徳姫(とくひめ)は、織田信長の長女として生まれ、徳川家康の嫡男であった松平信康の正室となった女性です。
松平信康との間に2女を儲けたものの男子ができず、それもあって松平信康との関係が悪化して松平信康自刃事件に繋がったと言われています。
もっとも、松平信康の自刃に徳姫が関わったかどうかは不明であり、謎多き人物でもあります。
【目次(タップ可)】
徳姫の出自
出生(1559年10月12日)
徳姫は、永禄2年(1559年)10月12日、織田信長の長女として誕生します(源流綜貫)。
生母は、織田信長最愛の側室であった生駒吉乃(久菴桂昌)と言われており、同腹の兄弟として織田信忠・織田信雄がいます。
当時の呼称は、五徳(おごとく)でした。
松平信康との婚約(1561年9月)
桶狭間の戦いの後、織田家と今川家に与していた松平家が小競り合いを続けていたのですが、今川家からの独立を図った松平元康(後の徳川家康、本稿では徳川家康の表記で統一します。)が、織田信長からの和睦申し入れを受け入れたため、永禄4年(1561年)9月、双方誓紙を取り替わしの上で織田信長・徳川家康の和睦が整います(三河後風土記)。
織田信長にとっては北(斎藤家)に向かうため、徳川家康にとっては東(今川家)に向かうための和睦です。
このとき、織田信長は、和睦の証として、徳姫を駿府に人質状態となっていた徳川家康の嫡男・竹千代(後の松平信康)と婚約させることとし、両家の関係を深めていきます。
その後、永禄5年(1562年)2月4日に東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛した徳川家康が人質交換により竹千代(後の松平信康)を取り戻すと、同年3月、織田家・松平家(徳川家)との間に軍事同盟(清洲同盟)を成立させます。
松平信康との結婚生活
松平信康に嫁ぐ(1567年5月27日)
そして、徳姫は、永禄10年(1567年)5月27日、9歳となった松平信康の下に嫁ぎ岡崎に入ります。
この後、松平信康は、元亀元年(1570年)に浜松城に移った徳川家康から岡崎城を譲られたため、徳姫も松平信康・岡崎に残った築山殿(徳川家康の正室)と共に岡崎で暮らします。
2女を儲ける
その後、徳姫は、天正4年(1576年)に登久姫(後の小笠原秀政室)を、天正5年(1577年)に熊姫(後の本多忠政室)を儲けます。
築山殿との確執
もっとも、徳姫が男子を産むことがなかったため、世継ぎを心配した築山殿が、独断で、武田旧臣であった浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を松平信康の側室に迎えさせます。
この築山殿の行為により、徳姫と築山殿との関係が悪化し(後の創作説あり)、またそれに伴って徳姫と松平信康との関係も悪化していきます。
徳姫と松平信康の婚姻関係は、織田・徳川同盟の要ですので、その不仲は同盟関係上問題となりえます。
そこで、松平信康と徳姫との不仲を仲裁するために徳川家康が岡崎に赴いたとの記録もあり(家忠日記、もっとも松平信康の喧嘩相手の名が破損しているため目的が異なる可能性もあります。)、その頃に織田信長も岡崎に来たこともわかっています。
信康事件
十二ヶ条の訴状(三河物語・通説)
徳姫は、天正7年(1579年)、父である織田信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として織田信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次にこれを託したと言われます。
この徳姫の手紙には、松平信康の粗暴な言動への非難、松平信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通したことなどが記されていたとされています。
手紙を読んだ織田信長は、使者であった酒井忠次に事実を問い質したところ、酒井忠次がこれを全て認めたため、織田信長は徳川家康に対して松平信康の切腹を命じ、この命により徳川家康は松平信康の処断を決断したとされます(もっとも、この十二ヶ条の訴状は、信用性が高いとされる信長公記や家忠日記などには記載がなく、後の創作である可能性が高いと言われていますので、真偽は不明です。)。
松平信康切腹(1579年9月15日)
その結果、徳川家康は、岡崎城を訪れた翌日である天正7年(1579年)8月3日、岡崎城の城代として石川数正を残して松平信康を岡崎城から追放し、大浜城に移します(家忠日記)。なお、このとき徳川家康は、松平信康と岡崎衆との連絡を禁じて岡崎衆に松平信康に内通しない旨を誓う起請文を出させた上、自らの旗本で岡崎城を固め松平信康追放処分の決行をしています。
この後、築山殿が、松平信康追放処分の撤回を求めて駿府にいる徳川家康の下へ向かうのですが、同年8月29日、途中の佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲・野中重政により殺害されます。
また、大浜城から堀江城を経て二俣城に移された松平信康は、天正7年(1579年)9月15日、同城において徳川家康の命により切腹して果てます。享年は21歳でした(満20歳没)。
松平信康の死後に各地を転々とする
近江国へ(1580年2月)
徳姫は、夫である松平信康の死後も岡崎城で暮らしていたのですが、天正8年(1580年)2月17日には岡崎に来た徳川家康と会見し(家忠日記)、その3日後の同年2月20日、近江長命寺 田を化粧領として与えられ、2人の娘を残して近江国に向かうこととなってしまいました。
人質として京へ(1584年11月)
その後、天正10年(1582年)6月2日、に起きた本能寺の変において父である織田信長と長兄である織田信忠が死去した後、徳姫は、次兄である織田信雄に保護されます。
もっとも、その後、織田信雄が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立した小牧・長久手の戦いが講和するに至った天正12年(1584年) 11月、人質として羽柴秀吉の下に送られ、京に居を構えます(顕如上人貝塚御座所日記)。
尾張国へ(1590年)
もっとも、天正18年(1590年)、織田信雄もまた羽柴秀吉によって改易されたため、人質としての価値を失った徳姫は京から出されることとなります。
そして、徳姫は、母方の実家である尾張国小折の生駒家に身を寄せることとなります。
再び京へ
その後、京に戻っていた徳姫でしたが、関ヶ原の戦い後は、尾張国の清洲城主となった徳川家康の四男である松平忠吉から1761石の所領を与えられた後、京で隠棲します。
徳姫の最期(1636年1月10日)
そして、徳姫は、寛永13年(1636年)正月10日、死去します(小笠原忠真年譜・源流綜貫)。享年は78歳でした。