天下分け目の戦いとして有名な関ヶ原の戦いですが、実は前日までは戦いの場所として予定されていたのが大垣城であり、約1ヶ月前に西軍諸将が入城し、決戦までの間にその他の西軍諸将や東軍諸将もまた大垣城に向かっていました。
ところが、決戦前日に大垣城に入っていた西軍諸将が城を出て関ヶ原に布陣してしまったため、急遽決戦の場が関ヶ原に移ることとなります。
本稿では、関ヶ原の戦いに至る経緯、合戦当初の布陣に加え、なぜこのような布陣となったのかについて説明したいと思います。
【目次(タップ可)】
大垣城に向かう両軍
西軍挙兵(1600年7月18日)
徳川家康が、慶長5年(1600年)6月、上杉景勝に対して謀反の疑いありとして、会津征伐の兵を興し、大坂を離れて会津に向かって進軍していくという事態が起こります。
このとき、徳川家康が大坂・伏見を離れ、同年7月1日に江戸に入った後、さらに会津に向かって進んでいったことを好機と見た石田三成は、同年7月17日、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の要請により徳川家康と入れ代わる形で毛利輝元を呼び寄せて大坂に迎え入れます(大坂城入場は同年7月19日)。
毛利家の助力を得た石田三成は、毛利輝元を総大将・石田三成を実質的指揮官とする対徳川家康連合軍を組織し、三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(内府ちがいの条々)を記して、諸大名に発送します。
その上で、同年7月18日、毛利輝元を盟主として石田三成らが対徳川家康をうたって大坂城で挙兵します。
このとき決定された当初の西軍(毛利輝元・石田三成ら)の計画は、主力を濃尾平野に結集して美濃迎撃ラインを構築し、清洲城を拠点として進軍して来るであろう東軍を木曽川・長良川などを天然の堀として利用して押しとどめ、これを伊勢から回り込んだ友軍で挟撃・殲滅するというものでした。
西軍東進
(1)丹後攻略戦(小野木重勝・1600年7月19日~)
そこで、前記作戦を基に、西軍は、徳川家康が出陣した際の控えとして大坂城に毛利輝元率いる3万人を残した上で、残る兵を2つに分け、1つが予定地点の大垣城に、もう1つが大坂城と大垣城との間にある東軍拠点を制圧するために出陣していきます。
まず、大坂城から出陣した西軍のうちの東軍制圧軍は、細川幽斎(細川藤孝)が守る田辺城に向かって小野木重勝らが率いる1万5000人でこれを取り囲み、慶長5年(1600年)7月19日から同年9月13日まで要して同城を攻略します。
もっとも、開城までに時間を要したため、丹波・但馬軍1万5000人は、その2日後の関ヶ原の戦い本戦には間に合いませんでした。
(2)伏見城の戦い(1600年7月19日~)
また、大坂城から出陣した西軍のうちの大垣城へ向かう軍は、鳥居元忠らが籠る伏見城に向かって毛利秀元・小早川秀秋・鍋島勝茂・長宗我部盛親・小西行長・島津義弘・大谷吉継らが率いる4万人の兵でこれを取り囲み、慶長5年(1600年)7月19日からから攻撃を開始し、同年8月1日、同城を攻略します。
その上で、伏見城を攻略した大垣城に向かう軍は、大谷吉継を分離して敦賀城に戻し、北陸方面の鎮圧に向かわせます。
(3)越前・加賀攻略戦(大谷吉継)
伏見城を攻略後に居城であった敦賀城に戻った大谷吉継は、3万1000人を預かって敦賀から北陸方面に向かい、越前や加賀南部における諸大名に対して反徳川の協力を求める調略を繰り返し行い、越前国と加賀国南部の諸大名を石田方(西軍)につけることに成功します。
この結果、慶長5年(1600年)8月9日、北陸の関ヶ原とも言われる浅井畷の戦いが勃発し、3000人の丹羽長重軍(西軍)が、2万5000人の前田利長軍(東軍)を破ります。
