木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)は、10年に及ぶ石山合戦の中で、天正4年(1576年)と、天正6年(1578年)の2度に亘って繰り広げられた、織田水軍と毛利水軍との海戦です。
石山御坊を包囲し兵糧攻めにする織田軍と、海から突破して石山御坊に物資を補給しようとする毛利水軍との攻防戦であり、2回行われた海戦の1回目の戦い(第一次木津川の戦い)は毛利水軍が勝利し、2回目の戦い(第二次木津川口の戦い)は織田水軍が勝利しています。
特に、第二次木津川の戦いは、織田水軍が鉄甲船を繰り出したことでも有名です。
この木津川口の戦いは、戦国時代で最も有名とも言える海戦であり、第二次木津川口の戦いで織田水軍が勝利して石山御坊の海上封鎖を完成させたことにより、補給が受けられなくなった石山本願寺側が石山御坊から退去し石山戦争が終結することとなるきっかけとなったという意味でも非常に重要な合戦です。
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木津川口の戦いに至る経緯
本願寺と織田信長との対立
織田信長は、永禄11年(1568年)に足利義昭を擁して上洛した後、またたく間に畿内のほとんどを制圧したのですが、石山本願寺の立地の有用性を欲し、本願寺に対し、代替地と交換に石山御坊からの退去を求めます。
石山御坊が、京にほど近く、商都大坂という経済の中心地・交通の要衝地でもあるにもかかわらず、北・東・西の三方を湿地帯に囲まれた台地の上に建っており事実上南以外からは攻め込まれることがないという要害でもあるという、軍事的・経済的・政治的な面からまさに理想的な立地だったからです。
もっとも、石山御坊は、本願寺門徒の信仰の本拠地ですので、本願寺側がこのような要求を飲めるはずがありません。
苦しい選択を迫られていた本願寺顕如は、阿波国に追い払われた三好三人衆が畿内に戻って野田城・福島城を建築し織田信長に宣戦布告したことをきっかけとして、三好三人衆と協力して織田信長と対立する道を選びます。
こうして10年もの長きに亘る石山合戦が始まります(当時の資料では石山という言葉はなく大坂本願寺というべきなのでしょうが、本稿ではわかりやすく石山と表記します。)。
本願寺挙兵(1570年9月12日)
本願寺顕如は、元亀元年(1570年)9月14日、野田城・福島城を包囲・攻撃していた織田方の陣を攻撃し始めます。
また、このとき、浅井・朝倉連合軍と延暦寺僧兵までもが同調して、琵琶湖西岸を南下して南近江に侵攻してきたため、石山本願寺と織田信長との初戦は織田信長の敗北に終わります。
そして、このときの石山本願寺蜂起に伴い、当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成による檄文が発せられ、これにより伊勢国長島でも本願寺門徒が一斉に放棄します。
織田信長による本願寺勢力殲滅戦
石山本願寺挙兵に続いて長島で発生した一向一揆に手を焼く織田信長は、本格的に本願寺を殲滅させることを決めます。
そして、このときの本願寺の勢力地として石山・伊勢長島・越前がありましたので、石山本願寺の囲みを維持しつつ、まず伊勢長島・越前から攻略することとします。
(1)対伊勢長島一向一揆戦
まず、織田信長は、元亀元年(1570年)12月13日、朝廷と足利義昭の仲介により志賀の陣を終了させると、元亀2年(1571年)5月12日、5万人の兵を動員してこれを3隊(本隊・佐久間信盛隊・柴田勝家隊)に分けて伊勢長島に侵攻し、伊勢長島一向一揆殲滅を目指します。
織田軍は、周囲の村々に放火・殲滅しながら兵を進めるものの、ゲリラ戦法による弓・鉄砲攻撃により大打撃を受け、殿を務めた氏家卜全が討ち死にするなど、このとき(1回目)の伊勢長島侵攻は、織田信長の惨敗に終わります。
織田信長は、その後、天正元年(1573年)にも再度長島を攻めていますが、このときもまたも失敗しています。
これらの戦いにおいてゲリラ戦に散々苦しめられた織田信長は、天正2年(1574年)7月、8万人の兵を動員し、直接の先頭を避け、陸上・海上から一揆勢の篭る伊勢長島の5つの城を包囲した上で、補給路を封鎖して兵糧攻めにします。
5つの城の一揆勢のうち長島・屋長島・中江の3城に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、同年9月29日に降伏開城したのですが、織田信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処しました。
そして、この時、織田信長は、残る屋長島・中江の2城については、柵で囲んで一揆勢を焼き殺し、織田信長による伊勢長島一向一揆鎮圧が果たされました。
(2)対越前一向一揆戦(1575年8月)
