【織田信忠】最後の判断を誤って織田家を没落させた織田信長の後継者

日本を統一するはずだった織田家が没落してしまった最大の理由をご存知ですか。

その理由は、本能寺の変で織田信長が討たれてしまったからではありません。本能寺の変の織田信長に続いて織田信忠までもが討たれてしまったからです。

偉大な父の陰に隠れて歴史の陰に埋もれていますが、その優秀さから、織田信長が死んでも、織田信忠が生きていればおそらく織田家の日本統一は果たされていたと考えられています。

本能寺の変が起きた際、織田信忠には、逃げる、明智光秀に野戦を挑むなど様々な選択肢があったのですが、このときにとった織田信忠の判断が織田家から天下統一を喪失させてしまいました。

本稿では、ある意味で歴史を変えた男、織田信忠の人生を振り返ってみましょう。 “【織田信忠】最後の判断を誤って織田家を没落させた織田信長の後継者” の続きを読む

【飯富虎昌】甲山の猛虎と恐れられた初代赤備えの猛将

武田信虎・武田信玄親子の二代に亘って仕えた初代赤備えの猛将をご存知ですか。

敵から「甲山の猛虎」と恐れられた飯富虎昌です。

武田二十四将の1人として武田信玄の嫡男武田義信の傅役を任され、上田原の戦いで板垣信方・甘利虎泰が失われた後の武田家筆頭宿老として活躍した人物です。

もっとも、武田義信の傅役という立ち位置から、武田家の内紛に巻き込まれて悲しい最期を迎えます。

そんな悲劇の猛将、飯富虎昌の生涯について見ていきましょう。 “【飯富虎昌】甲山の猛虎と恐れられた初代赤備えの猛将” の続きを読む

【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦

塩尻峠の戦いをご存知ですか。

塩尻峠の戦いは、上田原の戦いの大敗で信濃国衆の信頼を失って信濃侵攻作戦を中座させられた武田軍が、負けイメージを払拭して武田軍健在を印象付けて信濃侵攻作戦が再開できるようになった極めて重要な意味を有する一戦です。

以下、塩尻峠の戦いに至る経緯と、塩尻峠の戦いの経過について見ていきましょう。 “【塩尻峠の戦い】上田原の敗戦で地に落ちた武田家の威信を復活させた奇襲戦” の続きを読む

【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北

クーデターを成功させて武田家当主となった武田信玄は、父・武田信虎の政治によって荒れた甲斐国の内政を整えた後、本格的に信濃国への侵攻を開始します。

その後、武田信玄は、破竹の勢いで信濃国南部を制圧したのですが、その面前に北信濃の猛将・村上義清が立ちはだかります。

そして、ここで、家督相続以来連戦連勝であった武田信玄に初めて土がつきます。天文17年(1548年)2月14日に起こった上田原の戦いです。

この戦いでは、板垣信方、甘利虎泰という当時の甲斐武田家の絶対的2大看板を一度に失うという大敗北喫します。

本稿では、この上田原の戦いについて、その発生経緯から順に解説します。 “【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北” の続きを読む

【足利義輝】衰退する室町幕府の運命に抗った13代剣豪将軍

剣豪将軍として有名な室町幕府13代将軍といえば足利義輝です。

永禄の変の際、足利家秘蔵の刀を畳に刺して応戦し、手に持った刀の刃がこぼれるたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った末に戦死したなどという眉唾物の伝説を残しています。

この伝説の真偽はさておき、落ちていく幕府の権威をなんとか留めて復興しようと奔走し、ついには力尽きた悲しき剣豪将軍の人生を振り返ってみましょう。 “【足利義輝】衰退する室町幕府の運命に抗った13代剣豪将軍” の続きを読む

【岸和田城(続日本100名城161番)】紀州徳川藩の裏切りに備えた城

岸和田城は、現在の大阪府岸和田市岸城町にあった惣構え構造を有する巨大な平城で、江戸時代には岸和田藩の藩庁も置かれていました。

岸和田城は、別名として猪伏山榺城、蟄亀利城、千亀利城と呼ばれます。榺(ちぎり)とは、機のタテ糸を巻く器具のことで、本丸と二の丸を連ねた形がこの榺に似ているところからそう呼ばれています。

残念ながら、明治維新後の廃城令により、石垣と堀の一部を残して取り壊されていますので、現在残る遺構はこれらのみです(天守を含め現存するその他の建築物は再建されたものです。)。 “【岸和田城(続日本100名城161番)】紀州徳川藩の裏切りに備えた城” の続きを読む

【酒井忠次】背に目を持つ如しと評された徳川四天王筆頭

徳川家康の天下統一に最も貢献したのが徳川四天王ですが、その筆頭は何と言っても酒井忠次です。

何度も徳川家康の窮地を救った冷静沈着なブレーンです。

松平信康切腹事件の際には、究極の選択を迫られるなど苦しい立場も経験した苦労人でもあります。

本稿では、そんな徳川四天王筆頭・酒井忠次の人生について見ていきましょう。 “【酒井忠次】背に目を持つ如しと評された徳川四天王筆頭” の続きを読む

【建武の新政】3年で瓦解した後醍醐天皇の建武政権

「建武の新政」(建武の中興ともいいます。)は、鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇が自身を神に擬えて行った天皇親政の政治体制です。

生粋のお坊ちゃんで人の話を聞かない後醍醐天皇は、自らを助けてくれた武士・公家はおろか、市井で生きる人の生活など考慮することなく自身の理想を追い求めた政治を追及します。

そのため、新たに始まった後醍醐天皇の政治は公家・武士・庶民の全てから反目されてわずか3年で崩壊し、南北朝の動乱と足利尊氏による武士の世界(室町幕府)時代に入っていきます。

本稿では、失敗に終わった天皇親政政治である建武の親政の概略について、簡単に説明していきたいと思います。 “【建武の新政】3年で瓦解した後醍醐天皇の建武政権” の続きを読む

【大和郡山城(続日本100名城165番)】秀吉の弟・豊臣秀長の居城

豊臣政権の絶対的ナンバー2で、紀伊国・河内国・大和国の3か国を治めた大和大納言豊臣秀長の居城・大和郡山城をご存知ですか。

大和郡山城は、大坂城防衛のための重要地点に建っており、100万石の大大名の居城としてふさわしい名城なのですが、豊臣秀長が早死にしたこともあって歴史に埋もれてしまっています。

本稿では、そんな名城・大和郡山城について簡単に紹介していきます。 “【大和郡山城(続日本100名城165番)】秀吉の弟・豊臣秀長の居城” の続きを読む

【板垣信方】武田信玄の父とも言える初期武田四天王筆頭の猛将

戦国最強の誉れ高い甲斐武田家の筆頭家老として、武田信虎・武田信玄の2代に仕えた板垣信方(甲陽軍鑑では、板垣信形と記載されています。)。

優れた武将を多く抱える武田家の中でも特に優れた武将とされる武田二十四将に選ばれ、また初期の武田四天王の1人でもありました。

武田信玄の青年期を武田家最高職として支えた名将で、戦場では無類の強さを発揮しましたが、増長して悲しい最期を迎えた武将でもあります。 “【板垣信方】武田信玄の父とも言える初期武田四天王筆頭の猛将” の続きを読む