【武田信玄の駿河国侵攻】今川と手切し北条を敵に回して海を得た戦い

 

信濃国全域と西上野を獲得した武田信玄は、越後を獲得して海(日本海)を得ることを諦め、駿河を獲得して海(太平洋)を得ることを目指します。

もっとも、駿河国侵攻は、同盟相手である今川家との戦いを意味し、今川義元の死により弱体化したとはいえ甲相駿三国同盟の破棄を伴う作戦となりますので、駿河国侵攻が武田家に及ぼす影響は絶大です。

本稿では、武田信玄が、今川・北条を敵に回してまで念願の海(湊・塩・海上輸送路・武田水軍)を獲得するに至った駿河国侵攻作戦について、そこに至る経緯から説明します。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。 “【武田信玄の駿河国侵攻】今川と手切し北条を敵に回して海を得た戦い” の続きを読む

【武田信玄の西上野侵攻】信濃国の次のターゲットとなった上野国・箕輪城攻防戦

 

信濃国のほぼ全域を支配下に置いた武田信玄は、10年に亘る上杉謙信との戦いを繰り返したのですが、大きな成果を挙げられませんでした。

このとき、武田信玄は、同時に西上野への侵攻作戦を展開しており、北進を諦めた武田信玄はその代わりに西上野を獲得しています。

本稿では、上杉謙信との川中島の戦いの裏で繰り広げていた西上野侵攻戦について紹介していきたいと思います。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【武田信玄の領土拡大の軌跡】家督相続から最期までの経緯

大永5年(1525年)ころに甲斐国を統一した武田信虎の嫡男として生まれた武田信玄(武田晴信、本稿では便宜上武田信玄の名で統一します。)は、天文10年(1541年)6月14日、重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共にクーデターを起こし、武田信虎を駿河国追放し、武田信玄が武田家の第19代目の家督を相続します。

もっとも、このときのお家騒動のゴタゴタで、武田家は、武田信虎時代に獲得した信濃国・小県郡・佐久郡を失います。

そのため、武田信玄は、甲斐国一国から勢力拡大を始めていきます(武田信玄死亡直前の最大版図時の主要な城は概ね上画像のとおりです。)。

本稿では、武田信玄のここに至る領土拡大の軌跡を、時系列に沿って地図(航空写真)を追いながら見ていきます。 “【武田信玄の領土拡大の軌跡】家督相続から最期までの経緯” の続きを読む

【野良田の戦い】六角家からの独立と北近江支配を確立させた浅井長政の大勝利

野良田の戦い(のらだのたたかい)は、永禄3年(1560年)8月中旬に近江国・野良田一帯で行なわれた北近江の浅井長政軍と南近江の六角承禎軍との合戦です。

浅井長政が、初陣として指揮し、倍を超える兵を要した六角軍を起死回生の一手で打ち破っています。

浅井長政が、浅井家内での信頼を得ると共に、北近江の戦国大名として揺るぎない地歩を固めることとなったターニングポイントとなる戦いです。 “【野良田の戦い】六角家からの独立と北近江支配を確立させた浅井長政の大勝利” の続きを読む

【三増峠の戦い】武田信玄が待ち伏せする北条軍を破った戦国最大規模の山岳戦

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)は、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城の包囲を解いて甲斐国へ退しようとする武田信玄とこれを殲滅しようとした北条氏との間で行われた戦国最大規模の山岳戦です。

同時に行っていた武田家による第3次駿河侵攻作戦の一環として、北条軍を相模国に止めて駿河国の援軍に向かわせないために行われた一連の武蔵国・相模国侵攻の総仕上げです。

戦術的に見ても武田軍の勝利なのですが、北条・上杉間に亀裂を生じさせ駿河への影響力を強めたという戦略的に見ても極めて大きな意味を持つ勝利です。

なお、本稿がどの段階の話であるについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

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【廿里の戦い】北条氏照が滝山城から八王子城に本拠を移すきっかけとなった戦い