その後、石田三成からの招集要請を受け、大谷吉継は、同年9月に脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの与力諸将を率いて美濃国に向かっています。
(4)石田三成の大垣城入り(1600年8月10日)
他方、大谷吉継隊を分離した大垣城に向かう軍は、さらに軍を石田三成隊・小西行長隊・毛利隊の三隊に分け、各隊が各地を制圧しながら大垣城付近での合流を目指します。
そして、まずは石田三成隊2万人がまっすぐ大垣城に向かって進み、慶長5年(1600年)8月10日、大垣城主であった伊藤盛正と交渉して大垣城を借り受けてこれに入り、防御を固めます。
また、小西行長隊1万人が、交通の要衝地であった瀬田に立ち寄ってこれを確保した後、石田三成の待つ大垣城に入ります。
(5)伊勢攻略戦(毛利秀元・吉川広家)
また、毛利秀元隊3万人は、旧東海道交通の要衝地であった伊勢国を確保するため、同国に向かって進んでいきます。
このとき、伊勢国内に本拠地を置いていた、阿野津城の富田信高、上野城の分部光嘉、松坂城の古田重勝、岩手城の稲葉道通などは徳川家康の会津遠征に従軍して留守の状態でした。
この状況下で、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・鍋島勝茂・長束正家らが率いる3万人の大軍勢が伊勢国に侵入します。
伊勢国内の諸城は、徳川家康に援軍を要請しようとしたのですが、制海権を有する九鬼嘉隆率いる九鬼水軍に阻まれて目的を達せず、瞬く間に伊勢国が西軍に制圧されていきました(阿濃津城の開城は同年8月25日)。
伊勢国を制圧した毛利秀元隊は、徳川家康の反転と大津城離反の報を聞いた後に大垣城方向に向かって進んでいきます。
(6)大津城の戦い(1600年9月)
石田三成・小西行長らが大垣城に入り、慶長5年(1600年)8月頃に荷は北陸方面から大谷吉継がこれに合流しようと進んでいたところ、慶長5年(1600年)9月1日に大谷吉継隊に合流するために大津城を出発した京極高次隊が、翌同年9月2日には越前国の東野に至ったところで海津を経て船で大津城へと戻ってしまいます。
さらに、京極高次は、同年9月3日、東軍へ与することとして大津城い城兵を入れ、兵糧を運び込んで籠城戦を始めます。
東軍に与する旨は、京極高次から徳川家康方の井伊直政に伝えられたのですが、他方で西軍にもすぐに知られることとなります。
大津城は城自体が琵琶湖に面した舟運基地であり、また城下には東海道・中山道・西近江路が束ねられていることから、ここが押さえられると既に西軍が進出した越前・美濃・伊勢方面と上方とを結ぶ交通が遮断されてしまうこととなります。
そこで、西軍側は早急に京極高次の寝返りに対処する必要に迫られました。
西軍としては、大津城に近い逢坂関に展開していた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍を急ぎ大津城に派遣します。
また、大津城包囲戦に立花宗茂軍がこれに加わります(この結果、西軍の大津城攻城兵は1万5000人にまで膨れ上がります。)。
その結果、同年9月15日、京極高次が大津城を出て近くの園城寺に入ることにより大津城が陥落します。
もっとも、同日に関ヶ原の戦いが起こったため、大津城攻めをしていた西軍兵は関ヶ原の戦いの戦いに間に合わず、結果として西軍敗北に寄与することとなっています。
東軍大名反転
(1)小山評定?(1600年7月25日)