越前国は、元々は朝倉氏の支配地域だったのですが、織田信長がこれを滅ぼした後、前波吉継を越前「守護代」に任命して、事実上越前の行政・軍事を担当させていました。
ところが、越前国内で土一揆が発生して前波吉継が討ち取られ、その後に加賀国から招かれた一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を大将とした一向一揆の国に変貌します。
一向勢は、その後も次々と越前中の城を攻略して、越前国が、加賀国に続く「百姓の持ちたる国」となっていました。
織田信長は、天正3年(1575年)8月12日、越前国再攻略に向かって瞬く間に越前国を制圧し、北陸方面から一向宗を駆逐します。なお、織田信長は、この後、さらに加賀の南部まで攻め込んでいます。
そして、織田信長は、越前8郡75万石を柴田勝家に与えて「北ノ庄」城主にし柴田勝家を頂点として織田家の北陸方面における支配体制が確立させます。
(3)かりそめの和議
伊勢長島と越前を鎮圧し、いよいよ石山御坊となったところで、本願寺顕如が織田信長に対して自らの行為を侘びさらに条書と誓紙を納めることとなったため、本願寺と織田との間にかりそめの和議が成立します。
本願寺再挙兵と石山本願寺陸上封鎖戦
和議により一応の平穏を取り戻していた織田信長と石山本願寺ですが、天正4年(1576年)、毛利輝元に保護されていた足利義昭の呼びかけに応じて、石山本願寺がまたも蜂起します。
これに対し、織田信長は、同年4月14日、陸上に6つの砦を築い再度北・東・南の三方からの石山御坊包囲を試みます。
ところが、本願寺の北にある楼岸砦(現在の大阪市中央区)と南側にある木津砦(現在の大阪市浪速区)に阻まれて、織田方としては石山御坊への補給路を遮断できませんでした。
そこで、織田信長は、本願寺を支援する城砦群から潰していくことにより補給路を断ち切る作戦を進め、重臣の塙直政を失い、織田信長自身も負傷するなどの激戦の末、なんとかこれを達成します。
第一次木津川口の戦い(1576年7月15日)
第一次木津川口の戦い
天王寺砦を奪還できなかったために陸路を完全に封鎖された本願寺は、物資・兵糧に困窮し、西の超大国毛利輝元に対して海路による西側からの援助を要請します。
毛利輝元は、石山本願寺の要請に応じて、天正4年(1576年)7月15日、武器弾薬・兵糧を積んだ補給船600艘と、警固船300艘(児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝ら小早川水軍に因島・能島・来島の各村上水軍等)を石山本願寺に向かわせます。
毛利水軍の大船団が瀬戸内海を西に向かって進んでいるとの報告が織田信長の下に届き、織田信長も、すぐにこれに対応します。
具体的には、配下の九鬼水軍など300余艘を木津川河口に配置し、海上を封鎖することで、石山本願寺への補給を防ごうとします。
西に向かった毛利水軍は、一旦、淡路の岩屋に集結した後、和泉貝塚(大阪府貝塚市)に回航して雑賀衆らとも合流した上で北上をします。
この結果、石山本願寺に向かう毛利水軍が、待ち受けていた織田水軍と木津川河口で対峙することとなり、第一次木津川の戦いが始まります。
この戦いは、毛利水軍が、焙烙玉を用いた攻撃などによって織田水軍の安宅船10艘、警固船300艘を破って数百人を討ち取るという大勝利を収め、織田氏の海上封鎖を破ります。
その結果、毛利水軍は、ゆうゆうと石山御坊に物資をとどけることに成功します。
織田信長による敗因分析と鉄甲船建造
第一次木津川口の戦いで惨敗した織田信長は、直ちにその敗因を分析し、その原因は毛利水軍の焙烙玉に対処できなかったことにあると分析します。
そして、急いで織田水軍を鍛えても、海賊業で鍛えられた鉄砲の射程距離外から一気に詰めて高い精度で焙烙玉を投げ込んで織田水軍の船に火をつけそのまま逃走するという毛利水軍(村上水軍)の一撃離脱戦法を、練度に劣る織田水軍で対応することは不可能であると判断します。
ここで、織田信長は、奇想天外なアイデアをひらめきます。
焙烙玉を交わすことが出来ないのであれば、焙烙玉を無効化する策を考え出したのです。
燃えない船で有名な鉄甲船の建造です。
織田信長は、直ちに九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に命じ、船の外側を薄い鉄で覆った燃えない黒船を建造するよう命じます。
第一次木津川口の戦い後の毛利軍の動き
本願寺に与することにより織田信長と断交した毛利氏は、第一次木津川口の戦いの後、本格的に織田領へ進行するべく、山陽道から東進して上洛するルート(小早川隆景)、山陰道から京都の背後にせまっていくルート(吉川元春)、そして、海上から和泉国・摂津国に上陸するルート(毛利水軍・村上水軍)の三方面からの進攻作戦を開始します。
