【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)は、三方ヶ原の戦いに勝利しつつも浜松城を攻略しきれなかった武田軍がその攻略を諦めて西進し、奥三河に向かって攻めるに至った攻城戦です。

武田信玄の西上作戦の一環として元亀4年(1573年)1月から始まり、概ね1ヶ月の攻城戦を経て野田城が武田家に下っています。

もっとも、野田城陥落直後に武田信玄の体調が悪化して死去しておりますので、武田信玄の人生最後の戦いでもあります。

本稿では、この野田城の戦いについて説明していきたいと思いますが、西上作戦の一環として行われていますので、前提を少し長めに紹介した後で野田城の戦いを説明することとします。

野田城の戦いに至る経緯

武田信玄の西上作戦

甲斐国に始まり、信濃国全域・西上野・駿河国を獲得し飛騨国・東美濃にまで影響力を及ぼすに至った武田信玄は、次の攻略目的として徳川家康が治める三河国・遠江国に定めます。

武田信玄にとっては、今川領侵攻作戦(駿河国攻略戦)の際に散々に煮え湯を飲まされた徳川家康に対する恨みを晴らす戦いでもあります。

領内から3万人近い兵を動員した武田信玄は、織田・徳川領に対し、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート(①)、伊那盆地から西に進んだ後に南進して奥三河・東三河に入るルート(②)、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルート(③)という3つのルートからの同時に侵攻を開始します。

秋山虎繁隊の東美濃侵攻

甲斐国・躑躅ヶ崎館を出陣した武田軍は、途中で諏訪郡・上原城を経由した後、信濃国・高遠城を越えたところで、まず秋山虎繁・山県昌景に8000人の兵を預けて南西方向へ向かわせます。

その後、この軍が2手に分かれ、秋山虎繁率いる3000人が東美濃(東濃)侵攻し、日本三大山城の1つでもあり、女城主「おつやの方(岩村御前)」で有名な岩村城を包囲、元亀3年(1572年)11月初旬にこれを攻略します。これが東美濃(東濃)侵攻軍です。

岩村城攻略後、秋山虎繁は織田軍による後詰への抑えとして、岩村城に残ります。

山県昌景隊の奥三河侵攻

秋山虎繁隊を分離した山県昌景隊5000人が、そのまま南下して奥三河へ侵攻して武節城を攻略し、さらにそのまま奥三河の豪族を取り込みつつ南進を続け、東三河の重要拠点であった長篠城、遠江国の伊平城などを続けて攻略します。

その後、長篠城や武節城に抑えの兵を残し、西三河の岡崎城や、東三河の吉田城からの後詰に備えさせた上、

山県昌景隊は、武田信玄本隊が向かう遠江国二俣城に向かって行きます。

狙うは、孤立しつつある徳川家康の居城・浜松城です。

武田信玄本隊の遠江侵攻

以上の結果、武田別動隊により織田軍と三河国からの後詰を封じた後、武田本隊による本格的な遠江国侵攻が始まります。

武田信玄率いる本隊2万2000人は、信濃国・高遠城から、真っ直ぐ南下して遠江国に侵攻します(なお、今日では、武田軍本隊は駿河国から西進して遠江国に入ったとする説も有力です。)。

武田信玄の本隊の侵攻が始まると、犬居城主・天野景貫が武田信玄に内応して同城を明け渡して武田侵攻軍の先導役を務めたため、武田信玄は、馬場信春に別働隊5000人を預けて只来城を攻撃させ、元亀3年(1572年)10月13日にこれを攻略させた後、諏訪勝頼と共に二俣城に向かわせます。

只来城陥落を見届けた武田信玄は、本隊を南東側に回り込ませ、二俣城に向かいます。

この結果、二俣城に向かって、西側から山県昌景隊5000人、北側から馬場信春・諏訪勝頼隊5000人、南東側から武田信玄本隊1万7000人が三方向から向かって進軍していくこととなりました。

二俣城の重要性

二俣城は、遠江国と信濃国伊那郡とを結ぶルートの出入口にもあたり、浜松城とその支城である掛川城や高天神城にも繋がる交通の要所(扇の要)に位置する遠江支配の要の城でした。

また、徳川家康の居城である浜松城の北側約20kmに位置する浜松城攻撃の橋頭堡となる城であったため、徳川家康からすると絶対に失うわけにはいかない城でした。

重要拠点である二俣城に、武田軍が三方から合計2万7000人もの大軍で向かってきていることを聞かされたかされた徳川家康は対応に追われますが、畿内で信長包囲網の対応に追われる織田信長や、岩村城・武節城・長篠城から背後を狙われる三河国からの後詰は期待できず、厳しい戦いを強いられます。

