歴史好きが戦国最強の武将を挙げる場合に名が多く挙がる本多忠勝。
徳川家康に従って大小57回もの戦に参戦し、一度も傷を負わなかったという化け物です。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などからもその武勇が称賛され、特に、徳川家にとっては、徳川家康の命を数多く救ってきたこともあり徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑などにも名が挙がる江戸幕府成立の最大の功労者とも言えます。
本稿では、そんな本多忠勝の生涯について見ていきましょう。 “【本多忠勝】生涯57回の合戦で無傷の東国無双” の続きを読む
歴史好きが戦国最強の武将を挙げる場合に名が多く挙がる本多忠勝。
徳川家康に従って大小57回もの戦に参戦し、一度も傷を負わなかったという化け物です。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などからもその武勇が称賛され、特に、徳川家にとっては、徳川家康の命を数多く救ってきたこともあり徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑などにも名が挙がる江戸幕府成立の最大の功労者とも言えます。
本稿では、そんな本多忠勝の生涯について見ていきましょう。 “【本多忠勝】生涯57回の合戦で無傷の東国無双” の続きを読む
40年以上に亘って武田3代に仕え、70回を越える戦を常に最前線で戦ったにもかかわらず、命を落とすことになった長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかった「不死身の鬼美濃」馬場信春(何度か名が変わっていますが、本稿では馬場信春で統一します。)。
一国の太守になれる器量人であるとまで評される大器であったとも言われ、その最期も武田勝頼を生かすために犠牲になるという泣ける死際まで披露しています。
そんな猛将・馬場信春ですが、実は生まれの身分はそれほど高いわけではなく、武田信玄の下で自らの才覚により上り詰め名を挙げた武将です。
本稿では、そんな不死身の鬼美濃・馬場信春の人生を紹介したいと思います。
それまで戦局を優位に進めていた武田軍と、織田・徳川連合軍とのパワーバランスが一変するに至ったことで有名な戦いが、長篠・設楽原の戦いです。
勇猛果敢な武田騎馬隊が織田・徳川連合軍に突撃し、馬防柵の後ろから繰り返し撃ってくる鉄砲に一方的にやられまくった合戦というイメージを持っている人も多いと思いますが、実際にはそういう戦いではありません。
以下,長篠設楽原の戦いについて、そこに至る経緯から、合戦の結果まで順を追って説明します。 “【長篠・設楽原の戦い】武田家の国力を大きく落とした武田勝頼の大惨敗” の続きを読む
足利義教(あしかがよしのり)は、足利義満の四男ないし五男として生まれ僧籍に入るも、その後にくじ引きによって選ばれて室町幕府第6代将軍となった人物です。
とてつもなく高い能力を持っていたと言われており、その能力を発揮して衰えゆく室町幕府の権威を取り戻したという成果を挙げました。
他方で、権力を集めてやりたい放題やったため万人恐怖政治と恐れられ、後の織田信長を超える魔王とも言われた暴君でもあります。
本稿では、波瀾万丈の人生を送った足利義教の生涯について見ていきたいと思います。 “【足利義教】室町幕府6代将軍となった織田信長を超える魔王” の続きを読む
「賤ヶ岳七本槍」を知っていいますか。
織田信長が死亡した後、その実質上の後継者の座を巡って、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉と名乗っていましたが、本稿では豊臣秀吉で統一します。)と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いにおいて、比類なき戦功を挙げたとされる豊臣秀吉子飼いの武将7人のことです。
この賤ヶ岳七本槍は名前こそ有名なのですが、なぜこんなに有名となったのかについては、はっきりしていないことも多くあります。
本稿では、賤ヶ岳の戦いの概略と賤ヶ岳七本槍の活躍(?)について解説していきます。 “【賤ヶ岳七本槍】賤ヶ岳の戦いで活躍して出世した7人というのは本当か?” の続きを読む
茶室の入り口がなぜあんなに小さいのかと疑問に思ったことはありませんか。
私は、初めて見たとき、無知から、「入口ちっちゃ、入りにくい。」と単純に思いました。
茶室の入り口は、なぜこの様な作りになっているのでしょうか。
その理由は、それまでの茶の湯の世界を一変させ、現在に繋がる茶の道を作りあげた千利休が理想とした侘び茶の世界観にあります。
以下、茶室の入り口が狭い理由について、千利休が生涯をかけて大成させた侘び茶の世界観を紐解きながら見て行きます。 “【茶室の入り口・躙口が狭い歴史的理由】千利休の侘び茶の世界観” の続きを読む
白鷺城の別名を持つ姫路城は、木造建築の最高傑作として平成5年(1993年)に日本初のユネスコ世界文化遺産に登録されるほどの造形の美しい城なのですが、極めて強い防衛力を持っている堅城としても有名です。
もっとも、姫路城の内曲輪には、戦闘用ではない曲輪である西の丸が存在しています。
防衛施設であるはずの城に戦闘用でない曲輪が存在していることは極めて珍しいことなのですが、この曲輪が設置されたのには深い理由があります。
そこで、本稿では、姫路城の非戦闘用曲輪である西の丸について、その設置の経緯から順に説明していきたいと思います。 “【姫路城・西の丸】姫路城にある千姫専用の曲輪” の続きを読む
江戸時代には大小200を超える藩がありましたが、その藩主が必ずしも名君であった訳ではありません。
藩主がとんでもない人間だったら、その藩の領民はとてつもない迷惑を被ることになります。
身分社会だった江戸時代にこれから逃れる術はありませんので、藩主が暗君・暴君だったら領民は悲惨です。
そんな江戸時代の藩主の中で、最悪の政治をした暗君親子がいます。
島原藩初代藩主松倉重政と、2代藩主松倉勝家です。
恐らくこの2人が、江戸時代ワースト1とワースト2であったことに間違い無いと思います。
以下、2人の傍若無人ぶりを紹介していきたいと思います。 “【松倉重政・松倉勝家】島原の乱の原因を作った江戸時代最悪の暗君親子” の続きを読む
織田信長は、尾張国を統一後、永禄3年(1560年)から美濃侵攻を開始しますが、美濃国を平定するのに足掛け7年間も費やしています。
織田信長のその後の快進撃と比べると、美濃平定には相当手こずったことが見てとれます。
以下、織田信長が苦労した美濃平定戦について、時間の経過を追いながら見ていきましょう。 “【織田信長による美濃国平定戦】7年に亘る斎藤家討伐戦” の続きを読む