対する織田信長は、羽柴秀吉を中国方面軍司令官に任命し、毛利軍との戦いに向かわせます(羽柴秀吉は、毛利軍の防衛のみならず、毛利領への侵攻をも命じられていました。)。
紀州征伐(1577年3月1日)
そして、天正5年(1577年)2月2日、紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が織田信長へ内応したため、織田信長は、これらの手引きを基に、本願寺に味方する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に侵攻します(紀州征伐)、雑賀衆が同年3月2日にこれを降伏させます。
荒木村重の離反(1578年1月)
このようにして、一旦は海上を突破されて石山御坊への補給を許してしまった織田信長でしたが、陸上封鎖は継続できており、石山御坊に対する兵糧攻めは健在でした。
ところが、ここで織田軍に激震が走ります。
天正6年(1578年)1月、摂津国を治めていた荒木村重が離反したのです。
摂津国が石山御坊の北西部に位置していたためここが失われると石山御坊への陸上補給路が出来てしまうこと、毛利攻めのために播磨国に陣を敷いていた羽柴秀吉が挟撃されることとなりかねません。
なお、織田信長は、急ぎ荒木村重が治める有岡城を取り囲みます(なお、その後天正7年(1579年)11月19日までかかってようやくこれを攻略します(有岡城の戦い)。)。
第二次木津川口の戦い(1578年11月6日)
こうして、織田軍は、再び石山御坊の陸上包囲を完成させたため、再び石山御坊の兵站が滞ります。
そのため、困った本願寺顕如は、再び毛利輝元に対して海路による西側からの援助を要請します。
毛利輝元は、石山本願寺の要請に応じて、再び武器弾薬・兵糧を積んだ補給船と、警固船を石山本願寺に向かわせます。
ところが、このときの織田水軍は、第一次木津川の戦いのときとは戦力が違いました。
織田水軍の将である九鬼嘉隆が、試行錯誤の末に薄い鉄板で表面を覆った超大型の船舶(鉄甲船)を作り上げており、これに大砲を積み込むという巨大な海上砲台ともいえる仕上がりの船を準備していたからです。
毛利水軍が再び現れたとの報告を受けた九鬼嘉隆は、鉄甲船6隻を従えて本拠地である伊勢大湊を出発し、紀伊国の沿岸部を時計回りに進んで大坂へ向かって行きます。
この鉄甲船に対しては、途中雑賀近海を通過する際に、雑賀衆小早船からの横槍を入れられていますが、織田水軍はこれを簡単に撃沈し、再度木津川河口まで進んで待機し、石山御坊へ向かう毛利水軍の船団を待ち受けます。
そして、天正6年(1578年) 11月6日、前回同様、石山御坊に向かう毛利水軍が、待ち受けていた織田水軍と木津川河口で対峙することとなり、第二次木津川の戦いが始まります。
このときもまた、毛利水軍は、小早舟と焙烙火矢・焙烙玉を用いた戦法をとりますが、織田水軍の鉄甲舟には焙烙玉によって着火することがなく、また船の大きさの違いから鉄甲船に乗り込んで制圧することもできません。
そればかりか、鉄甲船からは雨のように大砲が撃ち込まれ、毛利水軍の船は次々と撃沈していきます。
そのため、織田水軍の鉄甲船を突破できないと判断した毛利水軍は、石山御坊への物資搬入をあきらめて帰国の途に就きます(第二次木津川口海戦)。なお、この戦闘結果については織田方による大本営発表である可能性もあります。
こうして、海上封鎖にも成功した織田軍は、同年11月24日に茨木城を開城させ、また翌天正7年(1579年)11月に有岡城が陥落して荒木村重の反乱も鎮圧されます。
これらによって、石山御坊は、陸路・海路のいずれの補給路の望みも失われます。
木津川口の戦いの後
包囲されて補給路を失った石山本願寺は、天正8年(1580年)閏3月7日、とうとう織田信長との講和に応じ、同年7月20日までに石山御坊からの退去することなどを約します。
そして、本願寺顕如は、同年4月9日に、石山御坊を嫡子で新門跡である本寛治教如に引き継いで、紀伊鷺森御坊に退去しました。
ところが、雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、織田信長に抵抗を続けるべきと本願寺教如に具申したところ、本願寺教如もこれに同調し、本願寺顕如が石山を去った後も本願寺教如が石山本願寺を占拠し続けます。
もっとも、その後の情勢悪化や近衛前久の説得により、本願寺教如もこれ以上の抵抗は不可能と判断し、同年8月2日、石山本願寺を織田信長に引き渡して雑賀に退去し、10年間に亘って続いた石山合戦がようやく終わりを告げました。なお、このときの出火により石山御坊は完全に消失しています。
木津川口の戦い、少し離れた地域で第三次が戦われたと聞きます。
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