一言坂の戦い(1572年10月14日)

二俣城包囲網が完成しつつあったことに焦った徳川家康は、元亀3年(1572年)10月14日、武田軍本隊の正確な動向を探るため、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、徳川家康自身も3000人の軍勢を率いて出陣したのですが、このとき、先行していた徳川偵察隊が武田偵察隊であった馬場信春隊に遭遇します。

徳川偵察隊はすぐに退却を試みるも、馬場信春隊は素早い動きで徳川軍を追撃したため、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まります。

寡兵での遭遇戦という望まぬ形で開戦した徳川軍は、すぐさま劣勢となり、本多忠勝と大久保忠佐を殿として残し、徳川家康が命からがら退却を果たすという形で戦いが終わります(一言坂の戦い)。

二俣城の戦い(1572年10月18日〜)

元亀3年(1572年)10月16日、東側の支城を撃破しながら回り込んできた武田信玄本隊が二俣城に到着し、武田信玄が、絶体絶命となった二俣城に降伏勧告をしますが拒否されます。

その結果、同年10月18日、武田軍による二俣城総攻撃が始まり、同年11月初旬には遅れて到着した山県昌景隊もこれに加わります。

必死の抵抗をした二俣城はなかなか陥落しなかったのですが、武田軍は力攻めから水の手を断つ作戦に切り替え、攻撃開始から2ヶ月後の同年12月19日についに陥落します(二俣城の戦い)。

この結果、一言坂の戦いで大敗北を喫した上、二俣城からの再三の後詰要請を無視した徳川家康の求心力は大きく損なわれます。

三方ヶ原の戦い(1572年12月22日)

二俣城陥落により、徳川家康は、後詰が期待できない状況下で浜松城における籠城戦を覚悟しなければならなくなりました。

ところが、徳川家康の予想に反し、二俣城が落ちた3日後の元亀3年(1572年)12月22日、二俣城を出発した武田軍は、浜松城を無視して遠州平野を西進し、東三河に向かって進軍していきました。

この報告を聞いた徳川家康は、自分が武田信玄に相手にされていないと感じ、プライドを傷つけられて激怒します。

怒りが抑えきれなくなった徳川家康は、一部家臣の反対を押し切ってまで籠城策を取りやめ、三方ヶ原から祝田の坂を下るであろう武田軍を背後から襲う奇襲策に変更し、元亀3年(1572年)12月22日、織田方からの援軍3000人を含む計1万1000人を率いて浜松城から出撃します。

このときの徳川家康の無謀な出陣については、プライドを傷つけられて怒っていたこともあったかもしれませんが、二俣城防衛戦で後詰めを送らなかったことにより失墜した求心力を取り戻しこれ以上武田信玄の調略による離反者が出るのを防ぐためであったという説も有力です。

また、織田信長への義理立てであったという説もあり、いずれの要素も含んでいたというのが真実なのかもしれませんが、今となっては真実はわかりません。

浜松城を出た徳川・織田連合軍は、西に向かって進軍する武田軍を背後から突いてこれを包囲殲滅するべく、鶴翼の陣を敷きながら、同日3時頃夕刻に三方ヶ原台地に進軍しますが、そこで思っても見ない光景を目にします。

西に向かって行軍し、山道である祝田の坂を降りている途中であると思っていた武田軍が、その手前で反転し、三方ヶ原台地にて魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち構えていたのです。

武田軍が準備万全の態勢で待ち構えていたことを知った徳川家康は驚愕します。

まんまと武田信玄の罠にはまり圧倒的に不利な状態となった徳川・織田連合軍ですが、ここで最初に武田軍を発見し焦った徳川方左翼の大久保忠世らが、徳川家康の命令を待たずに勝手に戦を始めてしまったため、徳川軍は、正確な状況把握や対応の検討を行う前に、武田方から猛反撃を受けることとなります。奇襲をかけるつもりが、逆に奇襲を受けてしまいます。

魚鱗の陣で攻める武田軍の中央の攻撃は分厚く、元々寡兵であるにも関わらずさらに鶴翼の陣で兵を左右に散らしてしまっている徳川軍では支えきれません。

また、ここで勝ち目がないと判断した織田方の援軍・佐久間信盛が、ほとんど戦うことなく浜名湖南方の今切まで兵を引いてしまいます。

当初は善戦していた徳川軍でしたか、こうなるともはや戦線を維持できず、高地に陣取っていた武田軍による上から勢いに乗って駆け下りてくる総攻撃をまともに受けて間もなく徳川軍は壊滅状態となり大敗北を喫します(三方ヶ原の戦い)。