慶長5年(1600年) 7月24日、伏見城を守っていた鳥居元忠からの急使によって石田三成の挙兵を知った徳川家康は、翌同年7月25日に下野国小山において、徳川家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したと言われています(いわゆる「小山評定」。もっとも、小山評定についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義についての真偽は不明です。)。
小山評定の結果、徳川家康率いる軍は、上杉景勝に対する控えとして宇都宮に結城秀康を残して反転することとします。
(2)東軍先行隊西進
そして、慶長5年(1600年)7月26日以降、福島正則と池田輝政を先遣隊とし、その後も続々と諸大名が西上していきます。
まず、福島正則が同年8月10日に居城の尾張国清洲城に入り、さらに東軍諸将の多くも8月14日までに清洲城に集結します。
他方、東軍の総大将となりうる徳川家康が江戸を経由して東海道を行軍し、また徳川秀忠が中山道を行軍して西上を開始する方向で進められます。
(3)徳川家康江戸入り
小山から江戸に入った徳川家康は、直ちに動くことはせず、西軍の動きについての情報収集に取り掛かります。
また、あわせて周辺大名の調略のためや味方する大名に指示を出すために、短期間で多数の書状を乱発します。
岐阜城陥落(1600年8月23日)
8月21日、東軍は福島正則を大将にした一軍が木曽川の下流にある尾越から、池田輝政を大将にした一軍が上流の河田からそれぞれ渡河を開始します。
(1)福島正則隊の動き
福島正則隊は、木曽川下流の尾越から加賀野井城・竹ヶ鼻城を攻略し、織田秀信が治める岐阜に向かって進軍しています。
(2)池田輝政隊の動き
また、池田輝政隊(浅野幸長・山内一豊・有馬豊氏・堀尾忠氏ら1万8000人)は、福島正則隊のやや上流域を通っており、河田の渡しを通って米野を通るというルートで岐阜城を目指します。
慶長5年(1600年)8月21日に木曽川左岸の河田の渡しに達した池田輝政隊に対し、岐阜城主であった西軍に与する織田秀信が配下の木造具康・百々綱家らに3200人の兵を預けて対岸の米野に布陣させ、その後方に6000人を配するという二重の防衛線をもって東軍が木曽川を越えてくるのを防ぐため待ち受けます。
もっとも、3200人の兵で1万8000人を防げるはずもなく、同年8月22日、簡単に東軍の木曽川渡河を許してしまい(河田木曽川渡河の戦い)、木曽川を渡河した東軍によって米野の防衛戦もその日のうちに打ち破られてしまいます(米野の戦い)。
(3)岐阜城の戦い(1600年8月23日)
別個に木曽川を渡河した福島正則隊と池田輝政隊がそのまま岐阜城に押し寄せ、大手口には福島正則隊が、搦手口には池田輝政隊が取り付きます(池田輝政はかつて岐阜城主であったこともあり勝手がよくわかってました。)。
これに対し、織田秀信は岐阜城の本丸に籠って抵抗したのですが、福島隊・池田隊の猛攻に屈して慶長5年(1600年)8月23日に降伏します。
(4)作戦変更
岐阜城陥落により、木曽川を天然の堀として利用して東軍と戦うとの作戦が失敗に終わったため、西軍は、当初の作戦を変更して前線を後退させた作戦変更をします。
このとき変更された西軍の作戦は、石田三成らが大垣城に入って東軍の攻撃を凌ぎ、城を包囲する東軍をその外に布陣した西軍兵と大垣城兵とで挟撃して殲滅するというものでした。
西軍諸将が予定地点へ
(1)大谷吉継の藤川台入り(1600年9月3日)
慶長5年(1600年)9月3日、北陸方面から与力大名を連れた大谷義継隊が関ヶ原に到着し関ヶ原の西のはずれに位置する山中村に陣所を構築します。
これは、大谷吉継隊が、東軍が東山道(中山道)を通って近江国を目指すことを想定しており、この動きを封じるために西軍の中でいち早く関ヶ原へ到達し、東山道上の要衝地に陣を敷いたのです。
いわゆる東軍の足止めのための布陣です。
