【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年(1569年)1月4日、三好三人衆が、京の本圀寺に宿泊していた室町幕府第15代将軍・足利義昭を襲撃した大事件です。

発生した場所から六条合戦とも言われます。

三好長慶死後に勃発した三好家の内紛を利用して上洛した織田信長・足利義昭によって京を追われた三好三人衆が、織田信長が本拠地・岐阜に戻ったことにより警備が手薄となった隙を狙い、将軍暗殺と畿内復帰を試みるために起こった事件です。

殺害寸前まで追い込まれた足利義昭を幕府奉公衆などが必死に守ったことで失敗に終わった事件なのですが、それまで幕府足軽衆の1人として埋もれていた明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなった戦いとしても有名です。

本圀寺の変発生の経緯

織田信長の上洛(1568年9月)

永禄11年(1568年)9月、当時畿内を支配していた三好家中の内紛を利用した織田信長が、三好家内紛の一方当事者である大和国の松永久秀や北近江の浅井長政と同盟を組むことで足場固めを行った上、神輿として足利義昭を奉じて上洛作戦を決行します。

武家の棟梁である足利家の御曹司を掲げた上洛作戦でしたので,道中で多くの者が参加してきた結果、織田信長による上洛軍は5万人ともいわれる大軍勢に膨れ上がりました。

そして、織田信長は、この大軍勢を用いて同年9月12日〜13日に観音寺城を力攻めして六角義賢・六角義治親子を蹴散らした後(観音寺城の戦い)、同年9月28日に入京を果たします。

織田信長による畿内制圧

上洛を果たした織田信長は、足利義昭を京に送り届けた後、足利義昭の名を利用して自らが率いてきた大軍勢を利用して三好三人衆の支配力が及んでいる畿内掃討作戦を決行します(勝手に集まった兵で戦が出来たため、織田信長にとっては極めて有意な状況でした)。

そして、大軍に任せた大規模侵攻作戦を展開し、以下の城などの三好三人衆の畿内拠点を次々と陥落させていきました(なお、織田信長は、畿内掃討作戦中の足利義昭の安全を図るため、攻略した直後の芥川山城に足利義昭を入城させています)。

① 勝龍寺城:守将・石成友通勝竜寺城の戦い)、

② 芥川山城:守将・三好長逸

③ 木津城:守将・細川昭元

④ 池田城:守将・池田勝正

⑤ 越水城:守将・篠原長房

⑥ 滝山城などを

織田信長率いる大軍に太刀打ちできなかった三好三人衆は畿内戦線を維持することが出来ず、ついには三好分家の本拠である阿波国へ逃亡することとなったのです。

そして、三好三人衆を追い出した織田信長が、新たな畿内の統治者に成り上がりました

足利義昭が本圀寺に入る(1568年10月14日)

三好三人衆が阿波国に逃亡した結果、自らを脅かす危険が去ったと判断した足利義昭は、永禄11年(1568年)10月14日、芥川山城を出て再度入京し、六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺を仮御所として同寺に入ります。なお、本圀寺の名称は貞享2年・1685年に徳川光圀から一字を貰って本圀寺(「圀」は則天文字)と改名した後のもので、そこまでの名称は「本國寺」だったのですが、現在では本圀寺の変という言い方が一般的ですので、混乱を避けるために本稿では「本圀寺」で統一します。また、このときの本圀寺は、現在ある京都市山科区とは場所が違いますので注意が必要です。

そして、足利義昭は、同年10月22日、同寺において室町幕府第15代征夷大将軍に任命されるに至りました。

織田信長美濃へ帰国(1568年10月26日)

この結果、織田信長は、足利義昭を上洛させ、将軍宣下を受けさせるという上洛目的を達成します。

そこで、織田信長は、足利義昭の警備を近江国・若狭国の国衆約2000人と足利義昭直属の奉公衆に託し、永禄11年(1568年)10月26日、本拠地である美濃(岐阜)に帰国します。

ところが、この織田信長の帰国が問題を引き起こします。

将軍となって武家の棟梁となった足利義昭ですが、元々僧侶に過ぎなかったこともあり自由に動かすことができる軍事力を持っていません。このとき足利義昭を守っていたのは前記の2000人のみでした。

そのため、織田信長が大軍を引き連れて岐阜に戻ったことにより足利義昭のいる京の守りは極めて脆弱となりました。

この状況を見て、四国に追いやられていた三好三人衆が足利義昭を亡き者として京を奪還する計画を立案します。

遡ること3年前の永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆に(永禄の変)、将軍暗殺についての迷いなどありません。

また、これに、美濃国を奪われ織田信長に恨みを持つ斎藤龍興も加勢します。

本圀寺の変(六条合戦)の経過

三好三人衆挙兵(1569年1月4日)