敗れた徳川軍は、夏目広次を徳川家康の身代わりとし、本多忠真らを殿として残すなどして命からがら浜松城まで逃げ帰ります。

終わってみれば、徳川軍の死傷者2000人、夏目広次・鳥居四郎左衛門・成瀬藤蔵・本多忠真・田中義綱・中根正照・青木貞治・鈴木久三郎などといった有力家臣を失い、また友軍であった織田信長の家臣・平手汎秀も討ち取られるという大惨敗でした。

徳川家康は、失った求心力を取り戻すためにあえて挑んだ戦いで、さらにその威信を失墜させてしまったのです。

犀ヶ崖の戦い(1572年12月23日)

三方ヶ原で徳川軍を蹴散らした武田信玄は、徳川家康の首を取るために敗走する徳川軍を追撃し、浜松城に向かって進んでいきます。

これに対し、敗れた徳川兵が次々と浜松城に入って行ったのですが、全ての敗残兵を入れてれても浜松城は守れないと判断した榊原康政が、自らは浜松城に入ることなく500人の兵を率いて浜松城の東南側にあった西島に陣を敷き、武田軍を牽制します(改正三河後風土記)。

これは、武田軍が浜松城に攻撃した場合、遊軍としてその背後をつくための布陣でした。

城外に遊軍の布陣があるため、武田軍としても決戦後の疲れた状態で挟撃の危険をおかしてまで軽々に浜松城に攻め込むことはできません。決戦に勝利した武田軍が急ぐ必要もありません。

そこで、武田軍としては、浜松城総攻撃の準備のために兵馬を休ませることとし、浜松城の北西側に陣を張って朝を待つことにします(なお、このときの武田軍布陣地と浜松城との間には、深さ約40m・幅50m・東西約2kmもの巨大な崖がありました。)。

浜松城のすぐ近くに武田の大軍が布陣されたことにより後がなくなった徳川軍は、武田軍と浜松城の間にある崖下に武田軍を追い落としてしまおうと考え、夜陰にまぎれてこの崖の両岸に白い布を張って橋が架かっているように見せかけ、反対側から鉄砲を打ち込むと共に西島から回り込んで来た榊原康政隊が武田の陣に奇襲を仕掛けますます(犀ヶ崖の夜襲)。

三方ヶ原合戦に大勝して勝利の美酒を堪能していた武田軍は、予期しない突然の奇襲を受けて混乱します。

敵地である上、深夜であったために道がわからなくなっていた武田軍将兵は、奇襲がある方向の反対方向に逃げようとしたところで徳川軍が橋に見立てて張っていた布を目撃します。

武田軍の将兵は、真っ暗な夜間に崖上に張られた物体(布)を目撃してこれを橋と勘違いし、次々と張られた布の上に乗ろうとしては崖下へ転落していきます。

武田軍がなんとか冷静を取り戻して朝を迎えた頃には、崖下には武田兵の死体でいっぱいとなっていたそうです(なお、余談ですが、この犀ヶ崖の戦いは、同時代の史料には記録がなく後世に江戸幕府によって編纂された史料が初出であるため、その発生の有無・内容については疑問もあります。)。

掛川城からの援軍到着

そうこうしている間に、徳川家康大敗の報を聞いた掛川城主・石川家成が2000人の兵を率いてきて西島に布陣した榊原康政隊に合流します。

こうなると、武田軍が浜松城を攻めるためには、守りを固めた浜松城とは別に背後を突いてくるであろう2500人もの大部隊の遊軍を相手にしなければならないこととなりますが、先に西島を攻めるとするとそれはそれで浜松城から打って出てくる城兵とで挟撃される危険もでできます。

そのため、挟撃を恐れた武田軍は安易に浜松城や西島を攻撃出来なくなり、ここで戦線が膠着します。

野田城の戦い

武田軍が浜松城攻略を断念

三方ヶ原の戦い勝利の勢いのまま浜松城を攻略してしまおうと考えていた武田信玄でしたが、戦線膠着により浜松城の短期攻略が困難であると判断し、兵站と兵の疲労回復目的で一旦浜松城の包囲を解いて浜名湖北岸にある刑部城に入ることとします。

正確なところはわかりませんが、武田信玄の健康上の問題もあったのかもしれません。

武田軍が奥三河へ

刑部城で越年した武田軍は、元亀4年(1573年)1月10日に同城を発つこととしたのですが、浜松城に向かうことはせず、浜名湖北側を西進し、宇利峠を越えて奥三河へ向かって進軍していきます。