もっとも、その後の同年9月14日に小早川秀秋隊が松尾山に入ってきたのですが、このときの小早川秀秋の動きに東軍内応への疑問を持ったため、これをけん制するために与力大名であった戸田重政・平塚為広・木下頼継・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治らを、東軍と小早川秀秋の双方をけん制できる位置に展開させています。
(2)毛利秀元・吉川広家らの南宮山入り(1600年9月7日)
慶長5年(1600)9月7日、伊勢国から北上してきた毛利軍が関ヶ原に到着し、南宮山に散開して布陣します。
毛利軍が南宮山に入ったときはまだ石田三成が大垣城に入っており、関ヶ原付近で東軍を足止めすると共に東軍に大垣城を攻めさせ、それを大垣城兵と南宮山に配した毛利軍や遅れてくる友軍とで挟撃する目的でした。
そこで、毛利軍は、南宮山の西側(関ヶ原側)ではなく、東側(大垣城側)に布陣したのです。
なお、毛利家には、別途、総大将となる予定の毛利輝元のために、松尾山が準備されていたのですが、毛利輝元が大阪城から動かなかったため、僅か19万4000石を領するに過ぎない石田三成が関ヶ原で総指揮を執ることとなったために、西軍大大名たちに強権発動が出来ず、苦しい指揮で戦うことを強いられることとなります。
(3)小早川秀秋の松尾山入り(1600年9月14日)
西軍総大将として毛利輝元の出陣が望めないことが分かったために、当初毛利輝元の陣所として予定されていた松尾山に伊藤盛正が入っていたのですが、慶長5年(1600年)9月14日、関ヶ原に到着した小早川秀秋が、松尾山の伊藤盛正を追い出して松尾山城に布陣してしまいます。
徳川家康赤坂到着(1600年9月14日)
岐阜城陥落の報を聞いた徳川家康は、慶長5年(1600年)9月1日、3万人の兵を率いて江戸を出発し、小田原(同年9月4日)、島田(同年9月6日)、岡崎(同年9月9日)、熱田(同年9月10日)、清洲(同年9月11日)へと進んでいきます。
そして、徳川家康は、同年9月14日に一旦落としたばかりの岐阜城に入った後、同日夜明け前に大垣方面に向かうために岐阜城を出立します。
その後、徳川家康は、稲葉貞通らの先導により鵜舟を並べて造った舟橋を用いて長良川を渡り、同日正午頃に赤坂に進み、先発隊に迎えられて大垣城を見渡す中山道赤坂宿に到着し、岡山(関ヶ原の戦いの後に勝山に改名)頂上に設けられた陣所に入ります。
こうして東軍による大垣城攻撃の準備が整い、西軍としても当初の予定通りの大垣城防衛戦が始まるはずでした。
杭瀬川の戦い(1600年9月14日)
慶長5年(1600年)9月14日に徳川家康率いる東軍本隊が岡山に布陣したことで、大垣城に入っていた西軍兵に動揺が走ります。
この事態を憂慮した石田三成家老である島左近清興が士気を回復させるために東軍に奇襲をかけるよう進言し採用されます。
そこで、島左近は、大垣城と岡山との間にある杭瀬川に西軍兵を潜ませた上で、別部隊を率いて東軍の中村一榮隊の前に進んで刈田狼藉を始めて徴発します。
この挑発に中村一榮隊が乗ってしまったために小競り合いが始まり、そこに東軍の有馬豊氏も参戦して乱戦となります。
その後、島左近が、退却を装って中村・有馬隊を釣りだして伏兵に攻撃させます。ここでさらに宇喜多秀家配下の明石全登隊が追撃し、西軍勝利で小競り合いが終わります(杭瀬川の戦い)。
決戦予定地が大垣城から関ヶ原に変更
石田三成らが大垣城を出て関ヶ原に移動
以上のとおりの経過を経て大垣城の戦いが始まろうとしたところで事態が大きく動きます。
慶長5年(1600年)9月14日夜、大垣城に籠城する予定であった石田三成らが、守備兵として福原長堯以下7500人を残して主力を関ヶ原へ移動させたのです。
