伊賀氏の変(いがしのへん)は、形式的には、北条義時の死により空席となった鎌倉幕府最高権力者の座を、長男の北条泰時と四男の北条政村とで争った政変です。
もっとも、実質的には、北条政村の母(北条義時の後妻)であった伊賀の方が、その兄である伊賀光宗と共に、娘婿の一条実雅(藤原実雅)を鎌倉殿に据えて、伊賀一族で鎌倉幕府の権力を握ろうとしたクーデターでした。
伊賀の方と伊賀光宗のクーデターであったために、北条政村の関与は不明である上、北条政子の手腕によってすぐに鎮圧されていますので、その事実関係は必ずしも明らかではありません。
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伊賀氏の変に至る経緯
北条義時死去(1224年6月13日)
貞応3年(1224年)6月13日昼頃、鎌倉幕府2代執権であり、鎌倉幕府の実質的トップであった北条義時が死亡します。なお、北条義時の死については、病死説のほか、暗殺されたとする説もあり(明月記・保暦間記など)、その死因ははっきりとはわかっていません。
いずれにせよ、鎌倉幕府の実質的な最高権力者の死という一大事件ですので、承久の乱の後、六波羅探題として京に滞在している北条泰時(北方)・北条時房(南方)にも知らせるべく、北条義時死去の報を伝える使者が派遣されます。
そして、この使者は、同年6月16日に京に到着し、北条泰時・北条時房に対し、北条義時死去の報が伝えられます。
北条泰時が鎌倉へ(1224年6月27日)
権力者の死は、次の権力者を目指す者たちの戦いを生みます。
そんなことは、北条泰時も十分理解しています。
そこで、北条泰時は、報を聞いた翌日である貞応3年(1224年)6月17日未明(丑刻)、急ぎ六波羅を出立して鎌倉に向かいます。なお、同年6月19日には、北条時房も六波羅を出立しています。
もっとも、北条泰時は、そのまま鎌倉に直行はせず、途中で本領のある伊豆国・北条に向かい、同年6月26日、北条時房・足利義氏と共に由比ヶ浜の別邸に一泊した後、同年6月27日、鎌倉にあった本邸に入り軍備を整えます。なお、この行為により、北条泰時が北条政村を討つという風説が流れたそうです(吾妻鏡)。
北条泰時の執権就任(1224年6月28日)
この頃、鎌倉では、北条義時の後妻(継室)であった伊賀の方が、兄である伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を鎌倉殿に就任させた上で、北条政村(北条義時と伊賀の方との子)を執権に就任させようと画策している最中でした。
言わば鎌倉幕府を伊賀家のものにしようとするクーデター計画です。後妻が娘婿を将軍にしようとするという構造は、先代の北条義時の際に起こった牧氏の変と同一です。
この伊賀光宗と伊賀の方の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、貞応3年(1224年)6月28日、京から鎌倉に戻ったばかりの北条泰時と北条時房を自宅に呼び寄せ、「軍営御後見」(執権の別名)に就任させます(吾妻鏡)。
伊賀氏の変
伊賀光宗が三浦義村に協力を要請
北条政子が北条義時の後継者として北条泰時を指名したと聞いた伊賀光宗は、驚き憤慨します。
ここで、伊賀光宗は、北条政村の烏帽子親であり、御家人の中で屈指の実力を誇る三浦義村を味方につけようとします。
北条政子が三浦義村を取り込む
ところが、貞応3年(1224年)7月5日、北条政子の耳に伊賀光宗と三浦義村の密談の話が入ってきたことから、同年7月17日、北条政子が三浦義村邸を直接訪問して事実関係を問い質し、また同年7月18日、三浦義村が北条泰時邸を訪問して釈明する事態に発展します。
クーデターを防ぐ
そして、閏7月1日、北条泰時邸において三寅・北条政子臨席の宿老会議が開催され、そこに三浦義村が召喚された上で、改めて二心が無いことが確認されます。
この結果、伊賀氏の政変を未然に防がれ、以降、クーデター謀議者の処罰についての話し合いが行われることとなります。
伊賀氏の変の後
首謀者への処分告知(1224年閏7月3日)
貞応3年(1224年)閏7月3日、北条政子・北条時房・大江広元らが出席した場において、伊賀の方と伊賀一族の処分が決定されます。
内容は、伊賀の方と伊賀光宗は流罪とし、一条実雅は京に移して朝廷の裁きに任せるとされます。
他方、その他は、疑いの有無に関係なく、罪を問わないというものでした(吾妻鏡)。
伊賀氏一族の処断
そして、貞応3年(1224年)閏7月23日、一条実雅が伊賀光宗の弟である伊賀朝行と伊賀光重の同行の下で京へ向かって送り出されます(その後、同年8月16日に京に到着した後、幕府の奏請を朝廷がそのまま受け入れて朝議決定とする形で、同年10月29日、越前国への配流とされています。)。
また、同年閏7月29日、伊賀光宗の政所執事職が解任された上、領地52か所没収とし、その身柄は、二階堂行村(妻の叔父にあたります。)に預けられた後、信濃国への流罪とされています。なお、同年11月9日、京にとどめ置かれていた伊賀朝行と伊賀光重は九州へ流罪とされました。
そして、伊賀の方は、伊豆国北条郷に幽閉されています。
その後
こうして伊賀氏の陰謀は頓挫して終わったのですが、彼らに担ぎ上げられそうになった当の北条政村は処罰を免れた後、終始、北条得宗家に忠実な姿勢を貫いたために、後に評定衆・引付頭人・連署など要職を経て第7代執権に就任するなどの出世を遂げています。
また、主犯として信濃国に流された伊賀光宗でさえも、政子の死後間もなく幕政への復帰を許されるなどの寛大な措置がとられています。
この点については、吾妻鏡では北条泰時の温情とされているのですが、伊賀氏の謀反があったかすら必ずしも明らかではない、事実関係に不明な点が多い事件でもあります。