三好三人衆は、阿波国で動員した兵を率いて畿内に上陸した後、さらに畿内で兵を動員し、1万人に膨れ上がった軍勢を引き連れて京に向かって進軍し、永禄12年(1569年)1月4日、東福寺近辺に陣を置きます。

将軍山城焼失(1569年1月5日)

この点、防衛力が乏しかった京では、町を戦場にすることは想定されておらず、現在の京都市左京区北白川清沢口町所在の瓜生山に防衛のための詰の城(将軍山城)が築かれていたため、三好三人衆軍迫るの報を聞いた足利義昭は将軍山城に籠るはずでした。

ところが、三好三人衆は、永禄12年(1569年)1月5日、足利義昭が入る前に先んじて将軍山城に侵攻してこれを焼き払ってしまいます。

この結果、詰の城を失った足利義昭は、僅か2000人という寡兵で城郭構造を持たない本圀寺で三好三人衆軍1万人と戦わなけらばならないという危機的状況に陥りました。

幕府足軽衆・国衆の奮戦(1569年1月5日)

そして、永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆らが、薬師寺九郎左衛門を先懸けとして市中に火を放ちながら足利義昭がいる六条本圀寺に向かって進軍してきます。

これに対し、足利義昭の聞きを聞いた室町幕府足軽衆(室町幕府の徒歩で戦う武士の集団)が、当時上京にあった奉公衆の屋敷から本圀寺に駆け付けます。

この足軽衆の中の1人が明智光秀でした(信長公記)。なお、明智光秀が属していた足軽衆は幕府内では下層身分であり、細川藤孝が就いていた御供衆とは大きな身分差がありました。

幕府足軽衆の1人として本圀寺に入った明智光秀は、籠城戦の戦力として大筒・鉄砲で応戦し、敵兵の撃退を続けます。

他方、三好三人衆の先陣・薬師寺貞春の軍勢が、幾度も寺内への進入を試みますが、本圀寺を守る若狭国衆の山県源内、宇野弥七らに阻まれます。

結局初日は、本國寺の陥落には至らぬまま日暮れとなったため、三好三人衆の軍は、一旦引いて翌日の戦闘に備えることとなりました。

ところが、翌日である同年1月6日になると、将軍襲撃(本圀寺攻撃)の報が織田方の各将の下に届き、将軍直属の細川藤孝・和田惟政をはじめとして、三好本家の三好義継や、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭(本圀寺)に援軍として駆け付け、一気に形成が逆転します。

形勢不利となった三好三人衆は、退却を試みるも桂川湖畔で追いつかれ、足利方の軍勢と合戦に及んだものの大敗北を喫します。

参考:織田信長の出陣

また、永禄12年(1569年)1月6日、本拠地・岐阜で本圀寺襲撃の報を受けま織田信長もまた、大雪が降る中、直ちに10騎ばかりの供廻りを連れて出陣します。

そして、織田信長は、本来3日かかる120km近い行程をわずか2日で走破して同年1月8日本圀寺に到着しますが、このときは既に三好三人衆は撃退された後でした。

本圀寺の変の後

何とか三好三人衆を撃退したものの、本圀寺の変は、足利義昭・織田信長連立政権による京統治の脆弱さを露見させるに十分な重大事件でした。

京の安全が十分ではないと考えた足利義昭・織田信長はすぐに手を打ちます。

殿中御掟の制定(1569年1月14日)

まずは、永禄12年(1569年)1月14日、足利義昭と織田信長の協議によって「殿中御掟」を定め、統治についての基本方針を決定します。

なお、当初は9ヶ条だった「殿中御掟」は、2日後である同年1月16日に7ヶ条、永禄13年(1570年)1月23日に5ヶ条が新たに追加されて具体化されていきます(なお、これに伴い足利義昭の将軍権力の制限も進んでいきます。)。

足利義昭の防衛強化

次に、防衛力が脆弱な本圀寺を仮御所としている状況では、今後も足利義昭が害される危険性が生じるのではないかと危惧されます。

まだ足利義昭の権威を失うことができない織田信長は、急ぎ本圀寺の建築物を解体・移築する方法で将軍の在所として足利義昭の二条城の造営を開始します。

そして、13代将軍・足利義輝が使用していた二条御所・烏丸中御門第(現在の京都御苑南西部)に、二重の水堀と高い石垣を備える堂々たる城郭とする二条城が新たに築城され、足利義昭がそこに入ることとなりました。なお、このとき建築された二条城は、1603年に徳川家康が築城した現在の二条城とは異なる場所です。

これらの結果、将軍の城・統治の法を備えた足利義昭の下に、代々幕府に仕えてきた奉公衆をはじめとして多くの人材が集まってきたため、室町幕府の再興に向かうかに見えました。

その後

もっとも、その後、足利義昭による各地の大名・国衆に対して行った上洛要請と、これを無視した朝倉義景と幕府軍(実際は織田軍)の戦いにより、事態は予想外の方向に進んでいくこととなります。

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