石田三成が突然当初の予定を変更した理由については、東軍本隊が到着して兵の士気低下が止まらなかった可能性や、小早川秀秋に不審な動きがあり退路を断たれる可能性があることを危惧した可能性などが考えられるのですが、正確な理由は不明です。
この石田三成の突然の移動は野戦での決着を意味しますので、城攻めが必ずしも得意と言えない徳川家康にとっても望むところですので、徳川家康は、大垣城に対する対応を水野勝成に任せ、自らは軍を率いて石田三成の後を追って関ヶ原に向かっていきます。
西軍の関ヶ原への布陣完了
大垣城を出て関ヶ原に移動した西軍主力部隊は、慶長5年(1600年)午前4時頃までに石田三成隊が笹尾山に、島津義弘隊・宇喜多秀家隊・小西行長隊らがそれぞれ天満山付近に布陣します。
また、前記のとおり、このときまでに南宮山には毛利秀元隊が、松尾山には小早川秀秋隊が、藤川台には大谷吉継隊が既に布陣していたため、大垣城から移動してきた部隊の布陣により西軍の全ての部隊の布陣が完了します。
なお、以上の西軍の布陣状況からすると、大垣城を出た石田三成は、石田三成・宇喜多秀家・小西行長などの西軍本隊で東軍先行隊を押しとどめ、その間に南宮山に布陣した毛利隊で東軍本隊を盆地内に押し込み、そこに松尾山を下りてきた小早川秀秋隊が横槍を入れることとし、盆地内で全方向攻撃をしかけて殲滅するという作戦へと当初の作戦を変更したことを見てとれます。
東軍諸将が関ヶ原へ
他方、大垣城を出た西軍主力を追って関ヶ原に向かった東軍もまた、少し遅れて関ヶ原に到着します。
慶長5年(1600年)9月午前5時頃には徳川家康本隊が桃配山に陣を敷き、同日午前6時頃に全軍の布陣を完了させます。
なお、合戦前の両軍の布陣は、以下の「第2」、「第3」の通りとされているのが一般的なのですが、信憑性の高い一次史料による記録はほとんどなく、関ヶ原の戦い後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物・軍記物などの二次史料を基に再現したものですので、必ずしも全て正しいというものではないということを前提として参照いただければ幸いです。
笹尾山方面(石田・宇喜多戦線)の当初布陣
西軍の当初布陣
前記のとおり、元々布陣していた部隊に大垣城から移動してきた部隊が加わって完成した最終布陣は以下のとおりとなります。
当然ですが、笹尾山方面(石田・宇喜多戦線)にいる石田三成からは、離れた南宮山方面(毛利戦線)に至っては状況すら把握できませんでした。
(1)石田三成(6000人・笹尾山)
大垣城を出立した石田三成は、戦場となる関ヶ原全体を見渡すことが出来る場所にあり、かつ面前(南側)の北国街道を押さえることができる高台(笹尾山)に入ります。
そして、その上で、左翼に島左近を、右翼に蒲生郷舎を配する形で笹尾山での布陣を完了します。
なお、一次資料に笹尾山が出てこないこと、笹尾山に遺構が認められないことなどから石田三成の布陣地が笹尾山ではなかったとする説も有力ですが、本稿では通説に従います。
(2)豊臣秀頼麾下(2000人)
(3)島津義弘・島津豊久(1700人)
関ヶ原の戦い当時の島津家の石高は56万石であったことから、1万5000人程度は動員できたはずなのですが、薩摩国で内紛が起こっていたこと、薩摩国に残った前当主である島津義久が西軍に与することに消極的であったことから、島津家では最大動員兵力の10分の1程度の兵しか関ヶ原の戦いに動員できませんでした。
(4)小西行長(6000人・北天満山)
(5)宇喜多秀家(1万7000人・南天満山)
宇喜多秀家隊は、西軍最大兵力である1万7000人を動員して南天満山に布陣します。
もっとも、最大兵力とは言え、前年に起こった宇喜多家のお家騒動で戸川・岡・花房などの重臣が出奔していたため、指揮に問題を抱えていたとも言われています。