廿里合戦(とどりかっせん)・廿里の戦い(とどりのたたかい)をご存知ですか。

武蔵国に侵攻してくる武田軍と、これを防ごうとする北条軍とが、1569年(永禄12年)10月1日に高尾山麗の廿里(現在の八王子市廿里町・廿里古戦場近辺:JR高尾駅の約400m北側付近)で激突した戦いです。

有名な三増峠の戦いの前哨戦として扱われ、ぶっちゃけマイナーな戦いです。

ただ、この戦いは八王子城築城のきっかけとなった重要なターニングポイントでもありますので、紹介させていただきたいと思います。 “【廿里の戦い】北条氏照が滝山城から八王子城に本拠を移すきっかけとなった戦い” の続きを読む

【八王子城(日本100名城22番)】小仏峠を越えてくる武田軍から武蔵国を守る北条氏照の山城

東京都内にある山城と聞かれて真っ先に名が挙がると思われる八王子城。

広大な敷地に建つ場内に様々な技巧を凝らした極めて興味深い城です。

後に、豊臣秀吉の小田原攻めの際に凄惨な殲滅戦が行われたため、その恨みを持つ人が多いためとして現在は心霊スポットともなっているようです。

一度是非訪れていただきたい城ですので、本稿では、そんな興味深い八王子城について、築城の経緯・縄張り・廃城に至る経緯について順に説明していきたいと思います。

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【源行家】以仁王の令旨を伝え歩いた源頼朝の叔父

源行家(みなもとのゆきいえ)は、河内源氏第五代源為義の十男であり、源義朝の弟にあたり、源頼朝・木曾義仲の叔父でもあります。

以仁王の令旨を全国の源氏勢力に伝えて回り、平家打倒のきっかけを作った重要人物なのですが、源氏の棟梁達に疎まれて勢力を築けず、また自身も戦下手で数々の戦いに負け続けて悲しい最期を遂げた人物です。

本稿では、自身が交渉人・工作者として有能であったものの武将としては無能であったことを理解できなかったある意味ポンコツ武将と言える源行家の人生について見ていきましょう。 “【源行家】以仁王の令旨を伝え歩いた源頼朝の叔父” の続きを読む

【伊東祐親】伊豆国に流された源頼朝の最初の監視役

伊東祐親(いとうすけちか)は、伊豆国伊東荘(現在の静岡県伊東市)の豪族であった工藤氏(伊東氏)の当主として、陛下から伊豆国に流されてきた源頼朝の監視役を任されながら、自身の娘が源頼朝の子供を産んでしまうという辛い立場に置かれた武将です。

源頼朝の子を殺害し平家に忠誠を見せたのですが、その後、源頼朝と平家の立場が入れ替わってしまった世界の中で、上手く立ち回ることができず死を選んだ悲しい人物でもあります。 “【伊東祐親】伊豆国に流された源頼朝の最初の監視役” の続きを読む

【畠山重忠】坂東武士の鑑と称された知勇兼備の武将

畠山重忠(はたけやましげただ)は、挙兵直後の源頼朝に敵対したものの源頼朝に下り、そこから常に先陣を務めるなどして治承・寿永の乱で大活躍した知勇兼備の武将です。

「吾妻鏡」・「源平盛衰記」、「義経記」などで模範的な武士として描かれるなど、良識的、模範的な人間としての評価を確立している人物でもあり、武勇の誉れ高く清廉潔白な人柄でもあったため「坂東武士の鑑」とも称されています。

もっとも、政争に長けていたわけではなく、源頼朝死後の鎌倉幕府内で権力を独占しつつある北条時政によって、梶原景時・比企能員に続くターゲットとして狙われ、謀反の疑いで殺害されるという悲しい最期を遂げた人物でもあります。 “【畠山重忠】坂東武士の鑑と称された知勇兼備の武将” の続きを読む