北条宗時(ほうじょうむねとき)は、北条時政の嫡男であり、北条義時の兄でもあります。
伊豆に流された源頼朝に付き従い、その挙兵を主導した人物でもあります。
挙兵直後の石橋山の戦いに敗れて逃亡中に討ち取られたため、あまり記録が残されていないのですが、源平争乱の端緒として大きな役割を果たした人物ですので、残された記録を基に北条宗時の人生についてできる限りわかりやすく紹介したいと思います。
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北条宗時の出自
北条宗時は、桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条を拠点とする在地豪族であった北条時政の嫡男として生まれます。
母が伊東祐親の娘であるため、北条宗時は伊東祐親の孫にあたります。
また、同母兄弟として北条義時・阿波局などが、異母妹弟に北条政子・北条時房などがいます。
北条宗時は、通称を三郎といいましたが、源頼朝挙兵までの記録はほとんど存在しておらず、その他の詳細は不明です。出生年すら明らかではありません。
源頼朝挙兵に従う
源頼朝と北条政子の結婚(1176年)
安元元年(1175年)9月ころ、伊豆に流され伊東祐親に監視されていた源頼朝が、伊東家を追われて北条家に流れてきたことから北条宗時の人生が大きく転換します。
安元2年(1176年)3月ころ、北条時政が大番役のために伊豆を離れて在京している間に、源頼朝が、北条宗時の異母妹である北条政子と恋仲になってしまったのですが、このとき北条政子の本気度を見た北条時政が、力づくで2人の仲を割くのは困難と判断してしぶしぶ北条政子と源頼朝との結婚を認めます。
なお、北条時政が、北条政子と源頼朝との結婚を認めたのは、伊豆国で勢力を高めていくために場合によっては源氏の頭領の名が役に立つかもしれないという打算もありました。
以仁王の令旨拝領(1180年4月27日)
治承4年(1180年)4月27日、北条家の庇護を受けていた源頼朝の下にも以仁王の令旨が届きますが、軍事力を持たない源頼朝は、しばらくこれを黙殺します。
ところが、治承4年(1180年)5月26日に以仁王が討たれ、同年6月19日、京にいる三善康信から、源頼朝の討伐が進められているため奥州藤原氏の庇護下に逃亡するよう勧められる使者が到着します(ちなみに、この報は誤報でした。)。
この結果、自らの命の危機が迫った源頼朝は、ついに、平家と戦うため兵を挙げる決断をしたのです。
源頼朝挙兵(1180年8月17日)
治承4年(1180年)8月17日、源頼朝は、以仁王の令旨を奉じ、まずは手ごろな敵を討ち取り世間に名を轟かすために、伊豆目代である山木兼隆を最初のターゲットとして挙兵します。
山木兼隆は平家の後ろ盾を持つ一大勢力ですが、同日に行われる三島大社の祭礼に山木家の郎党の多くが祭りの準備のために山木兼隆邸から出払うために討ち取る機会があると判断しての挙兵でした。
そして、決行当日、源頼朝は北条氏館に留まって指揮をとることとなり、北条時政を総大将とする攻撃隊で山木兼隆邸を襲撃することとし、深夜、渋滞することを防止するために間道である蛭島通を避け、三島神社の祭礼中のために人でごった返す牛鍬大路を通って山木兼隆邸に向かわせます。
このとき、北条宗時は、父北条時政、弟北条義時と共に山木兼隆邸襲撃に参戦し、その先導役を務めています(源平盛衰記)。
石橋山の戦い(1180年8月23日)
目代である山木兼隆を倒して名を挙げた源頼朝でしたが、この時点での兵力で伊豆1国を掌握するにはほど遠く、平家方の反撃は時間の問題でした。
そこで、源頼朝は、三浦一族と合流すべく、治承4年(1180年)8月20日、北条館を出て、三浦一族の本拠地の方向にある相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)にある土肥実平の館まで進んで三浦一族の到着を待ちます。当然、北条宗時も源頼朝に同行しています。
ところが、ここに源頼朝討伐のために動き出した、平家方の大庭景親が、北側から俣野景久・渋谷重国・海老名季貞・熊谷直実ら3000余騎を率いて進軍してきます。
土肥実平の館に寡兵で籠っても勝ち目がないと判断した源頼朝は、同年8月23日、防衛のために300騎を率いて北上して石橋山に上って陣を敷き、平家軍を討ち払いながら三浦一族の到着を待つこととしました。
ところが、さらに悪いことに南側からも伊豆国の豪族である伊東祐親(北条宗時の祖父でもあります。)が、南側から300騎を率いてやってきます。
石橋山に陣取る源頼朝軍は、寡兵である上、南北から挟撃される苦しい立場に追い込まれました。また、源頼朝の援軍である三浦義澄は、大雨で増水した酒匂川に阻まれて石橋山に到達できません。
こうして、治承4年(1180年)8月23日夜、暴風雨の中、大庭軍が源頼朝の陣に襲いかかり、石橋山の戦いが始まりまったのですが、圧倒的な兵力差があったためすぐに壊滅し、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にするなどして大敗します(石橋山の戦い)。
北条宗時の最期(1180年8月24日)
治承4年(1180年)8月24日、源朝朝は、大庭軍の飯田家義が手引きしたことにより、夜陰に紛れ、北条宗時らを連れて土肥の椙山に逃げ込みます。
もっとも、大庭景親は、追撃の手を緩めず、翌朝になって日の光が差すのを待ち、全軍で源頼朝の捜索と、源頼朝軍の残党狩りを始めます。
絶対絶命となりどんどん山奥に入っていった源頼朝は、土肥・椙山の「しとどの窟」に隠れます。
後がなくなった源頼朝に対し、付き従っていた土肥実平が、供回りの人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であるために源頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言したため、源頼朝の供回りはこれに従って一旦ここで別れることとします。
そして、源頼朝は、土肥実平らと共に箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して東に向かい安房国に脱出しました。
また、北条時政と北条義時は、箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしたのですが諦め、源頼朝とは別ルートで安房国に向かいます。
他方、北条宗時は、工藤茂光(狩野茂光)と共に、土肥山を降りて桑原に降り、伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)から西に向かいます。なお、このとき北条宗時が父や弟と別行動をとった理由については諸説あり、正確な理由はわかっていません。
また、このときのルートを見ると、北条宗時は本拠地に戻ろうとしていたように見えます。
もっとも、北条宗時は、冷川(早河)のあたりに達したところで平家方の伊東祐親(北条宗時の祖父)軍に包囲され、小平井の名主・紀六久重(小平井久重)に射られて討ち取られてしまいました。
このとき、北条宗時と行動を共にしていた工藤茂光は、歩くことができなくなったため逃げきれないと判断し、自害して果てています(一説には、工藤茂光は肥満体であったため思うように走ることができず、周囲の足手まといになることを嫌って外孫の田代信綱に懇願して介錯されたともいわれています。)。
なお、このときの北条宗時の死は、京には北条時政の死として伝わったようです(山槐記)。
後日談
父時政は建仁2年(1202年)6月1日、夢のお告げがあったとして、宗時の菩提を弔うため、伊豆国北条に下向したと言われています。なお、このとき、北条時政が、実慶に造立させて奉納したとされる阿弥陀三尊像(重要文化財)が現在も残っています。
現在、函南町大竹区にある宗時神社(神社といっても何らかの建物があるわけではありません。)の境内に、北条宗時と工藤茂光のものといわれる宝篋印塔が並んでいますので、興味がある方は是非。