた源頼朝も激怒し、牧宗親を詰問した上で自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えます。
この話を聞いた北条時政が、義父を辱められたことに対する抗議として、北条一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになったのですが、この北条時政の講義に対し、家子専一とされた北条義時(このときは、江間の地を与えられて江間小四郎義時と名乗っていました。)は、父・北条時政に従わず、鎌倉に残留することにより源頼朝への忠誠を示したため、北条時政の敵意を買うこととなってしまいました。
北条義時を分家扱いとする
その後、牧の方は、北条時政の寵愛を受けて文治5年(1189年)に北条政範を生み、また3人の娘を、平賀朝雅(源頼朝の猶子)、三条実宣(公卿)、宇都宮頼綱(有力御家人)に嫁がせて多方面での後ろ盾を作っていきます。
また、牧の方は、自分が生んだ息子・北条政範に北条家を継がせるため、北条時政と疎遠になりつつあった北条義時を北条家の分家扱いとさせます。
これにより、北条義時が、北条本家から出されたこと、すなわち北条家の家督を北条政範が相続するであろうことを周囲に知らしめることとなり、この辺りから、北条家は、北条時政の先妻派閥(北条政子・北条義時・阿波局ら)と、継室派閥(北条時政・牧の方・平賀朝雅ら)とのわだかまりが具現化していきます。
北条政範死去(1204年11月)
もっとも、牧の方による我が子・北条政範に執権職と北条家を継がせるというという目論見は失敗に終わります。
北条政範が、元久元年(1204年)11月に京で急死してしまったからです。
我が子を失って気落ちする牧の方と北条時政の下に、さらに悪い報が届きます。
先妻派閥との関係決裂(1205年6月)
その内容は、元久元年(1204年)11月、源実朝の正室となる坊門信子を鎌倉幕府の有力御家人たちが迎えに行った際、ついでに訪れた平賀朝雅の邸宅で開かれた祝宴で起こった平賀朝雅と畠山重保(畠山重忠の子)の口論によるものでした。
この口論自体は、周囲のとりなしでおさまったのですが、平賀朝雅がこの事件について、事実を捻じ曲げて牧の方に報告したことから一大事件に発展します。
牧の方は、娘婿が辱められたと考え、北条時政に対し、畠山重保が謀反を起こそうとしているなど荒唐無稽な報告をし、北条時政が牧の方の話を真に受けて、北条義時に命じて畠山重忠を攻撃させ、元久2年(1205年)6月22日、畠山家を滅亡させてしまったのです。
北条義時は、他の御家人の信頼が厚い畠山重忠を討つことにためらいがあったのですが(吾妻鏡)、この時点で父・北条時政を制する力はなかったため、やむなく武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼすこととなりました。
人望のあった畠山重忠を強攻策をもって殺したことにより、御家人の間に北条時政と牧の方に対する反感が生まれていきます。
また、畠山重忠の妻は北条時政の先妻の娘であり、この2人の間に生まれた子が畠山重保であったことから、畠山重保は北条時政の孫にあたるのですが、北条時政が、孫と後妻(継室)の娘婿との喧嘩に介入し、後妻の娘婿に肩入れして、孫と先妻の娘婿を殺すという決断をしたわけですから、北条時政・牧の方(継室派閥)と北条義時(先妻派閥)との反目も決定的となります。
鎌倉幕府の実権簒奪に失敗
平賀朝雅鎌倉殿就任計画(1205年閏7月)
北条政範の死去により北条家次期当主の母となることに失敗した牧の方は、北条時政を煽って、別の方法で更なる権力を求めます。
このとき、牧の方と北条時政が狙ったのは、こともあろうに次期鎌倉殿の座でした。
北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月、第3代鎌倉殿である源実朝を暗殺して、娘婿である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする動きを見せます。
このとき神輿として担がれた平賀朝雅もその気になり、北条時政と牧の方の計画に加担します。
具体的には、第3代鎌倉殿であった源実朝を暗殺し、娘婿の平賀朝雅を第4代鎌倉殿に据え、そのフィクサーとして北条時政と牧の方が君臨するという計画でした。
源実朝暗殺失敗(1205年閏7月19日)
そして、元久2年(1205年)閏7月19日、牧の方と謀った北条時政が、源実朝を暗殺するため、北条政子の邸から北条時政邸に源実朝を招き入れたのですが、この動きに危機感を感じた北条政子・北条義時・阿波局らが、結城朝光・三浦義村・長沼宗政らを北条時政邸に遣わして、北条時政邸にいた源実朝を奪還します。
このときの北条義時の動きに、北条時政に味方していた御家人までも同調したため、北条時政・牧の方による源実朝暗殺及び平賀朝雅将軍就任計画が失敗に終わります。
北条時政失脚(1205年閏7月20日)
鎌倉殿・源実朝暗殺計画が失敗に終わって完全に孤立無援となった北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月20日に出家させられることとなり、翌同年閏7月21日、鎌倉から追放されて伊豆国にて隠居することとなりました。
なお、元久2年(1205年)8月2日、北条時政のクーデターに加担した平賀朝雅も、北条義時の命により殺害され牧氏の変は終わります。
牧の方のその後
伊豆に隠居した北条時政は、その後復帰することなく、建保3年(1215年)に腫物のため死去します。
他方、牧の方は、北条時政の死後、平賀朝雅の元妻であった娘が公卿の権中納言・藤原国通に再嫁したことを頼りとし、娘を追って上洛し、京で余生を過ごしています。
なお、牧の方の京での生活は贅沢三昧であったようで、嘉禄3年(1227年)3月に藤原国通の邸で北条時政の13回忌が行われ際、一族を引き連れて諸寺詣に行く牧の方の振る舞いが明月記に記され、筆者の藤原定家に批判されています。
その後の牧の方の記録は存在しておらず、牧の方の没年等は不明です。