【源実朝】甥の公暁に暗殺された鎌倉幕府最後の源氏将軍

源実朝(みなもとのさねとも)は、北条氏による専制政治の神輿として12歳の若さで鎌倉幕府第3代征夷大将軍に就任した人物です。

名目上は武士の頂点にいるはずなのですが、実質的にはお飾りであったため、武士としての立場を諦め、公家の文化に心酔していった人物でもあります。

その結果、歌人としても名高く、92首が勅撰和歌集に入集したり、小倉百人一首にも選ばれたり、自撰の和歌集である金槐和歌集まで発表しています。

政治に興味を失った源実朝でしたが、用済みになると北条家にけしかけられた甥で猶子でもあった公暁に暗殺されるという悲しい最期を迎えます。

本稿では、この源実朝暗殺事件について、その発生機序から順に解説していきます。 “【源実朝】甥の公暁に暗殺された鎌倉幕府最後の源氏将軍” の続きを読む

【北条時政】鎌倉幕府初代執権となった北条政子の父

北条時政(ほうじょうときまさ)は、源頼朝の妻・北条政子の父であり、流人に過ぎない源頼朝に味方して反平家の兵を挙げ、東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた人物です。

また、鎌倉幕府内で、御家人を粛清し続けて、果ては将軍まで手にかけたのですが、最終的には自分の息子(北条義時)と娘(北条政子)に追放されて政治生命を断たれるという悲しい最期を迎えています。

必ずしもいい評価を受けているとも言い難いのですが、本稿では、先見の明と大胆な行動力を持つ北条時政の波瀾万丈の人生について見て行きたいと思います。 “【北条時政】鎌倉幕府初代執権となった北条政子の父” の続きを読む

【梶原景時】源義経を死に追いやった御家人

源義経と対立して死に追いやったとして悪役にされがちな梶原景時。

実際は、KYで政治的才能がなかった源義経に振り回されて苦労した人物です。

ならず者集団であった鎌倉武士団の中で、数少ない教養・風流人でもありました。

石橋山の戦いで源頼朝を救って重用され、北条家による他氏排斥運動に巻き込まれて生涯を終えた梶原景時の人生を振り返っていきましょう。 “【梶原景時】源義経を死に追いやった御家人” の続きを読む

【村木砦の戦い】今川義元から緒川城を防衛するための戦い

尾張国では、織田信秀の代から織田弾正忠家の尾張国内での勢力拡大と今川義元との間での熾烈な尾張・三河領土争奪戦が繰り広げられていました。

これらの戦いは、織田信秀が死亡して織田弾正忠家の家督を織田信長が引き継いだ後も、織田信長の尾張国統一戦として約7年間も繰り広げられます。

織田・今川の一進一退の攻防は、鳴海城・大高城・沓掛城を獲得した今川義元が優位に進め、今川義元がさらに知多半島に勢力を及ぼすべく緒川城の攻略を目指して前線基地である村木砦を建築します。

このとき、この脅威を取り除くため、緒川城主・水野信元が、21歳の若き織田信長に対して村木砦の攻略を依頼して起きたのが村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい)です。 “【村木砦の戦い】今川義元から緒川城を防衛するための戦い” の続きを読む

【和暦西暦早見表(年月日対比版)】最初の元号「大化」から現在まで

和歴と西暦の対比について、年ベースのものはよく見かけるのですが、年月日ベースまで詳細に対比してある表はあまり見かけません。

そこで、最初の年号の「大化」から順に西暦→和暦を年月日ベースで対比した表を作成いたしましたので参考にして下さい。
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【三木合戦(三木の干殺し)】羽柴秀吉の別所長治に対する兵糧攻め

攻城戦の名手として知られる羽柴秀吉の攻城戦歴の中でも、トップクラスに知名度があるのが、三木合戦です。

三木の干殺し(みきのひごろし/ほしごろし)と言われる約1年10ヶ月もの長い兵糧攻めが行われたことで有名です。第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)の前哨戦でもあります。

本稿では、この悲惨な兵糧攻めとなった三木合戦について、その発生経緯から見ていきます。 “【三木合戦(三木の干殺し)】羽柴秀吉の別所長治に対する兵糧攻め” の続きを読む

【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス

長きに亘って繰り広げられた源氏と平氏の戦い(治承・寿永の乱)のクライマックスは誰もが知っている壇ノ浦の戦いです。

数年前まで平家にあらずんば人にあらずと唄うほど栄華を極めた平家が、屋島を追われて海上に追い込まれ、遂には次々に海に飛び込んで死んでいった悲しい最期を迎えた戦いでもあります。

本稿では、この平家が滅亡することとなった壇ノ浦の戦いについて見ていきましょう。 “【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス” の続きを読む

【志度合戦】屋島の戦い直後の平家が四国を失った戦い

志度合戦(しどかっせん)は、屋島の戦いに敗れて屋島を失った平家が、一旦東側に逃れて四国での再起を試みた戦いです。

もっとも、志度合戦の決着はあっけなく、度重なる敗戦と屋島の陥落により士気の下がった平家軍は、源義経率いる源氏軍に対し、本格的な戦いをするまでもなく敗退し、結果として四国を源氏に明け渡す結果に至りました。

本稿では、そんな屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの架け橋となった志度合戦について見ていきたいと思います。 “【志度合戦】屋島の戦い直後の平家が四国を失った戦い” の続きを読む

【屋島の戦い】源義経率いる150騎の奇襲での平家拠点陥落

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日に起こった、源頼朝方(源義経)と平家との直接対決の1つです。

平家が滅んだ壇ノ浦の戦いの直前の戦いでもあり、何と言っても「那須与一の扇の的」が有名です。

本稿では、そんな屋島の戦いについて、当時の情勢を追いつつ見ていきたいと思います。 “【屋島の戦い】源義経率いる150騎の奇襲での平家拠点陥落” の続きを読む

【源範頼の山陽道・九州遠征】平家本拠地・彦島を孤立させた行軍

一ノ谷の戦いに勝利して福原から平家を追い払った源氏方でしたが、その後も水軍力により瀬戸内に勢力を維持する平家に悩まされ続けます。

困った源頼朝は、瀬戸内の平家の力を削ぐべく、山陽道及び九州の平氏勢力の討伐を決断します。

この山陽道及び九州討伐を任されたのが源範頼でした。

源義経の陰に隠れ認知度が必ずしも高いと言えない源範頼ですが、陸路を通って山陽道を制圧し、九州の平氏勢力と平家本拠地である彦島との分断を成功させ、壇ノ浦の戦いの下準備を整える功績を挙げています(もっとも、少し遅れたタイミングで屋島を華々しく攻略した源義経にスポットが当たりがちですが。)。

本稿では、そんな源範頼の山陽道・九州遠征について見ていきましょう。 “【源範頼の山陽道・九州遠征】平家本拠地・彦島を孤立させた行軍” の続きを読む