このときまでに奥三河・作手の奥平家は調略済であり、また長篠城は既に山県昌景により攻略されていましたので、狙いは菅沼定盈が守る野田城(東三河の要衝であった吉田城の北東約15km、長篠城からは南西10kmに位置しています。)でした。

野田城包囲戦(1573年1月)

豊川を渡河して野田城に取りついた武田軍は、すぐにこれを包囲します。

城将であった菅沼定盈は、僅か500人の兵で守っていたに過ぎなかった上、頼みの徳川家は三方ヶ原の戦いによる敗戦の影響によってとても野田城解放のための後詰を出せる状態にはありませんでした。

野田城絶体絶命の危機です。

このような状況であったにもかかわらず、菅沼定盈は武田軍との徹底抗戦を試みます。

野田城は、奥三河を支配する山家三方衆の1つである菅沼家が守る城であり、藪のうちに小城あり(三河物語)と評される小さな城だったのですが、南東につきだした丘陵の先端部を利用して築かれ、西側を龍渕、東側を桑渕、南側を湿地帯で守り、攻城ルートとなる北側に三の丸・二の丸・本丸を順に配置するという寡兵で守るのに適した城郭構造を持っていたからです。

相次ぐ勝利によって周辺で加わった兵もあわせて3万人にも膨れ上がっていた武田軍でしたが、野田城への侵攻ルートが北側からの一本道に限定されていることから大軍の利を友好的に活用できないと考えます。

そこで、武田軍は、圧倒的有利な立場にありながら、力攻めを行うことはせず、わざわざ甲斐国から金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断つことで落城に追い込む作戦を採ります。

なお、武田軍がこのとき力攻めを避けた理由として、野田城の防御力を評価していたこともあると思われるのですが、それ以上に武田信玄の体調が相当悪化し、野田城を陥落させてもそれ以上の進軍が期待できない状況であったことから急ぐ理由がなかった可能性も考えられます。

そして、武田方の金山衆は、城外から野田城の本丸と二の丸の間の位置まで掘り進み(最近までこのとき掘られた穴の跡が残されていたそうです。)、ついに野田城の包囲を突破します。

野田城開城(1573年2月16日)

金山衆に突破されるまでの間のいずれかの段階で、徳川家康もまた、何とか兵をかき集めて野田城の後詰に向かったものの豊川の対岸山頂で武田軍の包囲状況を見て浜松城に引き返したとも言われています(菅沼家譜)。

こうして後詰の希望が失われて絶望的な状況に陥った野田城は勝機を失い、元亀4年(1573年)2月16日、城兵の助命を条件に城将・菅沼定盈が降伏して野田城を開城します。

なお、菅沼定盈は武田軍の捕虜となりますが、同年3月の人質交換で徳川方へ帰参しています。

野田城の戦いの後

徳川家存亡の危機

野田城を失ったことで奥三河が武田家の支配領域となったことから、徳川家では、浜松城(遠江国)だけでなく、岡崎城(西三河)・吉田城(東三河)までがその射程範囲に入ります。

この状況下であるにもかかわらず、織田信長からの後詰は期待できないため、徳川家存亡の危機を迎えます。

武田信玄死去と西上作戦の中止

ところが、ここで徳川家康に幸運が訪れます。

野田城陥落直後から武田信玄の病が悪化し、度々喀血を呈するなどしてそれ以上の進軍に耐えられない状態となったのです。

このため、野田城攻略直後に武田軍の侵攻が停止します。

そして、武田信玄は、同じく奥三河にある長篠城に入って療養をすることとしたのですが、その病状は改善せず、遂には元亀4年(1573年)4月初旬、甲斐に撤退するという判断がなされます。

もっとも、武田信玄は、甲斐国に戻るまでその体調が持つことはなく、同年4月12日、信濃伊那郡駒場(異説あり)において死去します(甲陽軍鑑・天正玄公仏事法語)。

余談(武田信玄狙撃伝説)

以上が、野田城の戦いの概略なのですが、後世に武田信玄死亡の原因の異説が生れます。

具体的には、武田軍による包囲を受けていた野田城内に村松芳休という名の笛の名手がおり、同人が毎夜城内で見事な笛を披露していたのですが、この笛の音が野田城兵のみならず包囲する武田兵でも評判となっており、この話を聞いた武田信玄が、元亀4年(1573年)2月9日、笛の音を危機に野田城に接近した際に、野田城兵であった鳥居三左衛門に狙撃されたというものです(松平記)。

そして、このときの銃撃が原因で武田信玄が死亡するに至ったというものです。

真偽は怪しいものだと思いますが、野田城本曲輪には、武田信玄狙撃場所とされる案内板が立てられ、設楽原歴史資料館に狙撃した銃の銃身が展示してありますので興味がある方は是非。

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