平賀朝雅(ひらがともまさ)は、鎌倉幕府の最上位御家人の1人であり、北条時政と牧の方に担がれて第4代鎌倉殿になる寸前まで出世した人物です。
牧氏の変により後ろ盾であった北条時政が失脚したため、連座して北条義時に処刑されるという悲しい最期を迎えた人物でもあります。
本稿では、北条家のお家騒動に巻き込まれ、天国から地獄に突き落とされた平賀朝雅の人生について見ていきたいと思います。
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平賀朝雅の出自
平賀朝雅の出生
平賀朝雅は、清和源氏義光流平賀家当主であった武蔵守・平賀義信の次男として生まれました。母は、比企尼の三女(源頼朝の乳母)であり、正確な生年は不明です。
1 | 門葉 | 源氏一門 |
2 | 家子 | 源頼朝股肱の御家人 |
3 | 侍 | 一般御家人 |
父・平賀義信が、鎌倉幕府御家人の最高位である門葉の筆頭であったことから(行事交名において、平賀義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけであり、源範頼・北条時政・足利義兼ですら平賀義信より下座でした。)、相当の名家のプリンスです。
北条時政の継室の娘を室に迎える
成長した平賀朝雅は、鎌倉幕府の最有力御家人となっていた北条時政の娘(継室である牧の方との子)を室に迎え、北条家という大きな後ろ盾を得ます。
守護職を歴任する
① 武蔵守就任
その後、正確な任命時期は不明ですが、平賀朝雅は、父・平賀義信、兄・大内惟義の後を継いで武蔵守に任じられます。
② 京都守護就任(1203年10月)
また、建仁3年(1203年)9月に勃発した比企能員の変では、北条家と比企家との双方と親族関係を持っていたものの、妻の父である「北条」と母の生家である「比企」との力関係に鑑み、平賀朝雅は北条方について参戦します。なお、平賀朝雅が北条方についたのは、母・比企尼が前年に死去していたことも理由の1つに挙げられるかもしれません。
いずれにせよ、北条方について比企能員の変に参加した平賀朝雅は、その功を買われ、また混乱に乗じた反乱を防ぐために京都守護に任じられて、京に赴任することとなりました。
③ 伊賀国・伊勢国守護就任(1204年5月)
そして、建仁3年(1203年)12月、相次ぐ鎌倉幕府の内紛に乗じて伊勢国・伊賀国において平家残党の反乱が起こったのですが(三日平氏の乱)、このときに守護職を努めていた山内首藤経俊が逃走してしまったため、京都守護として京に赴任していた平賀朝雅に反乱の鎮圧が命じられます。
そこで、京から伊勢国・伊賀国に赴いた平賀朝雅は、翌元久元年(1204年)4月までかけて平家残党の鎮圧に成功し、その功績により同年5月に伊賀国・伊勢国の守護職に任じられます。
こうして源氏の血筋だけでなく武勇を示して畿内にて勢力を拡大させていった平賀朝雅は、朝廷でも出世を重ね、院の殿上人となって後鳥羽上皇に重用されるなどして政治力も高めていきます。
牧氏の変
畠山重保との口論(1204年11月)
こうして京で力をつけていく平賀朝雅の下に、鎌倉幕府から来客が訪れることとなります。
元久元年(1204年)、第3代鎌倉殿となった源実朝の正室が京の公卿である坊門信清の娘(信子)に決まったのですが、その坊門信子を迎えに行くため、鎌倉から京に使者が派遣されることとなったためです。
このとき選ばれた鎌倉からの使者は、いずれも鎌倉幕府の次世代を担う若き2代目御家人たちでした。
上京した鎌倉幕府からの使者たちは、同年11月、有力御家人であった平賀朝雅の邸宅を訪れ、平賀朝雅がこれをもてなすために開いた祝宴で事件が起こります。
祝宴の場で平賀朝雅と畠山重保との間で言い争いが起こったのです。
この口論自体は、周囲のとりなしで言い争い自体は収まったのですが、平賀朝雅がこの事実を牧の方に報告をし、同年11月13日に鎌倉に届けられたことから一大事件に発展します(また、元久元年/1204年11月5日に北条政範が京で急死したとの報も同時に届けられています。)。
なお、この平賀朝雅の讒言については、口論の結果という感情面がクローズアップされがちですが、実際には武蔵守でもあった平賀朝雅が、武蔵国全域に強い影響力を持つ畠山氏が邪魔であったという実利面に着目する必要があります。
北条時政と北条義時との反目