この宇喜多秀家隊に、東軍の福島正則隊が攻撃を仕掛けることにより、関ヶ原の戦いが始まっています。
(6)大谷吉継(1500人・藤川台)
東軍が東山道(中山道)を通って近江国を目指すことを想定していた大谷吉継は、東軍が西進していくことを封じるため、東山道上の要衝地であった藤川台に陣を敷きます。
当初は、与力大名らを近い位置に配置していたのではないかと考えられるのですが、慶長5年(1600年)9月14日に松尾山に入ってきた小早川秀秋に東軍内応の疑惑を感じた大谷吉継は、これをけん制するために与力大名であった戸田重政・平塚為広・木下頼継・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治らを、東軍と小早川秀秋の双方をけん制できる位置に展開させたため、大谷吉継隊・その子の大谷義勝隊・与力大名隊は広範囲に布陣する形となっています。
(7)大谷義勝(3500人)
(8)戸田重政(300人)
(9)平塚為広(360人)
(10)木下頼継(750人)
(11)赤座直保(600人)
(12)小川祐忠(2100人)
(13)朽木元綱(600人)
(14)脇坂安治(1000人)
(15)小早川秀秋(1万5600人・松尾山)
関ヶ原の南西にある松尾山は、単なる山ではなく曲輪、堀切、土塁などで構築された本格的な山城となっていましたので、当初の予定では、ここに総大将として毛利輝元が入って西軍の総指揮をとる予定でした。
もっとも、毛利輝元が大坂城から動かなかったため、一旦は伊藤盛正が布陣したものの、慶長5年(1600年)9月14日、小早川秀秋が伊藤盛正を追い出して松尾山に布陣してしまいます。
東軍の当初布陣
慶長5年(1600年)9月14日から同年9月15日にかけて西軍が関ヶ原に移動し布陣が完了しつつあるとの報を聞いた東軍もまた動き始めます。
まず、先陣と決められていた福島正則隊が宇喜多秀家隊の前に、次いで黒田長政隊が石田三成隊の前「配置され、その後続々も諸隊が関ヶ原に向かって進んでいきました。
(1)福島正則(6000人)
福島正則隊は、徳川家康から東軍先陣を仰せつかっていたため、南天満山に布陣する宇喜多秀家に対面する位置にとなる東山道(中山道)・不破関跡の付近に布陣します。なお、このとき福島正則隊布陣地近くにあった春日神社内の月見宮大杉(樹齢800年と推定)は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれています。
そして、先陣の福島正則隊の先鋒は、槍の才蔵として有名な可児才蔵に任されます。
先陣を任された福島正則は、先陣を務めるために霧が晴れるのを待っていたのですが、横をすり抜けてきた井伊直政・松平忠吉が面前の宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ちかけたために(井伊直政の抜け駆け)、先陣を持っていかれるという結果となっています。
その後、気を取り直した福島正則は、そのまま宇喜多秀家隊に攻めかかり、天下分け目の戦いが始まります。
(2)黒田長政・竹中重門(岡山烽火場)
黒田長政は、この付近に所領を持つ竹中重門と共に行動をしており(なお、竹中重門は当初西軍に与していたのですが、黒田長政の調略により東軍に与することとなった経緯があります。)、竹中重門によるアドレスを受けて布陣する陣地を選んでいます。
このとき黒田長政隊が布陣した場所が岡山(丸山)なのですが、そこは石田三成の本陣に近い上、南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道を一望できる標高164mの高台にあり、主に平地に布陣したその他の東軍諸将と比べると極めて有利な場所に布陣しています。