平賀朝雅の話を聞かされた牧の方が娘婿をなじられたと激高し、こともあろうに畠山重保の父である畠山重忠に謀反の疑いがあると北条時政を唆します。
北条時政は、牧の方の話を真に受けて、北条義時に命じて畠山重忠を攻撃させ、元久2年(1205年)6月22日、畠山家を滅亡させてしまいます。
北条義時は、他の御家人の信頼が厚い畠山重忠を討つことにためらいがあったのですが(吾妻鏡)、この時点で父・北条時政を制する力はなかったため、やむなく武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼすこととなりました。
もっとも、人望のあった畠山重忠を強攻策をもって殺したことにより、御家人の間に北条時政と牧の方に対する反感が生まれていき、北条時政と北条義時との反目も決定的となります。
平賀朝雅鎌倉殿就任計画(1205年閏7月)
この後、鎌倉幕府内で権力の絶頂を極める北条時政と牧の方は、さらなる権力を求めます。
事実上の御家人の頂点となったため、次の狙いは鎌倉殿です。
そこで、北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月、第3代鎌倉殿である源実朝を暗殺して、娘婿である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする動きを見せ始めます。
このとき神輿として担がれた平賀朝雅もその気になり、北条時政と牧の方の計画に加担してしまいます。
もっとも、源実朝の母である北条政子にとっては、自分の子の暗殺計画など許せるはずがありません。
また、北条義時にとっても、牧の方の娘婿である平賀朝雅が第4代鎌倉殿になるということは、北条家の実権が自分ではなく牧の方側が得ることを意味しますので、到底承服できません。
そこで、北条政子と北条義時が協力し、北条時政・牧の方の排除を計画します。
北条家における先妻派閥と継室派閥との争いがついに具現化したのです。
源実朝暗殺失敗(1205年閏7月19日)
元久2年(1205年)閏7月19日、北条時政は、源実朝を暗殺するため、北条政子の邸から北条時政邸に源実朝を招き入れます。
この動きに危機感を感じた北条政子・北条義時・阿波局らは、結城朝光・三浦義村・長沼宗政らを北条時政邸に遣わして、北条時政邸にいた源実朝を奪い取り、北条義時邸に迎え入れます。
このときの北条義時方の動きに、北条時政に味方していた御家人までも同調したため、北条時政・牧の方による平賀朝雅将軍就任計画(牧氏の変)は失敗に終わります。
平賀朝雅の最期
北条時政失脚(1205年閏7月20日)
鎌倉殿暗殺計画が失敗に終わり、完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月20日に出家させられ、翌同年閏7月21日に鎌倉から追放されて伊豆国・北条荘園にて隠居させられることになります。
こうなると、残ったのは鎌倉幕府簒奪計画の神輿となった平賀朝雅です。
平賀朝雅の最期(1205年8月2日)
北条義時は、第3代鎌倉殿の暗殺計画の共謀者であるとして平賀朝雅の処断を決定し、元久2年(1205年)閏7月20日、北条義時は、在京御家人に対して、平賀朝雅を討ち取るよう命令を出します。
後ろ盾を失った平賀朝雅に抗う術はありません。
同年閏7月25日、平賀朝雅討伐の使者が京に到着したことにより、平賀朝雅も覚悟を決めます。
平賀朝雅は、翌同年閏7月26日に院御所にいた後鳥羽上皇に対して暇をもらい受け(平賀朝雅は鎌倉幕府と後鳥羽上皇とに両属していましたので、後鳥羽上皇の臣下のまま鎌倉幕府と対立すると後鳥羽上皇に迷惑がかかると考えたためです。)、六角東洞院にあったとされる自らの屋敷に戻り、軍備を整えて鎌倉幕府と戦うこととなりました。なお、平賀朝雅が院御所にいた理由としては、吾妻鏡では囲碁の会に参加するためであったため、愚管抄や明月記では宿直当番であったためとされており、本当の理由は不明です。
そしてその後、平賀朝雅は、京から派遣された山内首藤通基率いる鎌倉幕府軍に屋敷を取り囲まれたためにこれと戦ったのですが、多勢に無勢であったために勝負にならず、敗れて近江国に逃れます。
もっとも、同年8月2日、持寿丸(山内首藤経俊の息子)の矢を受けて討ち取られたと言われています。なお、近江国に向かう途中の山科で自害したとの説もあり、正確な死因も不明です。