福島正則隊(実際には、井伊直政隊・松平忠吉隊)により戦いの火蓋が切って落とされた直後、これを見ていた黒田長政隊から開戦を知らせる烽火が上げられたことから岡山烽火場と言われるようになっています。
(3)細川忠興
(4)加藤嘉明(3000人)
(5)田中吉政(3000人)
(6)藤堂高虎(2400人)
藤堂高虎隊は、東軍の第二陣部隊として、松尾山の小早川秀秋・藤川台の大谷吉継の控えとして東山道(中山道)の南側に布陣します。
関ヶ原の戦いが始まると、藤堂高虎隊は、京極高知隊と共に不破の関付近まで進み、大谷吉継及びその与力隊と交戦しています。
なお、現在は、関ケ原町立関ケ原中学校の敷地内に藤堂高虎及び京極高知陣所跡の石碑が建てられています。
(7)京極高知(3000人)
(8)松平忠吉(3000人・茨原)
徳川家康の四男であった松平忠吉は、井伊直政の娘をもらい受けていたために、井伊直政の娘婿という関係にありました。
そこで、松平忠吉は、義父である井伊直政と並ぶ形となり、現在のJR関ヶ原駅付近にて両軍合わせて約6000人の兵で布陣しています。
(9)井伊直政(3600人・茨原)
井伊直政は、中山道を進む徳川秀忠隊が到着していない状況下において、ほぼ唯一といっていい徳川軍の主力部隊でした。
なぜなら、このとき関ヶ原にいた徳川家の主な部隊は、大将の徳川家康隊、その子の松平忠吉隊、軍目付の本多忠勝隊(もっとも、本多隊の主力は中山道の徳川秀忠に付けられていました。)を除くと、当初からまともに戦えるのは井伊直政隊だけであったからです。
こうなると、戦いに勝っても、それは豊臣恩顧の大名たちの働きによるものとなることから、後の徳川家康の政権運営に豊臣恩顧の大名たちの影響力を排除できないため、唯一といっていい徳川家康麾下の部隊であった井伊直政としては関ヶ原で突出した武功を求められることとなってしまいました。
そこで、関ヶ原の戦いでは、合戦前に東軍の先鋒は最前線に布陣した福島正則と決められていたのですが、井伊直政は、松平忠吉と共に少数の兵を引き連れて霧が晴れるのを待っていた福島正則隊の横をすり抜けて最前線に立ち、そのまま前方に布陣する宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ちかけて関ヶ原の戦いの先鋒を担ってしまいます(俗にいう井伊直政の抜け駆け)。
なお、井伊直政が抜け駆けをしたのは、豊臣恩顧の大名である福島正則が先陣を務めることを嫌っただけでなく、自身の娘婿である松平忠吉に箔をつけよう考えたことなども理由の1つとなっています。
そして、このときの井伊直政の鉄砲が開戦の合図となります。
この井伊直政と松平忠吉の行為は明らかな軍律違反なのですが、相手が徳川家康の四男であるために、福島正則は抜け駆け行為を強く非難することはできず不問に終わっています。
(10)吉田重勝
(11)織田有楽斎(450人)
(12)金森長近
(13)生駒一正
(14)寺沢広高
南宮山方面(毛利戦線)の当初布陣
関ヶ原の戦いは、石田三成が布陣していた笹尾山方面が主戦場となったのですが、もう1つの主戦場となり得た場所がありました。
毛利一族が布陣していた南宮山です。美濃国府の南にあったために宮(南宮大社)があったためにその名がつけられた山です。
前記のとおり、当初は大垣城兵と南宮山の兵で東軍を挟撃するための布陣であったため、関ヶ原の主戦場とは離れた場所にあり、また関ヶ原の戦いが見えないという問題がある布陣でした。
他方で、東軍の大外に布陣していることから、徳川家康本隊を関ヶ原に押し込んで、東軍を完全包囲できるという絶好の位置関係でもありました。
西軍の当初布陣
(1)毛利秀元(1万6000人、南宮山)
前記のとおり、西軍は、当初は大垣城籠城戦を行い、大垣城に取りついた東軍を背後から攻撃するという作戦を立案していました。
そのため、毛利秀元をはじめとする毛利軍は、南宮山の北東方向(大垣城側)に向かって布陣をしています。
また、毛利軍は、関ヶ原の戦い本戦の1週間前である慶長5年(1600年)9月7日に南宮山に入って布陣を終えていますので、本戦が始まったときには既に陣城としての防衛構造ができていました。
(2)吉川広家(4200人)
吉川広家は、西軍に与した毛利家の主力部隊の1つとして南宮山の麓に布陣します。
吉川広家は、関ヶ原の戦いでの西軍敗北を確信していたため、事前に徳川方と南宮山から兵を動かさないことを条件として、戦後の本領安堵の確約を取り付けていました。
そのため、関ヶ原の戦いが始まった後も毛利秀元隊の前に居座って毛利軍を西軍に加担させないことで間接的に東軍勝利に貢献しています。
(3)安国寺恵瓊(1800人)
(4)長束正家
(5)長宗我部盛親(6600人)
東軍の当初布陣
吉川広家が事前に東軍に内通していたため、徳川家康は、南宮山に布陣した毛利軍からは攻撃を受けないという確約をえていました。
そこで、徳川家康は、主力部隊のほとんどを笹尾山方面に割り当てます。
もっとも、吉川広家が約束を違える可能性も捨てきてませんなで、徳川家康は、万が一に備えて南宮山方面にも部隊を配置します。
(1)徳川家康(3万人)
大垣城を出て関ヶ原に向かった徳川家康は、南宮山の北側を進み、験を担いで天武天皇元年(672年)の壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)が陣を敷いたとされる桃配山に布陣しますます(南宮山に布陣する毛利勢に対する備えという意味もあります。)。
なお、開戦時、徳川秀忠率いる徳川軍主力部隊が東山道(中山道)途上にあったために、関ヶ原に布陣する徳川家直属の兵は、徳川家康率いる3万人、井伊直政・松平忠吉率いる6000人、本多忠勝率いる500人程度であり、東軍のその他の部隊は徳川家康に与した豊臣恩顧の大名達でした。
そのため、東軍から離反者が出ればたちまち東軍が崩壊かねない状況で開戦を迎えることとなってしまいます。
(2)本多忠勝(500人)
本多忠勝隊は、毛利家が陣取る南宮山の西側に布陣します。
最前線に配された豊臣恩顧の大名と、桃配山に布陣した徳川家康との中間に位置しており、本多家の主力は中山道を進む徳川秀忠に従っていましたので、徳川家康四天王でありながら率いていた兵数が500人という少ない数であったことから、実働部隊というよりは軍監としての役割であったとも考えられます。
また、その主な役割は、最前線に配された豊臣恩顧の大名が裏切った際には徳川家康の壁となる役割を担ったものと考えられます。
実際、本多忠勝隊は、合戦が始まり毛利軍が約束通り動かないことを確認した後で徳川家康本隊が前進してきたことを見届けてからようやく合戦に参加しています。
なお、島津軍の敵中突破(島津の退き口)のルートに近かったこともあり、井伊直政らとともにその追撃に参加し、本多忠勝の乗馬であった名馬「三国黒」が撃たれていることでも有名です。
(3)有馬豊氏
(4)山内一豊
(5)浅野幸長
(6)池田輝政
関ヶ原の戦い開戦
慶長5年(1600年)9月15日未明、関ヶ原の地において両軍が以上のとおりの布陣が完了させます。
両軍の布陣が完了した直後は、前日の雨が影響したのか、関ヶ原一体に深い霧が立ち込めていて視界は僅かに十五間(30m)程度であったとされ(慶長記)、両軍は日が昇り霧が晴れるのを待つこととなりました。
そして、同日午前8時頃になってようやく霧が晴れていったことにより、両軍の布陣が明らかとなり、天下分け目の大戦がはじまりを迎えることとなるのです。